第二十四章 偶像 其の二
変更履歴
2017/11/03 誤植修正 増してや → 況してや
2021/03/03 記述修正 この世界を当ても無く → 様々な世界を当ても無く
2021/03/03 記述修正 この世界を選択したのも特に理由は無く、あの場から一刻も早く逃れようとした時に、最初に開いたのが → 今現在この世界に居たのも特に理由は無く、巡り巡って辿り着いた先が偶々
2021/03/03 記述削除 そして他の目指すべき世界も特に見出せずにいるので~
2021/03/03 記述修正 その時それまでどうしても理解出来ずにいた、吾輩に与えられた使命が何たるかを → それを聞いた吾輩はその思想に甚く感銘を受けると共に、己の使命を理解出来ずにいる理由やそれを解消するべく吾輩が進むべき道を
2021/03/03 記述修正 そうして吾輩が己の使命に目覚めると → こうして吾輩が行動の指針を見出すと
「彼が目覚めるとそこは小高い丘の中心で、周囲には見渡す限り地平線の彼方まで荒野が広がっていた。
灰色の岩石だけが延々と連ねているだけの悪地であり、空は常に厚い雲に覆われ太陽も月も無く、明暗で昼夜が区別出来る程度。
彼は己が何者で何故ここに立ち尽くしているのかを思い出そうとしてみるが、一切思い出せない。
近くに目を向けるとそこには先程までの己と同様に大地に臥す、皆瓜二つの驢馬の頭に様々な格好をした十名の奇妙な者達が居た。
その者達もまた丁度目を覚まし、起き上がった驢馬頭の者達は周囲にいた仲間達と何やら互いに会話を始めたのだが、彼には目もくれずたとえ一瞥しても無反応のまま。
その全く動じる様子の無い態度が気に掛かり、ふと己の頭へと手を伸ばす。
何と吾輩もまたあの珍妙な者達と同じく馬面をしているではないか!
判らない、ここは何処なのだ、彼等は何者なのだ、そして吾輩は何者なのか、ああ、全く思い出せない!
彼はこの状況を理解出来ず茫然自失に陥った。
しかし暫しの後に我に帰り、他に当ても無いのだからとにかく他の者達の話を聞こうと、様子を窺いつつ丘の中央から彼等の傍へと歩き出した。
次第に聞こえて来た言葉は理解出来る言語で、その対話の内容は今正に彼が知りたい事柄についてであった。
それは自身の正体や為すべき行動に留まらず、何故全員が類似した肉体をしているかや、驢馬の頭の意味や衣装の違い、飢えや渇きを感じない謎等々。
おお神よ! まさかここにいる者達も皆、吾輩と大差無く無知であろうとは!
それを知った彼は地の底よりも深く落胆するのであった。
やがて空の色が暗くなり、それと同時に強い眠気が彼の意識を襲った。
周囲の者達も次々と倒れる様に眠りに落ち、打ちひしがれていた彼もまた睡魔に抗いきれず、深き眠りへと誘われていった……」
天にでも手を差し伸べるかの様に両手を斜め上に掲げた“嘶くロバ”は、目を閉じて噛み締める様に無言の余韻を堪能している。
その語り口調は神の視点に因る演劇宛らの激しい抑揚を含ませた実に大仰なもので、普通に説明を行なうと思っていた私としては相当に面食らった。
果たしてこの内容を語る上でその過剰とも思える演出が必要なのかと疑問を感じるものの、その声を耳にするとある意味懐かしいとさえ感じた。
そんな私の感慨を知ってか知らずか、再び目を開き真意の読めない微笑を浮かべた“嘶くロバ”は、雄弁に語り続けた。
「彼が再び目覚めると、空には依然として太陽は見当たらぬものの、既に周辺が見渡せるほどに明るく変化していた。
何気なく周囲を眺めると、見慣れぬ姿がひとつ昨日彼が現れた丘の上にあるのに彼は気づいた。
はて、あの様な格好の者は居なかった様な気がするが、吾輩の気の所為なのか?
