第二十五章 太陽の王子 其の一
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『聖ディオニシウスの骸』四階、謁見室。
私はそこでまたしても件の漫談を聴かされていた。
「やだやだやだ! 絶対嫌! 連れてってくれなきゃやらないもん!」
甲高い白き王女の放言が室内に響き渡る。
「アルヴム様、そんな我儘を仰らずにどうかお勤めを果して下さいませ、これは陛下からの御指示なのです」
それに相反して女にしては若干低い山猫の侍女の声の諌言がその後に続く。
「だってだって、嫌なものは嫌なの! そんな事ばっかり言うシルシルなんて大っ嫌い!
シルシルのけちんぼ! 言う事利かないって、お父様に言いつけてやるんだから!」
だがそんな侍女の言葉を打ち消す様に即座に奔放なるお姫様の激しい反論が響く。
「アルヴム様、毎度の事ですがわたくしはアルヴム様の召使ではないのですから、その様な事を仰っても無意味です。
何時までも駄々を捏ねれていると、逆にアルヴム様の方が陛下からお叱りを受ける事になりますよ、それでも良いのですか?」
お姫様の畳み掛ける罵声にも臆する事無く、山猫はどうにかして言う事を利かせようと諌め続けるが、全く効果は無い様だ。
「もう顔も見たくない! シルシルなんかどっか行っちゃえ! セルヴス! 今すぐシルシルをここから追い出して!」
このやり取りを私が牢獄から連行される前から行なっていたらしく、私が入室した時点で既にシルウェストリスの顔には疲労の色が見受けられた。
それに対して王女はと言うと依然として乱暴に四肢を振り回し抵抗を続けており、一向に屈する気配は無い。
私が到着してからもこの不毛な罵り合いは延々と続き、そしてそれは何時まで経っても堂々巡りで埒が空かない。
この日の徴集は前とは違って午前中からであったからなのか、以前にも増してアルヴムは元気があり全く勢いも衰えず、ただ傍聴しているだけでも流石に辟易として来る程だった。
しかしこのお姫様は何処に行きたがっているのだろうか、具体的な名称が出てこないので全く判らず、それだけが気になるところだ。
彼是三十分は経過したのではないかと思われる頃になると、遂に侍女の方が根を上げてしまい口論に間が空いた。
「……判りました、アルヴム様のお望み通りに致します。
その代わり、速やかに代行の儀式を執り行うと約束して頂けますか?
その約束が出来るのなら――」
侍女の妥協案を最後まで聞く前に、奔放なる王女はその真髄を発揮する。
「本当!? シルシルありがと! シルシル大好き!
ヴルペス! 早く連れてって! ねえねえ早く早く!」
一瞬で掌を返し満面の笑みへと変わったアルヴムは根負けした侍女へと惜しみない感謝の言葉を投げ掛けると、背後にいる狐の人形師の方を向きながら身体で車椅子を揺すりつつ催促し始めた。
「猊下、儀式を執り行う場所を変更させて頂きますので、ご同行願いますか」
大きな溜息と共にこちらへ振り返ったシルウェストリスの指示に、私は同情的な意味合いも込めて無言で頷いた。
しかしこれ程までにアルヴムの望む場所とは一体何処なのだろう。
せがむ白き王女に促がされる様に、我々一行はその謎の場所へと向かうべく謁見室を後にした。
『聖ディオニシウスの骸』八階、左腕の塔屋上。
私は二人の近衛兵に連行されて、謁見室を出て廊下を進み大広間と中庭上部に当たる吹き抜けに接する回廊を通ったその先にある螺旋階段を四階分上がり、王女一行よりも一足先にこの場所へと到着した。
ここからは城館のみならず城壁やその外側の風景を含む周囲一帯を一望出来、この世界では昼間である事を現わす真っ赤な空にはまるで洞の様な黒い太陽が浮かんでいるのも見える。
この場所より高いのは、この屋上の四隅にある四つの尖塔と物見塔の反対側に見える時計塔と離れた場所に見える屋根の上の鐘楼らしきものくらいで、それ以外に視界を妨げるものは何も無い。
