第二十六章 光の聖女 其の四
変更履歴
夢に因る“ロゴス”との邂逅から数日後、その時の予言の通りに私の元へと黒牛の家令率いる一行が現れた。
「猊下、お休みのところ失礼致します、本日は陛下からの勅令をお伝えに参りました」
タウルスはそう語りつつ懐から一通の書簡を取り出すと、二つ折りにされていた便箋を開く。
「忠実なる我が従僕である日和坊主よ、ここに新たな勅命を命ずる。
『滞る虚無』の元へと赴き、問い掛けに対して包み隠す事無く真実を述べよ」
短い勅令の内容を読み終えると再び便箋を元に戻しながら、家令は言葉を続ける。
「以上です、猊下にはこれから時計塔へと向かって頂きます。
そこには元勅使の一人である、罪人名『顧みぬ者』、通称は『振り子の悪魔』と呼ばれる者が虜囚として封じられております。
その者を封じている品が『滞る虚無』と言う名の振り子時計でして、猊下にはその時計を収容している部屋にて対面して頂きます。
それは見れば直ぐに判るものですので、後はそれに手で触れて頂ければ目的は達成出来ます。
時計塔への出入りが許されているのは、陛下以外には時計の管理を行なっている時計職人のレプスのみですので、我々は時計塔前まで同行致しますがその後はレプスの案内に従って下さい。
ただ、レプスは私共とは違い中級使用人でして猊下と言葉を交わす事は出来ませんので、何か疑問があれば私が同行している間にお願い致します」
これは“ロゴス”から聞いていたままの展開であり、予定通りに事が運んでいるのだと確信する。
銀木菟の説明だけではなく家令からも情報を得ておく方が良いかとも思ったが、今の私は『振り子の悪魔』の存在を今初めて知った体でいなくてはならない。
だからここは、家令にそう説明されても今の段階では何も判らず問うべき事も思いつかない、そういった態度を取っておくべきであろう。
その様に判断し特に訊きたい事は無いと答えると、タウルスは相変わらずの無表情で相槌と共に言葉を返した。
「そうですか、では時計塔の入口までは同行致しますのでそれまでに何かあれば仰って下さい、では参りましょう」
こうして私はいつもの様に黒牛や灰色の狼達に連れられて独房を後にした。
『聖ディオニシウスの骸』八階、時計機械室。
以前に双子姫の片割れであるアルヴムと訪れた物見塔と対を成す時計塔の内部に位置するこの場所へは、地下牢から地上へ出た後そのまま四階まで階段を上り、四階で館の北側へと続く廊下を通り抜け、北の端にある螺旋階段を登って七階まで上がった後に、館中央側の隅に配置された梯子を登りやって来た。
当初の説明通り家令一行は七階の部屋で待機しており、私一人だけがレプスと呼ばれる兎頭をした繋ぎの作業服を着た工人らしき者に付き従いその場所へと入った。
そこはその名の示す通り、大きさや形も様々な歯車や軸となっている円柱が轟音を上げて軋みつつ回り続ける機械室であった。
歯車や軸は黄土色で表面が光沢の無い滑らかな材質をしており、傍目には粘土の様に見えるが一見しただけではその素材が何なのかは判らない。
上を見上げると天井はかなり高く、どうやらこの機械室は上の階まで吹き抜けとなっている様だ。
そこにはつなぎを着た毛色が異なる小柄な兎達が無言で何らかの調整作業に従事しており、家令の説明にもあった通り彼等は時計職人であるのが判った。
窓がひとつも無い所為か壁面の燭台だけではどうにも翳る箇所が多く、職人達は皆角灯を備えておりそれを掲げながら、手にした妙に大きな工具で各々作業を行っている。
そんな薄暗い喧騒の中で、私の案内役に任命されているらしき白いレプスがこちらを見てから手招きしつつ奥へと進んで行くので、私もその後を追って進んでいく。
その道筋は人ひとりが辛うじて通り抜けられる程度の空間しかなく、直ぐ隣には止まる事無く回り続けている歯車や軸があり、少しでもよろけたりすればその回転に巻き込まれかねない。