その疑念を晴らすべく奇妙な者達の人数を指折り数えると、やはりひとり多い。
間違いない、あの見慣れぬ者は新参者だ。
その者もまた驢馬頭で同類なのは間違いなく、昨日の彼と同様に状況が理解出来ず困惑している様子であった。
それを見た瞬間、彼は何故昨日誰からも声を掛けられなかったのかを理解した。
ここに居る者達は皆同じ様に何も判らず、掛けるべき言葉すら見つからないのだ。
つまり本当に誰しもが全く同じ境遇と言う事か。
よし、それならば吾輩もまた己で疑問の答えを導き出そうではないか。
この日から彼も何かを見出すべく、先人達に混ざり議論に参加し始めた。
何も無い僻地にて、己が何なのかも何をすべきかも皆目判らぬまま、朝目覚めると結論の出ない様々な議論を開始し、夜になると自然と意識を失い眠りに落ち、再び朝を迎えると共に新たな者が現れている。
そんな困惑に満ちた日々を延々と繰り返していると、次第に彼等の中に変化が起こり始めた。
日々繰り返される不毛な議論に辟易し関心を失う傍観者や、この状況に絶望し議論どころか会話すら応じなくなる諦観者も現れる一方で、何も判らぬ苛立ちから悪戯に否定的な言動を繰り返す反論者や、自己を確立せんと焦り一方的な主張を繰り返すばかりの狂信者も増え出し、日を追う毎に混迷を深めた。
こうした状況であっても、いや、こうした状況だからこそなのか、段々とその各自の思想に基づき幾つかの集団が形成されてゆく。
最も多くの人数を占めたのは何れの思想にも属さない者達で、それは途中で協議から離脱した者達や、議論そのものすら無意味と判断し始めから参加していなかった者達。
その主張はそれぞれで差異あれど一言で言うなれば、其々が個々で思うがままに振る舞えばそれで良いと言う個人主義であり、その数は全体の半数に及んだ。
残り半数は何名かで構成された集団で、何がしかの思想や行動原理の方向性が合致した者達の集まり。
その中でも最大の数を占めたのが、自分達を神かそれに等しい選ばれた存在と認識する、選民思想を標榜する集団だった。
自分達には大いなる力と使命が与えられており、それらを理解する事が乗り越えるべき覚醒の試練なのだと言う主張を繰り返し、そして互いに相容れぬ思想を掲げる者を敵視し始める。
こうして自分達の存在について追求する筈の議論は、あろう事か反目する者を非難し誹謗中傷するばかりの論争の場へと変貌してしまったのだ……」
胸の前に祈る様に両手を組み悲しげに俯く“嘶くロバ”の目には、うっすらと涙が滲んでいた。
その様子からして、きっとこの場面は同胞達の不和を嘆く見せ場なのだろうと理解する。
身振り手振りのみならず、この街道を舞台と見立てたかの様に動き回りながらの説明は最早演劇にしか見えず、重要なのはその内容である筈なのだが全く頭に入ってこない。
その様な過剰な感情演出よりも、もう少し細かな状況説明や内容に関する質疑応答に応じて欲しいのだが、とてもそれを言い出せる雰囲気ではなく、対処に困惑する。
そんな戸惑う私の事など一切気にする様子も無く、巡礼者は熱狂的に語り続けた。
「不穏な空気が漂う状況の最中、遂に二百人目の同胞が現れる朝を迎えた。
だが丘の上に新たな同胞の姿は無く、その代わりそこにあったのは白骨化した動物の死骸。
頭の形状からしてそれは我々と同じく驢馬であった。
しかしこの亡骸をどう扱えば良いのか皆目検討もつかない。
そんな中で同胞達の内の者達数名が、周囲の制止を振り切りその骸へと近づいた。
すると骨が低い振動音と共に燐光の様な鈍い光を発し始め、それに驚いて慌てて後ずさると、発生した音と光は速やかに消えたではないか。
これを見た後に始まった議論は、全てがこの驢馬の死体と不可思議な現象についての議題となった。
だがこれの取り扱いについては各集団で異なる見解を主張するばかりで、どの議題についても収拾がつかない。
敬うべきものなのか、厭うべきものなのか、疑うべきものなのか、願うべきものなのか、呪うべきものなのか。
罵るべきものなのか、怒るべきものなのか、嘆くべきものなのか、泣くべきものなのか、笑うべきものなのか。
愉しむべきものなのか、悲しむべきものか、憎むべきものなのか、悔やむべきものなのか、妬むべきものなのか、羨むべきものなのか、望むべきものなのか、忌むべきものなのか。
感じるべきものなのか、知るべきものなのか、考えるべきものなのか、信じるべきものなのか、準ずるべきものなのか、忘れるべきものなのか、察するべきものなのか、悟るべきものなのか。
あまりにも各派毎の解釈のずれが大きく、既に生じていた思想の相違と相成ってそれが埋め様の無い軋轢へと変貌する中、討論は全く収束する気配が無いままに夕暮れを迎えた。
多くの者達がこの日はもう時間切れかと安堵を覚えた時、その隙を突いてそれは起きた。
最初に接近を試みた集団の者達が再び亡骸へと走り出したのだ!