城館中央側の階下を見下ろすと、血肉で出来た赤黒い壁とは違い骨が敷き詰められているらしき白い屋根が見える。
更に視線を城の周辺まで移せば、最初にこの世界に現れた際捕らえられる前に通って来た白い一筋の道が渦を巻きつつ下る丘陵や、その道の先に広がる平野や点在する集落と地平線の彼方に並ぶ山脈までもが見えている。
こうして見るとこの世界が極めて異質でありながら実に精密に作り上げられている事に気づかされ、改めて道化の為しえた偉業に圧倒される。
果して己もこの規模のものを構築出来る力があるのかと問われれば、とてもではないが頷く事は出来ないだろう。
これこそが真の意味で神になると言う事なのだろうか。
それ程の存在を敵に回して本当に勝機があるのかと畏怖の念に気圧されそうになった時、どうやら王女一行が着いたらしく螺旋階段の方から姦しい声が聞こえ始めた。
「ねえねえ早く早く! ねえってば!」
車椅子を手足で叩く音と共にアルヴム王女の急かす声が聞こえ、それに応じる様に侍女の声が聞こえて来る。
「アルヴム様、そんなに動かれては危険ですから、もう暫らく大人しくしていて下さい」
車椅子の王女は一体どうやってここに来るのかと思っていたのだが、車椅子ごと四人の鹿頭の近衛兵が担ぐ形で運び込んで来た様だ。
その重厚な作りからして相当な重量がありそうな車椅子であったが、セルヴス達は顔色ひとつ変えず殆んど揺れる事も無く静かに搬送しており、程なく車椅子は屋上階へと到達して床へと下ろされた。
ここに到着するなり急に静かになった白き王女は、身を乗り出す様に遥か彼方の眺望を眺めるとその動きを止めた。
人形師のヴルペスは無言でシルウェストリスへと目配せすると、アルヴムの見つめる方向へと車椅子を押して行く。
その様子を眺めていた侍女は景色に見惚れる姫から溜息と共に視線を逸らすと、私の方へと向き直り一礼の後に語り始めた。
「猊下、この度はこの様な場所までご足労頂きまして誠に申し訳ございません。
陛下に代わり召喚の儀式を執り行うに辺り、アルヴム様達てのご希望でどうしてもこちらでとの事でしたもので。
アルヴム様はああなると暫らくはご自身の世界に入ってしまうので、猊下には少々お待ちして頂かなければなりません。
重ね重ね申し訳ございません」
そう言い終えると山猫の侍女は深々と頭を下げた。
そう告げられて王女を改めて見ると、瞳を大きく見開き惚けた様に口も開いたままで真昼間の夕景に魅入っていて確かに様子が明らかに違っており、これは言われた通り暫らく時間が掛かりそうな気配だ。
折角この様な地理を掌握出来る場所へと来ているのだから、そういった情報を得る事は出来ないだろうか。
意図せずに連行されたと言う今の状況を考えれば、侍女にその問いを投げ掛けても不自然ではないし、私への負い目もある今なら多少の融通も利くかも知れない。
そう考えて私がこの要求を提案すると侍女は視線を外して少々考えていたが、そう待たずに再びこちらを見据えて返答する。
「城外についてはその許可を得ておりませんのでご説明し兼ねますが、当館内についてであれば可能です。
ではアルヴム様が儀式の準備に入られるまで、わたくしから当館についてご説明させて頂きます」
こうして山猫の侍女に因る解説が始まった。
「この『聖ディオニシウスの骸』は、『聖櫃』と呼ばれる城壁と城壁内に建てられた三つの館で構成されております。
最も大きいのが地上四階からなる『躯幹の館』で、当館は中庭を囲む形状をした建物です。
そして当館には付帯する形で四つの塔が立っており、今わたくし達が居るのが『躯幹の館』の北東に建つ『左腕の塔』です。
『左腕の塔』は『躯幹の館』の上に作られた塔で、高さは『躯幹の館』五階から八階までの三階建てでございまして、今わたくし達がいるこの八階より上は二階相当の高さがある尖塔となっております。