特に私の場合は、道化に着させられている衣服が無駄に大きくて非常に広がりやすく、あちこちを抱えながらの移動はそれだけでも神経を使うもので、これで足枷まであったら本当に歯車の餌食になっていたかも知れないが、それは梯子を登る前に取り外されていたので大分救われていた。
一方案内役の白兎は当然ながら慣れているのもあり、実に容易く隙間をすり抜けていくので、時々その姿を見失なっては少し先の場所で後ろを見て私を待つのを繰り返していた。
それにしても、例の悪魔をわざわざこんな不便な場所に監禁しているのは、単に逃亡を防ぐ為だけではなくここでなければならない理由があるのだろうか。
若しかするとこの大時計と『振り子の悪魔』は繋がっていて、大時計を通じて『振り子の悪魔』の力を世界に放出しているのかも知れない。
その様な事を考えつつ案内人の後を追い掛けて行くと、やがて対角線状に位置するこの部屋の隅へと到達した。
そこには上へと続く梯子があり、梯子の先は壁沿いに細い通路が続いている。
梯子の下で待機していた白いレプスは私が近づいたのを見届けると又もや一足先にその梯子を登って行き、直ぐに姿が見えなくなったので私も急いで後を追う。
二階部分は壁沿いだけに床と言える部分があり、幅は二人がすれ違う事が出来る程度で、下の階と同様にそこでも様々な毛色の兎の職人が作業に従事している。
その壁沿いの廊下の中程に中央部分の殆んどを占める機械の中へと入っていく様な細い通路が一箇所あり、白い兎が時折振り返りつつそこへと向かって進んでいくのが見えた。
念の為同じ様な白い毛並みの兎を確認するが、他の者達は皆作業を行っておりこちらを気に掛ける様子は無い。
やはりあれが案内人らしいと判断し、私はこれまでよりも更に狭そうな機械の内部へと侵入した。
機械の内部は周囲を完全に囲まれており、足場もこれまでで最も狭く更に機構を躱す様に上下左右へと頻繁に方向転換を繰り返すので、直ぐにどの方向へ向かって進んでいるのか判らなくなってしまった。
だが道筋は一本道なので戸惑う事無く進む事が出来、程なくして案内人が立ち止まっていた場所に到達した。
そこは正確には判らないが恐らくこの機械の中心部分に当たる場所で若干開けており、自分の周囲の至る所から騒音が響いてくる。
そして2m四方程度ある床の先には、ある意味不釣合いとも言える目的の物が鎮座していた。
そこにあったのは古びた木製の振り子時計で、周囲の機械に埋もれる様に設置されている。
私の身長よりも高く見上げる程の高さがあるそれには必須であろう筈の針や振り子が無く、黄ばんだ白い文字盤は如何なる時刻も指し示しておらず、文字盤の下は何も無い空洞となっている。
ただ、その空洞には角灯の光が当たっている筈なのに、何故か翳っているかの様に暗闇で満たされているのが気に掛かる。
これが家令の言っていた『滞る虚無』なのか。
これでは振り子時計と言うよりは最早只の縦長の戸棚にしか見えないが、悪魔を封じる物品となれば『因果の書』と同様で予想だにしない攻撃をして来る可能性が高い。
そう考えて身構えつつ自然と距離を置く様に後ずさると、ほぼ隣に佇んでいた案内人が視界に入り、何となく注視する。
他の者達と同様に私よりも頭ひとつ分は背が低いのだがそれは長い耳の頂点からの計測であり、実質的な頭部までの身長で言うなら頭二つ分は低い。
その丸みを帯びた白い頭部の中でも否が応にも目を惹くのは真紅の瞳で、灯りの所為なのか銀縁の眼鏡の奥で紅玉宛らに妙に煌めいて見える。
『因果の書』の際は案内人だった司書達は退避していたが今回は同行したままでいる点や、周囲に損壊や血痕等が一切無い点を考えると、少なくとも外部に対しての危険は無いと言う事を意味するのだろうか。
そう考え直しながら辺りを見渡していると、何か違和感を感じ改めてそれへと目を向けた。
果してこの白毛の工人は、眼鏡なんて掛けていただろうか?