彼等の暴走を食い止めるべく、直ぐに周囲の者達も追従し次々と身柄を捕らえるが、ひとりだけ追手の手をすり抜けた!
周囲から説得や警告や脅迫が轟く中、その者はそれらの言葉に耳を貸す事も無く、躊躇無く骸へと近づき再び変化を起こし始めた骨へと手を伸ばす。
すると光と音は更に強まり閃光と轟音に変わり、もはやその場に踏み止まる事すら出来ず目や耳を覆い後ずさる。
誰しもがその状況に耐え切れず背を向けて逃げ出していく中、際限なく強まり続けた閃光と轟音は一気に爆発した!
弾け飛ぶ様に炸裂した音と光は彼等に襲い掛かり、全身を光の刃で刺し貫かれると同時に音の波に因って押し潰された!」
捲くし立てる様な口上と躍動感溢れる動きで、その劇的な急展開を表現した“嘶くロバ”は真剣そのものであった。
ある意味気圧された私は無言でそれを凝視し続けていた。
ここで一拍置いてから息を調えた白い演者は、一転して落ち着いた口調に戻ってゆっくりと語り出した。
「身体が消し飛ぶ様なその凄まじい感覚は、どれ程の間続いたのかは判らない。
気がつくと音も光も止み驢馬の骸は跡形も無く消えていた。
そして残っていたのは、身体の奥底から生ずる疼痛に似た熱だった。
その熱が冷めていくと同時に、これまで失われていたものを取り戻した。
そう、己の名と為すべき目的の記憶とそれを為す為の力を!
これに因り、互いの記憶や思考を探る能力と別世界への移動能力を得た彼等は悟った。
これまで各々が感じていた意思こそが、己に課せられた使命に繋がるものであったのだと。
再び夜が明ける頃には、皆この地から別世界へと旅立ち、この地はもう誰ひとり居ない無人の野と化していた。
ある者達は、何かを解放する為に。
ある者達は、何かを封印する為に。
ある者達は、何かを創造する為に。
ある者達は、何かを破壊する為に。
ある者達は、何かを救済する為に。
ある者達は、何かを打倒する為に。
ある者達は、何かを供与する為に。
ある者達は、何かを略奪する為に。
ある者達は、何かを喧伝する為に。
ある者達は、何かを誘発する為に。
ある者達は、何かを獲得する為に。
皆各々に課せられた使命を果たすべく……」
最後を消え入る様に自らの叙事詩を締め括った“嘶くロバ”は自身の語りに陶酔したのか、両手を掲げ天を仰ぎ余韻に浸る様な恍惚の表情を浮かべていた。
だが果たしてそこまで感動出来るものなのかはやはり疑問に思えるが、その場に居合わせた当人としては色々と思うところもあるのかも知れないと納得しておく事にした。
暫らくの間余韻を堪能していた語り部は、やがてこちらへと向き直すと再び口を開いた。
「かなり駆け足でしたが、これが吾輩達の出生の物語です。
いやあ、すっかり語るのに夢中になってしまい、少々説明が不足してしまった所がありますなあ。
もう少し内容を補足致しますと、吾輩達の名である“嘶くロバ”と言う語源は、力を取り戻した際にそれが吾輩達の名称であると言う記憶が蘇ったからなのです。
そしてその記憶は全員共に同様だったので、皆同じ名を名乗っておるのですよ。
ああ、それと最後の所でどうして誰も居なくなったのかが判るのかについてですが、まあこれは表現上の演出だとご理解頂ければと。
吾輩が最後の一人になるまで残っていた訳でもなければ、後日その場所へと戻って確認した訳でもありませんのでなあ。
実際のところは、単独の者達が先に姿を消して行き、徒党の集団は協議して方向性を取り決めた上で行動していた様ですな。
吾輩はどの集団にも属しておりませんでしたから、早々に新天地へと旅立ちましたよ。
それ以来同胞達と再会した事は残念ながら一度としてありません。
それと、どの衣装を纏った者がどういった思想を掲げていたかの詳細についても、記憶が曖昧で思い出す事が出来ません。
恐らくですが、あの驢馬の死体が炸裂した時に、本来の記憶を思い出す代償としてそれまでの記憶が薄らいでしまったのではないかと思われますな。
ですので貴殿が関わった同胞がどの様な思想の者であったかはお答え出来んのです」
ここまでの話を聞いて、私はこの巡礼者自身がどの様な使命を耳にしたのかが気になり始めていた。
恐らく現状の行動もその使命に基づいているに違いない筈だが、果たしてどうなのだろうか。
