第二十三章 夢幻の楽園 其の三
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2021/08/08 記述修正 出発した湖へと戻ってしまうが → 湖からの距離は同じく半日分となり既出の場所にしか行き着かない筈だが
翌日からは昨日確認して取り決めた日程に基づき、午前中は朝一番に湖の確認を行った後に状況報告と午後の作業の打ち合わせを行ない、午後は午前中に決めた行なうべき作業を行って日が暮れる頃に戻ってから、互いに作業の結果を報告し就寝すると言う流れの生活が開始された。
私が着手したのはこのトーラスの丘の調査で、現れた当初に起きた現象の解明をする事にしたのだが、その事を“黒翡翠”に語ると思わぬ情報を口にしていた。
何でもこの丘は外から入って来る事も中から出ていく事も出来ず、それは漆黒の蝶も例外ではないのだそうだ。
それは具体的には永遠に辿り着かない境界と言う形で現れ、周囲の山脈からこの丘目指して上空をどれだけ飛んでも近づけず、また丘から谷へ向かってどれだけ進んでも崖には辿り着かないらしい。
その様な閉ざされた空間だからこそ、そこに何か新たな存在が現れたと言う事は、それだけでもう超越した力を持った神に等しい存在として認知されると言う事なのだと。
“黒翡翠”の言葉を疑っている訳ではないが、まずはその現象の詳細を確認すべく、午後の時間は寝床の潅木を中心にして周辺の探索を行なった。
するとやはり言われた通りで、どれだけ谷を目指して進もうとも辿り着く事は出来ず、似た様な丘陵地帯が延々と続き、結局初日の時と同じく遠ざかった分だけの距離を戻る羽目となった。
翌日に再びその方向に進むと地形の特徴が変わっていないので、恐らく進む度に幻覚を見ているのでもなければ毎回大地が生成されている訳でも無く、言うなれば広大な大地に蜃気楼の谷が見えている状態と捉えるのが適切ではないかと判断した。
次なる疑問としては、この大地は何処まで続いていてその終端はどうなっているのかだが、これを確認するには午後だけの探索時間では足りなかった。
この事象の正体を確認しようとすると、湖が見えなくなる辺りから先になると途端に目標物を失ってしまい、周辺の地形を詳細に記憶しながらの探索となり遅々として進まない。
そこで“黒翡翠”が就寝した後の夜間にも探索してみたが、この器は夜でもある程度の視界が確保出来ていたものの、日中でさえ目標物を見出せない類似した地形が更に見え辛い暗闇で判別出来る様になる筈も無く、何か抜本的な改善策を講じる必要があると強く感じた。
こうして私が単独で彷徨っている間に“黒翡翠”の方は、人間はどの様にしても空を飛べないのが判ったので、上空で飛ぶのと近い形になる様に地面を走ったり飛び跳ねたりして、色々と試していた様だ。
探索を早めに切り上げて先に戻って来た時にその様子を見に行くと、当人は至って真剣に行なっている心算なのだろうが、傍目からは舞踏の練習かはしゃいでいる様にしか見えない。
恐らくあれをずっと続けていたら、いくら前向きな性格の“黒翡翠”と言えども肉体的な疲弊に伴う空虚感に苛まれてしまい、精神的に消耗してしまうのではないだろうか。
その努力の方向性をもっと有益な方向へと修正させるべきなのは間違いないが、何に取り組ませる事が最も的確なのかが判らない以上、こちらも助言のしようが無い。
こうして各々がこの場所での様々な試行錯誤を行ないながら、日々を過ごしていった。
“黒翡翠”と共に過ごし始めてから十日が経過した。
この間状況の変化は殆んど無く、最初に現れた存在が再臨する事も無ければ、湖に渦が現れる事態にもなっていない。
ただ気泡の大きさと発生間隔は共に倍程度にはなっており、僅かずつとは言え確実に期限は迫りつつある様だ。
この間に探索に関する問題について対策を行なっていた。
具体的には、“黒翡翠”を同行し点々と生える潅木の枝に草花を編んで作った輪を引っ掛けさせ、目印となる物を設置させた。
育成すべき植物を利用せざるを得ない問題点もあったものの、“黒翡翠”は他に手段が無い現状を考慮しそれを承諾した。