それに人間の掛ける物と同様の形状をしている鼻眼鏡なので、耳の位置の違いは良いとしてもレンズが目から遠過ぎて、あれでは用を成さないのではないだろうか。
更に言えば、鼻に挟んで固定しているだけの鼻眼鏡でこれまでの道中を小走りで駆け抜ける事が可能なのか。
正直追い掛けるのに手一杯でその顔なんて禄に見えていないのだから、単に私を待っている間に掛けたのを見落としただけなのかも知れない。
そんな事よりも今は速やかに『振り子の悪魔』との対談を開始しなければ。
タウルスの話では触れるだけで良いとの説明であったが、触れた後は一体どうなるのだろうか。
仕組みが同じであるのなら、“ロゴス”と同様に別空間に引き摺り込まれる様な気もするが、それならば未知の危険に対して身構えようも無い事になる。
これ以上ここで躊躇していても埒が空かないと諦めて覚悟を決めると、私は『滞る虚無』を見据えながら慎重に右手を伸ばす。
だがそれと同時に、この騒音の最中でありながら更にそれを上回る大きな鐘の音が響き渡り、反射的にその手が止まった。
「時間だ」
鐘の音が途切れた途端に聞こえたのは男とも女とも取れる随分と若々しい声であり、発生源は私の直ぐ近くからだった。
「もうそれに触れる必要は無いよ」
言葉を発したのは先程から隣に居た眼鏡の白兎で、いつの間に取り出したのか左手には燻し銀の様に黒ずみ光沢の無い古びた懐中時計が握られていた。
それには本来ひとつしかない竜頭が複数並び、若干黄ばんだ様な色合いの文字盤には幾重にも目盛や数字や記号が配置され、何本もの様々な長さの針が皆異なる速度で動く奇妙なものであった。
傍目に見ても只の時計ではないのが判り、当初の違和感がこの『事変の傍観者』の所為であったのだと確信した。
この場所に今存在し得るのは私とレプス達と『振り子の悪魔』のみの前提で、私と喋る事は許されていない筈の中級使用人であるレプスが言葉を発したとなると、それ以外に考えられない。
まるでそれを計っていたかの様に私が状況を理解した直後、白兎は再び語り始めた。
「これの中はちょっと広すぎてね、君が僕の所に来るまで時間が掛かりそうだったから、こちら側で出迎える事にしたんだよ。
いい加減この中に篭もっているのにも飽きていたし、君との予定を合わせる必要もあったから丁度良かった。
僕が君のお目当ての『振り子の悪魔』さ、ええと、君に割ける時間は残り十九分だよ」
そう宣告しつつ例の怪しげな懐中時計を隠しに仕舞いながらこちらに向き直った『振り子の悪魔』は、銀縁の鼻眼鏡に手を掛けながらそう呟きつつ目を細めて微笑する。
上級使用人以下の獣人は基本的に無表情だ、だとするとこれは変装の類なのだろうか。
いや、それ以前にどういう事なのか理解出来ないが、あの“ロゴス”でさえも逃れられていない道化の軛から、この『振り子の悪魔』は既に脱しているのだ!
『振り子の悪魔』はここから出られない様に囚われていた筈ではなかったのか!?