それはこちらからの要求に含まれていないので敢えて語っていないのかも知れないし、或いは他者に語るべきではない内容なのかも知れない。
若しかするとそれを尋ねる事でこちらの身に危険が及ぶ可能性もあるが、どういった類の内容なのかは他の“嘶くロバ”達の行動原理を把握する上で重要な要素であり、それを確認出来るのは極めて貴重であるのは間違いない。
そんな千載一遇の好機をみすみす見逃すのはあまりにも惜しく、身の危険を覚悟の上で私は“嘶くロバ”へとそれを尋ねた。
「吾輩の聞いた使命の内容が知りたいですと? ああ、それは吾輩の説明に少々問題がありましたなあ。
皆が皆何かに覚醒して旅立ったかの様に語りましたが、実際のところあの夜に何かを見出したのはそれまでに確固たる意思を見せた者達だけでしてねえ。
議論に参加しなかった様な者達の大半は理解し難い不鮮明な記憶しか蘇らず、路頭に迷っていたのです。
吾輩もまたその一人でして、あの夜にひとつの使命を思い出したのですが、どうもそれがあまりにも抽象的であったが故に、どうも釈然としないものを感じておりまして。
そこで我が使命の真意を求めるべく、様々な世界を当ても無く放浪し続けていました。
今現在この世界に居たのも特に理由は無く、巡り巡って辿り着いた先が偶々ここだったと言うだけの事なのですよ。
で、あわよくば対話が出来そうな吾輩の同胞に再会した時にでも、使命について意見を聞く事が出来ればと考えて探しておった次第でして。
そんな訳でして、残念ながら吾輩の為すべき使命については貴殿に語って聞かせられる程に吾輩自身が未だ理解出来ておりません、いやはや申し訳ない」
そう言いながら片手で頭を掻きつつ苦笑する巡礼者の様子は至って自然であり、何かを偽っている様には見えなかった。
尤もあの道化すら騙したその手腕を発揮されてしまえば、私程度ではどう足掻いても虚言を看破出来るとは思えないので、ここでいくら勘ぐっても無意味だろう。
寧ろこの会話を“ロゴス”へと提供する事で、彼が何らかの情報を引き出す材料に出来ると期待する方がより現実的で有益の筈だ。
そう判断して、私からの過去に関する質疑を終えようとすると、その前に再び“嘶くロバ”が口を開き、そこで思わぬ提案が為された。
「吾輩の使命の内容そのものをお伝えする事は出来ませんが、その代わりにそれに付帯する話であれば出来なくもないですぞ。
但しその話も若干回りくどい内容となってしまいますが、それでも構わなければお話し致しましょう、さて、どう致しますかな?」
如何なる話でも聞き出せるものは全て聞いておくに越した事はない、私は迷う事なく即答で依頼した。
「承知致しました、ではお話しましょう」
そう答えた“嘶くロバ”は、含み笑いを浮かべつつ話を始めた。
「因みに貴殿は何かを想像した事はありますかな?
現実ではないものであれば、あの時ああだったと言う様な史実に即した可能性の話でも結構ですし、現実と全く接点の無い絵空事でも構いませんぞ。
その様な事はこれまでの半生の中で只の一度も無い、と言う者はそうはおりますまい。
そう、感情と知識と意思を持つ者なら如何なる存在であろうとも、何かしらを想像する事でしょう。
その三つの要素を兼ね備えた存在たれば、この能力は言わば必須であると言っても過言ではないとも言えますからな。
ところがですねえ、それに異を唱え実はそうではないとする説がありまして。
何でもその説に因ると、そもそも創世主以外に何かを作り出す力は無く、その範疇は物理的な創造だけでなく脳内の想像にまで及ぶとの事。
では試行錯誤の末の物理的な創造や思考から生じた想像が一体何処から齎されるのかと言うと、それらは全て過去の記憶なのだとか。
正確には意識を持つ存在は総じて何らかの手段で世代を超えて継承し続ける統合された膨大な記憶を保持しており、それを無意識に垣間見る事で何かを創造したと錯覚し誤認していると定義されておるのです。
その考え方でいけば、想像し得るあらゆる事象は全て、今現在以前の過去に全て存在していた事になります。
そうなるとありとあらゆる虚構や可能性が全て現実となるのですから、正に無尽蔵と言っても良いほどの途轍もない数の世界が存在していなければ到底成り立たないのは言うまでもありません。
この様な世界観を貴殿はどう思われますか? あまりに荒唐無稽な戯言だと一笑に付しますかな?