こうして“黒翡翠”を探索に同行させ始めてみると、三つの問題が浮上した。
ひとつ目は水で、以前に本人から聞いた通り、黒い蝶の女は一日数回程度の頻度で湖から水分を補給している。
人となった“黒翡翠”も今でもそれを続けており、それで肉体の状態は問題が発生していないのだが、この慣習を怠った場合身体にどの様な影響が起きるのか判らない。
二つ目の問題は距離で、黒い蝶の女は湖から生まれ出た言わば『湖の精』の様なものであり、通常湖の周辺や上空よりも離れる事はないとの事で、湖から遠く離れる事を不安に感じていた。
三つ目の問題は夜で、黒い蝶の女は日中活動し夜間は眠っている。
だがこれは人間の姿に変えられてからの事で、蝶だった時は昼夜を問わず活動していたと言う。
嘗て不眠だったのに今は眠る理由は、人間となって体力的に消耗が増加し休息を必要としているのもあるが、夜間の視覚が殆んど無くなるかららしい。
どうやら蝶の身体の時には昼夜を問わず見える目をしていたのだろう。
今後の探索では更に遠くへと向かう必要があるのは明白であり、実体を持たない私だけでは目印の設置が出来ない事から、可能な限り同行させたい意向もあったが、無理強いは出来ないと思い私単独での遠征を提案したのだが、それには“黒翡翠”自身が頑なに拒み強硬に同行する事を懇願してきた。
恐らく置き去りにされる事が、前に現れた者が去って行った際に感じた失望を蘇らせるのかも知れない。
そういった“黒翡翠”の意志を尊重し随伴を前提として、これらの懸案についての確認作業も開始する事にした。
こうして毎日様々な会話を交わし、多くの疑問点を話し合いそれを解決していく日々を送るにつれて、“黒翡翠”の様子に変化が生じ始めている。
当初は口調や仕草だけが流暢なだけの無知な子供同然であったものが、人ならざる存在だが一応人たる認識を持った私との対話や行動の中で、人間としての振る舞いを学ぶうちに自然さを身に着け始めているのだ。
日々の会話でも他愛もない雑談の中で笑顔も多く見られる様になっていたり、目印を作らせる為に教えた作業で目覚めたのか、自身が通る道の整備や務めの儀式を試す広場の整地と言った事まで行ない始めている。
これらは蝶であった時には全く考えもしなかった筈なのだが、本人はそれらに対して苦痛を感じている様子は無く、寧ろそうやって人として様々な事を学ぶのを楽しみ、何かを行う度に達成感を感じている様にさえ見える。
それは宛ら無垢な愛娘の健やかな成長を見ているかの様でもあり、最近はそんな“黒翡翠”を眺めているだけで言い知れぬ充実感すら覚える。
だが本来ならば追い詰められた状況である筈であり、果たしてこれは正しく望ましい状態なのかと考えるとそうとは言い切れず、若干気にならなくもない。
気に掛かる事と言えば、例の予知夢めいた妙な夢がある。
内容は常に同じで、私が一人で佇んでいて、前方の小さな丘の上に漆黒の石碑が立っており、近づくと石碑には何かが書かれている。
それを読もうと更に近づくと石碑が輝き出し、視界が真っ白に変化して目覚めるというもので、この件を“黒翡翠”に尋ねてみたのだが、この地で漆黒の石碑を見た事は無いとの事だった。
こう何度と無く繰り返して見るとなると、何かしら重要な情報になっているのではないかと勘ぐっているが、今のところ石碑の発見には至っていない。
これを発見出来たなら、進展しない現状を打開する何かを見出せる様な気がしてならない。
それを望みつつ、日々を送り続けた。
“黒翡翠”と共に過ごし始めてから二十日が経過した。
気泡の様子は加速度的に変化しているのか、日に日に気泡の大きさと発生頻度が上がっている様に感じる。
それに呼応するかの様に変化を見せているのは“黒翡翠”で、こちらも湖の急変に負けないくらいの勢いでより人間らしさを増している。
今や道徳観や常識的振る舞いも完全に理解し、その端正な容姿に見合う知性も得た。
もう誰が見ても、ひと月前まで人間ではなかったとは思えぬ程に人間として日々を過ごしており、蝶だった面影を垣間見る事は皆無となっている。