遭遇したばかりであると言うのに、いきなり出鼻を挫かれているこの状況に危機感を感じつつ、この後どう振る舞うべきなのかを必死に考える。
取り敢えず相手は物理的に何かを仕掛けてくる気配は無く、今はこちらがどう対応して来るかを静観している様に見える。
それは逆に言えば、私が何をしようとも応じられる余裕があると言う事だ。
気圧されるあまりに絶句していると気取られるよりは何でも良いから語るべきだと判断し、この状況では酷く月並みな言動になるが今現在囚われていない理由を尋ねた。
すると白兎は表情を崩す事無く、速やかに返答する。
「それに関しては、最初に語った内容で察して貰いたかったんだけどね、まあいいか。
その問いは前提から間違っているね、元より僕は別に囚われてなんていなかったんだよ、ただここに留まる必要があったからここに居ただけさ、その予定は君と会うところで終わる。
そして次の予定が十九分後から始まるから、それまでに終わらせる為に少し手間を省いておいた、それだけの事だよ、これで理解して貰えたかい?」
教師が不出来な生徒へと言い聞かせる様に畳み掛ける口調でさも当然だと言わんばかりに語った内容は、厳密には私が問うた事に対する答えにはなっていなかった。
だがそれでも多少は時間を稼げた事に因り、銀木菟が何度となく語っていた警鐘を思い出して冷静さを取り戻す事が出来た。
その言葉は真実ではなく、このレプスをどうにかして操り自身かの様に振る舞わせ、さも自由の身であるかの様に演出している可能性もあるではないか。
或いはここに至る道中の間に『滞る虚無』へと触れさせられていて、既に幻影の世界へと切り替わっているかも知れない。
現状を猜疑的に捉えるべく様々な憶測を考えてみるが、それを証明する根拠が無いので確信を得るには至らない。
こうして更にあれこれと思い悩んでいる事すらも、相手の術中に乗せられているのではと勘ぐってしまう。
この苦境を打破する為には下手に考えるよりも、いち早くあの名を告げた方が良さそうだ。
あの呼び名に何らかの効力がある事を期待して例の名称を口にすると、それを聞いた白兎は僅かに表情を歪ませつつ呟く。
「『事変の傍観者』か、その名で呼ばれるのは久し振りだな、僕をそんな風に呼ぶのは只一人『時変の観察者』だけだね。
彼は数多くいる知人の中でもかなり近しい方だけど、数少ない友人の中ではかなり遠い存在かな」
旧知の関係であったのはどうやら事実だったらしく、教えられていた名が的外れではなかった事に少し安堵を覚えるものの、だが決してその渾名を聞いて喜んでいる様には見えない。
話の流れからして『時変の観察者』とは“ロゴス”の事を指すのだろうが、その呼び名を銀木菟当人から聞いた事がない点を考えると、『振り子の悪魔』同様に不愉快な呼称であるのは明白だ。
だが互いにそんな渾名を付け合っている点からすると、両者には浅からぬ関係がありそうに見えるがどうなのだろうか。
そんな憶測をしている内に再び微笑を浮かべた眼鏡の白兎は、再び口を開いた。
「その名を知っていると言う事は、当然僕が何者であるのかも彼から説明を受けているだろうけどそれは間違っている、何故なら彼は僕の事をずっと勘違いし続けているから。
僕は変化の契機となる何かが起こる場面に遭遇した時、その場で必要となる全ての情報を事前に把握していて、そこで何が起こりどうなるのかの一連の変化を常に理解しているだけなんだよ。
そんな僕の力を知った彼は、その場で発生する現象自体を僕が引き起こしていると結論付けているけれど、それこそが間違いなんだよ。
これだけだと理解出来ないだろうから、もう少し説明しておこうか。
まず第一に、時とは因果律に則って連続して変化し続ける不可逆的な観念でしかなく、そこに一切の揺らぎは無い。
万物は現在の因果に縛られて存在し、それらに基づき定められた通りに変化した後に新たな因果の一因として紐付いていき、こうした無数の変動を絶え間なく繰り返し続ける。