ええ、流石に吾輩もこの思想を頭から信じている訳ではありませんがね、ですがこの説を全否定出来ないところもありましてねえ。
これだけの主張では詭弁でしかないのですが、もうひとつの観点を加えると少々話が変わって来るのですよ。
何故この説が現実的でないかは先程も申した通り、意識を有する存在が無数に存在するからであるとするならば、その点を逆に捉えるのですよ、果たして本当にそれほど多くの意識を持った存在は実在しているのかと。
例えば今貴殿は、この場には吾輩と貴殿の二人が存在していると認識しておられるでしょうが、果たしてそれは正しい認識なのかと問う訳です。
貴殿から見れば吾輩はつい先程現れた人物でしかなく、それ以前は影も形も認識していなかった筈であり、これを言い換えれば貴殿にとって吾輩は昨日まで存在していないと言う事になりましょう。
果たして貴殿の人生の中で本日登場したばかりの吾輩が、貴殿自身と同様の意識を持った存在だと如何に立証出来ましょうか。
長編小説の主人公は文面に表れる行動や心理の描写のみならず、直接本文に記述される事の無い多くの設定等も色々と考察されているでしょうが、数頁だけ登場する程度の脇役にはそこまで用意せずとも物語は成立するのだから、わざわざ無駄に主人公と同じ様に各種設定を考える必要は無いでしょう。
その様な扱いの差が多分にありながら、まあ物語の内容にも因りますが基本的にどちらも同じく人間として登場し行動している。
これは様々な形で用いられている実に有り触れた手法であり、描かれているだけの背景や中身のない展示品等々、幾らでもその例えを見出す事が出来ます。
そして人間の人生もまた意識ある存在自身が主人公の長編小説の様なものですから、自分を主人公として捉えた視点からは関係性の差はあれども己以外の他者は全て脇役であり、自身と同様の立ち位置の者は存在しない筈。
貴殿の視点で例えると、貴殿の人生に登場する吾輩の存在が必要にして十分に成立していれば、吾輩が貴殿と同様の存在であろうがなかろうが問題なく、故に区別する必要性は無いのでそれを見極める能力自体が不要となり、結果として吾輩がどちらなのかは見分ける事が出来なくなる訳です。
この観点から世界全体を捉えると、この世の者達の大半が実体を持たない誰かの脇役である虚構の存在で少数しか実在する者達がいないとすれば、先程の説の問題点は解消されるでしょう。
全ての人間達の思いつくままに創造される無尽蔵の世界を延々具現化し続ける労力に比べれば、選ばれた極僅かな者達の為に良く出来た木贄人形たる無数の端役達を生み出す事の方が遥かに容易いでしょうからなあ。
だがそうなると新たな疑念が生じる筈です、果たして自分自身は主人公たる実在者なのか、はたまた何処かの誰かの為にいる脇役たる虚構の幻影なのかと。
単なる小説の脇役であれば、その書物に目を通すだけで当人に関する記載内容の希薄さから直ぐに判断が付くでしょうが、通常の人間の場合は曲がりなりにも個体として矛盾や欠落の無い整合性が取れた過去の記憶が備わっているでしょうから、そう容易くは判別出来ますまい。
況してや誰よりも自己を擁護し肯定するであろう己自身の事とあっては、希望的観測も強く作用してしまい殊更難しい。
だがそうであればある程に、それを証明せよと問われると客観的な立証が出来ぬものなのです。
さて雪だるま卿、ここで改めて問いましょう、貴殿は己が間違いなく実在していると確信出来ますかな?」
“嘶くロバ”にそう問われた私は、暫らく何も言えずにいた。
これまでの半生の中で自身の正体について疑問視した事は幾度となくあったものの、己の存在自体を疑った事は皆無であり、それは一切の記憶も感覚も失われていた初期の時点であってもだった。
この私たる意識が存在する事こそが実在の証明だと暗黙的に自負していたのもあったのだろう、だがそんな根源的な観念をこの巡礼者は詭弁じみた思想で以って覆そうとしている。
存在の否定とも言えるその問いに反論出来る材料が何かあるかと記憶を巡らすが、暗闇で目覚めた以前の記憶すら皆無の私にそれは見出せない。