ここはスクローファ達が周囲の哨戒の為に常駐している物見塔となっており、最上階となる四つの尖塔からは全ての方角を見渡す事が可能です」
侍女の説明の通り、梯子で上る四隅の尖塔で哨戒する衛兵の詰所であるらしく、我々一行が到着する前から伝令か或いは交代要員らしき四人の猪頭の衛兵が待機しており、時折螺旋階段を上がって来た衛兵と入れ替わっている。
尖塔部分の梯子や骨組みは大腿骨を癒着させて出来ており、あの大柄な猪が昇り降りしてもびくともしない強度がある様だ。
それらをひと通り確認するとシルウェストリスへと視線を送り、次の説明を促がして解説を再開させる。
「次にこの物見塔と対を成すのが北西に見える『右腕の塔』でして、あちらもここと同様に『躯幹の館』の上に立つ塔で時計塔となっております。
『右腕の塔』は地上五階から九階までの五階建てで、八階から九階の部分が時計塔となっております。
この時計塔がエデンでの標準時間を表しておりまして、エデンの民達は時計塔の時間に基づいて生活を行なっています」
侍女の指差したここから北東に当たる向かい側へと目を向けると、そこには少し見上げる高さで聳える巨大な時計が見えた。
この距離で時計塔を見ると、最初にこの地に現れた際は判らなかった詳細が確認出来た。
以前に時刻を確認した時は暗くて良く判らなかったが、黒色の文字盤の上にある長針短針と文字盤の時刻を表す十二方向の線は、どれも白い肌の人間が張り付けられていた。
長針は成人二人が縦に結合されていて短針は一人で構成され、文字盤の線は十二人の幼い子供が並んでいる。
黒い文字盤は黒い毛髪を持つ頭皮を剥いで敷き詰められているらしく、風に戦いで表面が波打つ様に揺らいでいるのが見えた。
以前に見た時とは建物の角度が異なる点からして、どうやらこの時計塔には四面共に文字盤が配置されている様だ。
あの時計が本当に正確な時を刻んでいるのかは疑問だが、とにかくこの世界の時の流れはあの薄気味悪い大時計に因って定められていると言う訳だ。
私からの合図を待つ侍女へと相槌で答えると、次の解説が開始された。
「この二つの塔に対する様に対を成すのが、中庭を越えた向こう側に見える残る二つの塔で、あちら側の塔は『躯幹の館』に併設する形で建っております。
併設と申しましても四階までは『躯幹の館』と完全に繋がっているので、実質的に館と区分けされているのは五階より上層階の部分となります。
二つの塔の内『右腕の塔』の並びに見える南西にあるのが『右脚の塔』でして、あの塔は礼拝堂となっておりここからでも屋根の上に突き出た鐘楼が判るかと思います。
礼拝堂は地上五階から六階までの二階建てで、その上にある鐘楼部分は七階から九階までの三階分の高さがあります。
あの鐘楼の鐘は慶事や弔事の際に鳴らされているのですが、それ以外に有事を知らせる警鐘としても使われております」
時計塔から左方向へと視線を移すと暫らく白い三角屋根が続いた先に、一階分高いアーチ状の屋根の上に突き出た鐘楼があるのを確認した。
シルウェストリスの説明の通り鐘楼はあったが、その内側にあるべき筈の金属製の巨大な鐘は無く、その代わりに鐘の形状をした何かが収まっていた。
その何かの表面には隙間無く半球状の人間の顔の部分だけが張り付いており、ここからでは距離があって明確には判らないがそれらの顔は皆一様に目を閉じて眠っている様に見える。
無数の人間の顔の塊を当然の様に鐘として説明する山猫の言葉やその表情に一切の淀みや動揺は見られず、どうやらこの世界に於いてはあれは鐘と言う事になっているのだと理解する他無いらしい。
果してこの人間の鐘の音色はどの様なものなのかが気になったが、道化の趣向であろうからさぞかし不快な音色であろうと思われ、直ぐに考察を止めて速やかに次の説明を促がした。
「『右脚の塔』と対を成す南東には王族の方々の居住場所となっている、言わば天守塔である『左脚の塔』がございます。