また因果とは鎖の様に単純な一筋の連なりではなく、あるひとつの因果の要因は複数の因果の結果であり、それと同じくあるひとつの因果の結果もまた複数の因果の要因として波及する。
僕の能力はその無数の因果の断片を事前に察知する事が出来るだけなんだよ。
これを何かに例えるのはかなり難しいけど敢えて表現するとしたら、平面上に並べられたフラスコが無数に階層を成している様なものかな。
その整列しているフラスコの全てに無数の細い透明な管が生えていて、上下の階層にある幾つかのフラスコへと繋がっている。
このフラスコには様々な色の液体が入っていて、その液体は重力に従って管を通って上層から流れ落ちてフラスコの中でひとつに混ざり合い、その後下層に繋がっている管から別のフラスコへと向かって流れ出ていく。
ひとつひとつのフラスコはとある瞬間のひとつの存在で、フラスコが並ぶ平面は一瞬毎の時間の状態を現わし、各階層が時間の推移で上層が過去で下層が未来を現わしている。
そして各フラスコを流れる液体は現在の万物の状態で、液体の存在している階層が現在という事になる。
因果とはこのフラスコ間を繋いでいる管であり、理論的にはこの管を手繰れば未来を把握出来る事になるけれどそれは容易ではなく、まず最初に知りたい対象物がどのフラスコなのかを判別しなければいけない。
仮にそれを突き止められたとしても、それだけでは単に影響を及ぼす要因が判明するだけでしかなく、実際に対象物がどの様な状態となるのかはその位置のフラスコに入る液体の状態を予想する必要がある。
その為には現在の状態から管を辿り混ざり合う全てのフラスコの液体を確認し、どの様に混合されるのかを推測しなければいけない。
この前提で僕が実際に出来るのは現在より先の液体の状態を知る事だけで、液体の流れを阻む事も出来なければフラスコや管に触れる事すら出来ず、それも見えるフラスコはごく一部のみでその対象は僕の意思で決められない。
これでも僕が時間を操る力を持っていると言えるかい?」
冷やかな笑み崩す事無く『振り子の悪魔』が語ったのは“ロゴス”の説明に対する自身の力を否定する反論であり、又してもここに寄越された前提が覆る様な言動であった。
その内容は詭弁にしては理に叶っていて、これらもこちらを惑わす目的の言葉であって相手にせずに聞き流しておくべきなのか、それとも今正に銀木菟の見当違いが露呈しているのかの判別がつかない。
その為にどう対応するのが正しいのか判断がつかず、一切の反論も出来ずに立ち尽くしたままの私を眺めながら、アルビノのレプスは溜息混じりに予期せぬ問いを口にする。
「やれやれ、その様子だと未だ他にも彼に何か吹き込まれている様だね。
僕の事を警戒する理由は大方判っているよ、僕とは余計な会話には応じない様に彼から言われているのだろう?
折角の貴重な対談の場だと言うのに、何とも味気ないなあ、でもそもそもその判断が正しい根拠は何処にある?
僕の事をどうこう考える前に君は彼について知るべきではないのかな、『時変の観測者』、彼について君は何処まで理解出来ている?」
思い掛けないその問いに、これまでに無く強い動揺を感じずにはいられない。
現状では最も信頼せざるを得ない存在だと解釈しているが、必ずしもそれは信用に足る存在と言う訳ではない。
言うなれば、消去法で考えた末に“ロゴス”が最後に残っただけで、実のところは誰一人信じないのが正解かも知れない。
そうした危惧があるのは百も承知でここに来ている心算だったが、少なくとも自分よりも旧知であろう存在から改めてそれを問われると、どうしても無関心を装い切れない。
そんな私の動揺を見抜いたかの様に満足げな薄笑いを浮かべる『振り子の悪魔』は更に言葉を繋ぐ。
「彼が達成すべき使命としているのは知的探求で、あらゆる世界の歴史を知り尽くしたいと望んでいる。
そこで彼は自らで調べたり他者の記憶を覗いたりして、書き綴るべき情報を掻き集めている。