沈黙したままの私に対して、暫らく黙って待っていた“嘶くロバ”は、さもあらんと言ったしたり顔で再び口を開いた。
「やはり確信は持ちきれませんか、まあそれが通常の反応でしょう。
これまでにもこの議論を持ち掛けた相手はある程度おりますが、この問い掛けに対して即答出来た者は僅かでしたな。
即答した者達は皆、脇役であろう筈が無いと断言しておりましたが、吾輩の見る限りやはり脇役たる浅はかな人物達ばかりでしたよ。
恐らくですがその手の人種と言うのは、何の根拠も無い自尊心で満たされていて、世界に於ける己の存在意義に対する疑念や不安が脳裏に過る事すら無いのでしょう。
そうした己を弁えぬ傲慢な思想こそが脇役たる浅はかさを体現しているのではないかと、吾輩は感じておりますがねえ。
実は吾輩もまたこの話をある男から聞かされて以来、自己の存在について疑念に取り憑かれた者の一人でして。
次いでですので、その男との出会いについてもお話し致しましょうか。
吾輩が己の為すべき使命を理解出来ずに放浪していた時代、とある町の大通りを歩いていたところ、裏路地から声を掛けられました。
ただ呼び止められただけであれば、吾輩も立ち止まりすらしなかったでしょう、ですがその声は吾輩の名を呼んだのです、それも思念で。
無論その際は先程お見せした様な正体を明かすどころか、寧ろ逆に完全に隠している状態でしたから、それを見抜かれるとは想像だにしておらず呆気に取られましたよ。
驚きながらも路地の奥を見ると、小さな机の上に小道具を並べ机の奥の椅子に腰掛けた占い師の姿があり、その者がこちらに向かって手招きしていました。
その姿は黒に近い濃い紫色の外套を纏い、頭巾を目深に被っているのでその顔も殆んど見えず、表情どころか目や髪の色すら判りません。
小さな机の上には左右にひとつずつ火の点いた燭台と中央に古めかしい真鍮色の懐中時計がひとつ置かれているだけで、良くありがちなカードや水晶球と言った如何にも占い師らしき小道具は見当たりませんでした。
警戒しながらその占い師へと近づき丁度目の前に来たところで、机の右端にあった燭台の蝋燭が突風で消え、それと同時に占い師は吾輩へと机の前に置いてある椅子へと座る様に促がしてきました。
その時少し頭巾がずれて若干顔が見えたのですが、その顔は眼鏡を掛けていて目元は見えなかったので何とも言えませんが、頬や顎には髭や皺は無く化粧もしていない様に見えました。
そして発した声もそれ程低くもない声色だった事から考えるとかなり若い男の様でしたが、吾輩にはその様な者に心当たりはありません。
果たして目の前にいるのは何者なのか、そして何の目的で吾輩を招き寄せたのか、全く判らないまま身構えていると、占い師は静かに語り始めました。
それが先程吾輩が貴殿へと語ったあの問い掛けです。
それを聞いた吾輩はその思想に甚く感銘を受けると共に、己の使命を理解出来ずにいる理由やそれを解消するべく吾輩が進むべき道を悟ったのです。
それは言うなれば、吾輩が吾輩たり得るが故に為すべき事、とでも申しましょうか。
こうして吾輩が行動の指針を見出すと同時に左側の蝋燭が不意に消え、そちらに気を取られている間に男の姿は影も形も無く消え失せており、暫らく周辺を探しましたが見つける事は出来ませんでした。
ですので、あの男が何者であったのか、何の目的で吾輩へと助言したのか、語られた仮説の真偽等々全てが未だに謎のままですが、それでも吾輩は感謝しておるのですよ。
少なくともその問答のおかげでこうして目指すべき方向を見出せたのですからなあ。
さて、吾輩の話はこの辺にして、そろそろ次の解放の方に取り掛かると致しますかな、取り敢えずは貴殿の状態を確認させて頂きますぞ」
今の話に登場した占い師の男に強い興味が湧いたものの、当人すら全く判っていないと明言しているからには如何なる問いも無意味であろうと判断し、それについては一切尋ねるのを差し控え黙って見守っていると、語り終えた“嘶くロバ”は約束通りに私の解放を試みるべく何か準備をし始めた。