高さは地上五階から七階までの二階建てで、五階にジェスター陛下の公務を執り行う為の部屋があり、六階と七階に陛下及びアルヴム王女殿下とニグルム王女殿下の私室がございます。
この塔には中級使用人以上しか立ち入り出来ず、更に私室内に入れるのはわたくし共上級使用人のみとなっております。
ここまでが『躯幹の館』の説明となります」
この程度の情報はあの銀木菟なら既に掌握済みであったかも知れないが、いつか倒すべき相手の居住場所を直接確認出来たのは有益であった。
私は再度天守塔を確認してからシルウェストリスへと相槌を送り、それを見て侍女は解説を再開する。
「『躯幹の館』以外の建物は二棟ございまして、ひとつがこの『左腕の塔』に隣接して下に見える衛兵達の兵舎である『頭の館』です。
もう一棟が『右腕の塔』の隣に建つひと回り小さい『右拳の館』でして、国賓が来館された際の従者の方々の宿舎となっております」
北側の縁から下を見下ろすと、ほぼ正方形の屋根をした大小二つの建物があり、こちら側にある兵舎からは猪頭の屈強な衛兵が出入しているのが見えた。
だが向こう側の宿舎の方は、以前に黄金の女王一行が来た時にでも利用したのかも知れないが、今は使用されていない様で一切の出入りは見られなかった。
もし徒歩で城外への逃亡を図る事になればこれらの施設も把握しておくべきであろうかと思い、一応確認した後に次を促がすべく相槌を返す。
「これらの館を取り囲む様に張り巡らされている城壁が『聖櫃』で、六つの城壁塔とひとつの城門を備えており、有事の際の外敵の侵入を阻む為のものです」
周囲を見渡すと三階程度の高さの壁がそそり立ち、その壁の継ぎ目となる六ヵ所の角に当たる箇所には塔が立っていて、縦に長い六角形の形状を形成していた。
そして私達一行がいる側から見える北側の城壁には、跳ね橋が上げられ閉ざされている城門が見える。
説明では城門は只ひとつの筈なので、恐らくあれが私が捉えられた際に見た門なのだろう。
こうして侍女の解説に因りこの道化の城の全貌を把握した事で、何故建造物の各所を現わす名称が全て人間の身体の部位なのかと言う疑問が解明された。
ここから全貌を見るまでは、只単に生ける城と言う点に託つけているだけかと思っていたのだが、それだけではなくこの建造物が体現しているのが死そのものである事が判明した。
首を刎ねられ左手と手首で切断された右腕を天に掲げ両膝を立てた亡骸が棺に納められている姿、そこから想像出来るのはそれ以外に無い。
白骨の丘の上に建つ棺を模った城壁に囲まれた骸の姿を模した生ける居城、これは明らかにあの道化の意向が反映されたものなのは間違いなく、何処までも悪趣味なその趣向には不快感しか感じない。
だがこの建物の構造を理解する事が出来たのは、今後の行動を考えると非常に有意義であった。
「これで当館についてひと通りご説明致しましたが、何か質問はございますでしょうか。
わたくしで答えられる範疇であればお答え致しますが」
知りたい事は山ほどあるが、それらは流石に回答を得られる筈も無いものばかりなので、これ以上余計な追求はせずに置く方が賢明であろう。
特に質問は無い旨を伝えると侍女は了承の意で頷いた後に、ずっと遠方を見つめている王女とそれに付き添う狐の男を一瞥し、直ぐにその視線に気づいたヴルペスは首を振って無言で答えた。
どうやら未だアルヴムの意識は遥か彼方へ囚われ続けている様だ。
山猫の解説を聞いている間も幾度となく様子を窺ってはいたが、王女は最初に移動した屋上の北側の端から全く動いていない。
そこから見える風景と言うと、白骨の丘の麓に広がる草原とその中に点在する複数の集落くらいなもので、この遠距離からそれを見ても動いているものは胡麻粒程度の大きさでしか見えない筈だ。
それとも更に動きの無いもっと遠くの山脈や空を見ているのか。