そうやって収集した情報の中で確実に正しいと言えるのは常に過去だけだ、だから彼は事実確認の取れる過去だけを信じて受け入れ、未確認な未来の情報に対しては常に懐疑的に捉えている。
そしてその未確認の情報を確定させたいと渇望し続けている、だからここに囚われて自由を奪われてさえも尚情報収集が可能な状況だけは死守していた。
逆に言えば彼は情報収集さえこなせるのならその他に何を失おうとも厭わない、つまり彼の本質とは知識を餌として貪る事しか頭に無い怪物なんだよ。
彼は自らの存在意義に賭けて己の知識を披露する際に偽る事はしないだろうけど、では知識以外の言動についてはどうなのかな? そういった点にももっと注意を傾けるべきだと思うよ」
視線を逸らす事無く微笑のままにそう忠告した白い兎は、その赤い瞳を細めつつ更に話を続ける。
「このままだと僕が彼を忌み嫌っているのだと勘違いされそうだから、少し弁明しておこうか。
僕が望むのは予告された未来の反映を見届ける事だけど、でも僕が持つ力はその時点で確認する際に最低限必要となる場所の知識を得ているに過ぎない。
それも自分で見たい場所の選択も出来ないければ、僕の意思でそれを見る事も出来ずただ一方的に与えられるだけだ。
でもそうやって与えられた僅かな未来であっても僕は確認しなければいけない、何故ならそれが僕のすべき使命だからね。
こればかりはどうしてそう思うのかと尋ねられても、本能的にそう思ってしまうのだからどうにも答えようがないな。
まあそういう訳で僕にとっては、確認が完了した場所にはもう何の意味も無い。
彼と僕は共に時の推移について拘っているけどその方向性は真逆であって、彼は過去に執着しているのに対して僕は未来にしか興味がない。
彼が集める過去の記録なんて、僕からすれば用済みで無価値なものだ。
言うまでもなく時が進んでいる限り変化は常に起きている、それが無数に存在する人や国や世界の全てに発生し続けている。
それを全て掌握するなんて面倒な事は決して思わないし、況してや全てを記して残したいなんて僕には全く理解が出来ないね。
逆に彼からすると、僕は多少なりとも未来を知り得ていながら、それを活用もせずに延々と破棄している事になる。
様々な世界で起こる史実をひとつでも多く把握したいと望む彼からすれば、願ってもない力をただ眺めるだけにしか使っていないと言うのは、不毛に浪費している様にしか見えないのだろうね。
そればかりか僕こそが世界の変革を齎す要因だと考えていて、その仮定の上で導き出した推論が例の相対的時間軸と言う訳だ。
いくら自分では理解が及ばないからと言っても、流石にこれは度の過ぎた言い掛かりじゃないかな。
こうした経緯から僕は彼の事を『時変の観測者』と呼び、彼は僕の事を『事変の傍観者』と呼び合う様になった。
この渾名は互いに皮肉を込めて付けた名であるのは否定しないけど、だからと言って僕は敵意までは持っていやしないさ。
どちらかと言うと、彼の方が一方的に敵愾心を抱いているのではないかと思うよ。
彼が僕の事をどう思っていようとそれは構わないけれど、根拠の無い妄想を喧伝されて貶められるのは心外だな。
初見の相手が自分に対する偏見や歪んだ先入観を持っていると言うのは、あまり気分の良いものではないからね。
僕は至極当然の指摘をして極めて当たり前の主張をしている心算なんだけど、君だって僕と同じ立場だったらそうは思わないかい?」
含みのある微笑を最後まで崩す事無く語った『振り子の悪魔』は、同意を求めるかの様に小首を傾げながら真紅の瞳孔をこちらに向ける。
だが私はその求めに応じる事無く沈黙で以って意思を表すと、その態度に白い悪魔は少々不服そうにこちらを見上げた。
「あくまで僕とは口を利かない心算なのかい? それ程までに『時変の観測者』の事を信頼しているのか、それとも単に僕に対する猜疑心が強いだけなのかな?
じゃあもう一度だけ尋ねるよ、この最後の質問に対する返答で君の今後の運命が決まる、だから良く考えて答えて欲しい。
今も尚囚われの身で過去の記録を集めるだけの『時変の観測者』と、既に自由の身で且つ未来を知る力を持つ僕、君はどちらを選ぶ?」
最後の最後でその表情から微笑を消した白兎の目を見るに、その問いがこれまでになく強い意味を持っているのが感じられる。
恐らくこれまでの一連の語りも全ては私を懐柔する為のもので、今その成果を求めているのだろう。
その様な重大な問い掛けであっても、私の対応は既に決まっていた。
これまでの『振り子の悪魔』の主張は的を得ている様に思えるし、その語られた内容には明らかな矛盾や不自然さは見当たらない。
それに銀木菟の言葉が正しいと言う確証を得ていない点も、指摘通りであり否定出来ない。
だがそうだからと言って、必ずしも『振り子の悪魔』の言葉が正しいと言う論証になりはしない。
何故なら『振り子の悪魔』の主張にも一切の確証が無いからだ。
そうなるとどちらに従うかはこの後の関係性で判断せざるを得ない。
であるなら恐らくこの後直ぐにここから去ると明言している『振り子の悪魔』に従うよりも、この館を脱するまでは同じ境遇にいる“ロゴス”を重視するべきであろう。
この選択を選ぶべき根拠として、少なくとも銀木菟には私を利用したいと言う意思があるので私が必要であると言えるが、『振り子の悪魔』にはそういった道理も無い点が上げられる。
それにもし『事変の傍観者』が正しいとするのならば、彼は運命を変える力など持っていないのだから、敢えて従う必要も無く必然的に事は為される筈だ。
そんな私の結論を察したかの様に、赤目の兎は諦めた様子で両肩を竦めつつ軽く鼻を鳴らすと、予期せぬ感想を漏らした。
「判った、うん、予定通りの返事だね」
こちらの困惑を他所にそう満足げに呟くと、今度は懐から例の懐中時計を取り出して時刻を確認しつつ口を開く。
「さて、そろそろ出発の時間なので僕はこれで失礼するけど、最後にこの後の事を少しだけ話しておこうか。
僕が消えると同時にこの時計塔の大時計は停止して、君の使命は完了だよ。
その後この世界は『時変の観測者』が望んだ状態へと推移する。
僕を捕らえて服従させたと思い込んでいる小さな王様にとって、この推移はさぞかし衝撃的なものになるだろうな。
あの性格からして大層機嫌を損ねる事になると思うけど、それはまあ致し方ないね。
おっと言い忘れるところだった、未だ名乗っていなかった。
これ以上『事変の傍観者』なんて嫌な渾名で呼ぶ相手を増やしたくはないからね。最後になってしまったけれど僕の本来の名を伝えておくよ。
僕の名前は“ラプラス”、君が世界に変革を齎す存在であれば再び僕と出会う事になる。
それが実現するか否かは君の運命次第だ、その日が来るのを楽しみにしているよ」
そう言うと“ラプラス”は『滞る虚無』へと歩み寄り、光の差し込まないその中へと飛び込んだ。
するとまるで闇に溶ける様にその姿は消えてしまい、その直後に振り子時計は唐突に真っ二つに裂けて床に倒れた。
反射的に飛び退いたが直ぐにその残骸を確認すべく近づくと、もう特殊な力は失われているのか只の振り子時計の形状をした木の箱でしかなくなっており、奇妙な闇はすっかり消え失せていた。
それに呼応して周囲の轟音が徐々に小さくなり始めると共に歯車や軸の回転が低下し、そしてものの一分と経たずに機械仕掛けは停止した。
それと入れ替わる様に兎達が慌てふためいて走り回る足音らしき不規則な騒音が響いてくる。
どうやら何かが起こったのは事実の様だが、しかしそれよりも気に掛かったのは“ラプラス”の最後の台詞だ。
あの言い様はまるでそれまで雄弁に語っていた内容を全否定し、全てが“ロゴス”の推測通りであったかの様に聞こえた。
それがこちらを惑わす恣意的な表現でしかないのか、それともそれまでの弁明が全て虚言であれこそが真実だったのか。
こうして最後の最後まで不可解なままに、謎多き『振り子の悪魔』との対面を終えたのであった。