果してそんな退屈なものを、あの奔放で気紛れなお姫様がずっと黙りこくったまま見つめていられるのだろうか。
それに普段なら王女の暴走を常に諌めて来ていたのに、今回ばかりは一切止めさせようとしない山猫の様子にも疑問を覚える。
その点について問うても回答は得られそうもないが、少々質問内容を変えたなら返答が得られるかも知れない。
そう考えた私は侍女へと王女が何を見ているのかについて問い掛けた。
「アルヴム様が御覧になられているものですか……」
シルウェストリスは返答に窮したのか、繰言を漏らして暫らく沈黙した後に、口を開いた。
「……それは判りません」
返答としては安直に風景を見ているのだと言われるか、或いはそれは答えられないと回答拒否されるかの何れかではないかと予測していたのもあり、私はその意外な言葉を聞いて少々驚いた。
私の沈黙を疑念と判断したらしき山猫の侍女は、更に言葉を注ぎ足した。
「アルヴム様は時々無性に外の景色をご覧になりたがりまして、その都度ここへとお運びしております。
ここにお連れすると今と同様に夢中で観賞されるのです、わたくし達には単なる風景にしか見えないものを。
観賞されている間は上の空でして、こちらからの言葉も殆んど聞いてはおられません。
後ほど何をご覧になっているのかお尋ねしても、アルヴム様ご自身もそれが何なのか判っておられないらしくて、よく判らない説明をされるだけです。
一体アルヴム様は何を見ておられるのでしょう」
僅かに困惑の表情を浮かべつつシルウェストリスが珍しく意味深長にそう語ると、再び王女へと視線を向けた。
私も追随してアルヴムと人形師の方を見るが、どちらも先程から変わった様子は見られない。
「逆に教えて頂きたいのですが、猊下には何かが見えますでしょうか」
侍女の問い掛けに答えるべく私も王女の見ている方向を凝視してみるが、やはり特に変わったものは見えない。
若しかするとアルヴムと同じ場所からしか見えないと言う可能性もあるのかも知れないと思い、侍女へと王女の傍に近づく許可を求める。
「判りました、セルヴス、猊下をアルヴム様のお隣にお連れしなさい」
侍女からの了承の返事を得て二人の近衛兵と共に白き王女の元へと近づくが、1m程手前のところで鹿達は立ち止まり私の両腕から手を離した。
どういう事かと私も立ち止まって侍女へと振り向くと、ほぼそれと同時に声が発せられる。
「王族の方々にこちらから接する事が許されているのはわたくし達上級使用人だけですが、猊下には今特例としてそれを許可致します。
ですので猊下お一人でお進み下さい、ですがくれぐれも軽率な行動は起こさない様お願い致します。
セルヴス、警戒を」
その言葉を聞いてこれは若しかすると千載一遇の機会ではと期待するも、その後直ぐに二人の近衛兵は抜刀しこちらへと切っ先を向けて構えた。
これでは王女へと何かを仕掛けようと企んでいても、目的を為し得る前に斬り殺されるだろう。
ここは余計な事はせずに言われた通り王女の奇行を確認するに留めた方が賢明だと改めて、王女の隣へゆっくりと歩み寄った。
車椅子のすぐ傍まで近づくと、狐頭の人形師がこちらへと視線を向け、狡猾そうな眼を細めると同時に長い口を僅かに開く。
その薄ら笑いが何を意味するのかも判らないが、それ以上何かをしてくる気配も無いので相手にせずに素通りして車椅子の左隣に並ぶと、王女へと視線を向ける。
私が足を動かす度に鳴る鎖の音は決して小さくなくそれ相応の騒音を立てていたが、それでも王女はこちらの様子に気づく素振りも無く依然として遠くを見つめ続けている。
そんなアルヴムは、普段は稚拙な態度と行動で相殺してしまっている本来の資質を存分に発揮していた。
澄み切った琥珀色の瞳と豊かな輝く金髪を引き立てるきめ細かな白い肌、それは宛ら精巧に作られた陶磁器人形を髣髴とさせる清楚で無垢な美しさを放っていた。
その様子は宛ら何かに魅入られているかの様であり、白昼夢でも見ているのではないかと疑いたくなる。
改めて夢見る姫君を見据えるとその視線は水平より若干下方に向いており、眺めているのはどうやら平野の辺りなのが判った。
だがその方向を確認しても特にそこまで気を惹く様な物も見当たらず、ただただ長閑で牧歌的な風景が広がっているだけにしか見えない。
どれだけ目を凝らして見ても何の変化も無いので再び王女へと視線を戻したその時、その小さな唇が僅かに動き何か言葉を呟いた。
それは吐息と変わらない程にあまりにも小さな囁き声で聞き取れず、たとえ読唇術が使えたとしても読み取れたかは判らない程に微細な動きだった。
一体何を呟いたのか非常に気になり、再度何かを語るかも知れないと思い更に王女へと近寄ると、唐突に私の視界へと人形師の腕が映り込んだ。
「猊下、それ以上はご遠慮を」
その警告はいつもの凛とした侍女の声ではなく、初めて耳にしたヴルペスの低く囁く様な擦れ声で、それに数瞬遅れて近衛兵達の刃が首筋に突きつけられるのを感じた。
この使用人も武装こそしていないがその俊敏さは鹿達に劣らず、やはり只の従者ではなさそうだと痛感しつつゆっくりと王女から離れると、それと同時に刃も離れていく。
その時に生じた沈黙を狙い定めていたかの様に、私の直ぐ近くで小さな金属音が響き渡った。
忌々しい『屍諫の守護天使』の立てる雑音とは違いその音は音楽的とも言えるとても澄んだ音色で、徐々に早まる旋律を奏でた後に途絶えた。
その楽音の正体は黄金の指輪で、どうやらアルヴム王女の指から抜け落ちた様だ。
それはうら若き王女に合わせてなのだろうか道化的とも言える歪な意匠も無く、極めて細身で且つ白の手袋の上に付けられており然程目立たなかったのもあって、私は今までその存在に気づかなかった。
指輪は私の足元近くに転がっていたが、先の一件の直後と言う状況で下手な行動を取るべきではないと判断し、ここは敢えて動かずにいた。
まるで私を試していたかの様に数秒の間を空けてからゆっくりと指輪へと近づき右手で拾い上げたヴルペスは、相変わらずの薄笑いを崩さずにわざとらしく視線を合わせてから王女の元へと戻っていく。
その際に人形師の左手の動きが気になり嫌な気配を感じて振り返ると、近衛兵達が後ずさりながら剣を下ろしているのが見えた。
どうやらあの狐は私の様子を窺いつつ、何かをしようとした場合の指示を事前に鹿頭へと下していた様だ。
ここで幾つかの疑念が脳裏に浮かび始める。
もしあの指輪を拾おうとしていたら、セルヴス達は私をどうする心算だったのだろうか。
狐の人形師はわざとその機会を作ろうとしたのか。
それ以前に、山猫の侍女が近衛兵から離れての接近を許可したところからして、不自然ではなかったか。
若しや今の一件は始めから、私の反意を試そうとしたのではないか。
上級使用人であれば、ただ命令を聞いてその通りに動くだけの存在ではなく、通常の人間の様に自ら考え判断し行動を決定している。
それが牛頭の家令や馬頭の執事ならば城館内で発生する業務の仕切りであり、山羊の司書達ならば書物や文献の管理であろう。
そして山猫の侍女であれば王女の世話であり、狐頭の人形師は王女の車椅子係や義肢の調整なのだろう。
だがそうした公務だけではなく言うなれば裏の任務も担っていて、それが勅使に対する内偵と言う可能性はないだろうか。
“ロゴス”の解説では使用人達についてそこまでは言及していなかったが、道化の娘こそ何かを企む者ならば真っ先に標的として考える相手であり、それを判っている上で敢えて代行の儀式を行わせて絶好の機会を誘発させているとすれば、これは罠以外の何物でもあるまい。
そういう意味では先の私へと向けられた忠告の言葉も単に接近を阻んだだけではなく、こちらの反意に対する警鐘であったと捉える事も出来なくもない。
このところシルウェストリスと王女のやりとりに於ける人間らしさが強く印象づいており、上級使用人達への警戒が甘くなっているのは事実だ。
どれほど人間らしく見えたとしても、彼等は本質的に道化に忠誠を誓う者達である事を肝に銘じておかなくてはならない。
私が改めて己を戒めていると、この状況を打破する最も有力な存在の声が響いた。
「あ、げーかだ、げーかげーか! まんまるまんまる! おんなじおんなじ!」
人形師が指輪を嵌め直した際にようやく正気に戻ったアルヴムは、横にいた私を見つけると指差しながら早速はしゃぎ出した。
どうやら私に対する呼称を名前だと勘違いしている様だ。
「アルヴム様、それは猊下の名ではありません、猊下のお名前は日和坊主と仰るのです」
即座に山猫の侍女が私の名を訂正するものの、正直言ってその呼称は不快感と違和感しか感じないのだが、拒絶する権利も無いのだから致し方なく反論する事無く聞き流す。
「ひ、より、ぼ? 何それ、よく判んない。
だってだって、みんなげーかげーかって呼んでるでしょ?」
あの不愉快な名は文字数的に王女には覚えられないからなのか、山猫の指摘は即座に却下された。
「わたくし達は立場上猊下を真の名で呼ぶ事は憚られるので、敬称でお呼びしているのです。
ですがアルヴム様はお立場が違いますから、わたくし共と同じ様に猊下をお呼びするのは正しくないのです」
シルウェストリスの言う事は逐一正しいのだが如何せんアルヴムには難しく理解出来ない様で、話を聞けば聞く程に怪訝な表情をするばかりだった。
「そんなの知らない! よく判んない!
だってげーかはげーかだもん! ひよ何とかなんて聞いた事ない! そんな名前知らないもん!」
完全にいつも調子に戻ったお姫様は、両手を振り回して猛然と抗議し続けている。
「アルヴム様はわたくし共に合わせるのではなく、陛下と同じ呼び方をなさるべきなのです。
ジェスター様は猊下の事をご自身で命名した名で呼ばれておられます、それが先程の名なのです。
ですからアルヴム様も同じ様にお呼びいただくべきなのです」
更に食い下がる山猫の説法にとうとう姫君の我慢が限界に達して遂に爆発した。
「もう! シルシル何言ってるのか全然判んない!
そんな判んない事ばっかり言うシルシルなんか大っ嫌い! シルシルなんて死んじゃえ!
セルヴス! シルシルをそこから下に突き落として!」
苛立ちに任せて手足をばたつかせながら暴言を放つ我儘姫を尻目に、侍女は懐中時計の時間を確認していた。
思えば巨大な虚の如き黒い太陽も随分と移動しており、それ相応の時間が経過している。
「致し方ありません、判りました、アルヴム様のお気に召した呼び名で結構です」
どうやらこれ以上の儀式の遅延の方が問題だと判断したらしい侍女は呼称の訂正を断念したらしく、それを聞いた王女は歓喜の声を上げた。
「やったぁ! 聞き分けのいいシルシルって大好き!
やっぱりげーかはげーかだもん! ね! げーか!
げーかげーかげーか! げーかげーかげーか!」
さも楽しげに笑いながら認められた呼称を連呼しつつこちらへと満面の笑みを向ける白き王女に対して、どう答えておくべきなのか躊躇するが、当たり障りの無い様に無言で会釈してその場を凌いでおいた。
「アルヴム様、そろそろ儀式を行っても宜しいですか?
猊下もそれをずっとお待ちになっておられるのですよ」
すっかり上機嫌になった王女に対して侍女が儀式の執行を提案すると、実にあっさりと素直にその指示に応じた。
いつの間にか後方に控えていた白毛と斑毛のカトゥスが、グラスと『聖血』をそれぞれ持って近づいて来る。
やる気になっているアルヴムの気が変わらぬ内に速やかに済ませるべく、若干慌ただしく儀式の支度を整えると山猫の指示の元それぞれを定められた位置に移動させた。
「大変お待たせ致しました、それでは召喚の儀式を始めます」
こうしてようやく儀式は開始され、私はいつもの様に『聖血』を飲んだ後意識を失った。