これならある程度の予備知識さえ与えれば、如何なる階級の住人として人間社会に送り込んでも、支障なく暮らして行けると言っても過言では無いだろう。
そして何よりそんな“黒翡翠”が、何故かとても幸せそうに見える事に、私は強い疑念を感じている。
勿論今も、翅を取り戻す手段を得るべく私と共に調査に赴いたり、務めの実施を試行錯誤したりも続けているし、気泡の状況を聞く時はとても深刻な表情をしているので、決して黒い蝶だった時の事を忘れてしまった訳では無い。
そういった責務を失念してはいないが、心の何処かでこのまま結末を迎えずこの暮らしがずっと続く事を願い、本来の職責を全うすべく蝶として生きる事よりも、人として生きる道を望んでしまっているのではないかと勘ぐってしまうのだ。
この様な心境の変化が何れ何らかの形で害を及ぼさない事を切に祈るばかりだ。
それ以外にも“黒翡翠”の身体的な懸念に対する検証もかなり進み、多くの事実も判明してきた。
給水に関しては湖の畔にて水分摂取の制限を試させてみたところ、一日程度は耐えられる様だが、時間の経過と共に体調不良を訴え、その後水分摂取を行っても体調は改善せず、体調不良は翌日一杯まで続いた。
同じ水分という意味で湖の水以外の雨水等での代用も試したが、やはり湖水でなければならないらしく、こちらも体調不良を起こした。
これらの結果に因り、一日一回の湖水の摂取は、必須の生命維持行動である事が判った。
一方湖からの距離に関しては、不安感は給水に対する本能的な警告であり、どうやらこちらは肉体的な支障を来たす事はないのが判明した。
そこで湖から離れる訓練や夜間の行動の練習を行ない、この問題は徐々に距離を伸ばして慣れさせる事で解決出来たが、給水の方は難題だった。
要は湖の水を携帯出来る様にする必要があるのだが、この周辺には液体を持ち運べる様な形状のものは存在していない。
なので日中に戻って来られる範囲を探索するのと同時に、何らかの容器となる物体を捜索したが、そういった物は見つからなかった。
その間“黒翡翠”もまた水を運ぶ方法を色々と試みてみたが、これに関してはなかなか解決手段を見出す事は出来なかった。
この頃になると周辺の探索は日中に行ける範囲はほぼ行き尽くしたが、各地を調べても例の夢に出てきた石碑は見当たらず、何の進展もない状態だ。
刻一刻と期限が迫りつつある状況で、いよいよ更に遠方へと進むしかなくなっていたが、“黒翡翠”は遠征の決行にはなかなか納得しようとしなかった。
その理由は自分が遠出をする為の準備が整わないからであり、どうやら同行する事が出来ないのを恐れている様だ。
だがそうは言っても、探索せずに過ごしていては悪戯に時間を浪費するだけで、状況を改善出来る可能性はほぼ無い。
それを説くと“黒翡翠”も譲歩し、もう数日すれば青天の日が続く時期に入るので、せめてその日まで待って欲しいと反論した。
私も“黒翡翠”も暗所での視界が著しく悪化するのは事実であり、夜間の移動や探索を考慮すればそれは妥当な判断と言えたので、その時期の到来を待つ事に決めた。
この時の様子は最初の日の頃の懇願をも越える悲壮感すら伝わる程で、まるで親から逸れた迷子の子供の様に不安げな表情をしていた。
そんな悲しげな“黒翡翠”の様子を見ると居た堪れない感情が湧くのと同時に、何か重大な見落としがあるのではと私自身もまた不安と焦りを覚える。
この不吉な予感を払拭する為にも、必ずや遠征で進展する材料を見つけ出さなければ。
そう誓いながら、決行の日を待った。
数日後、告げられていた通り安定した青天の日が訪れ、日の出と共に予定通りに探索行へと出発した。
その行程は同行する黒衣の女の歩行速度に合わせる形で、太陽の角度から推測し二時間置き程度の間隔で休憩を行ないつつ進んで行く。
移動の最中に“黒翡翠”は、新たな潅木を見つける度に目印を配置しつつ黙々と歩み続けるのだが、その表情は暗く沈んでいた。
結局のところ、“黒翡翠”は遠征の同行を断念せざるを得なかった。
湖から離れる不安感は克服し、夜間の行動についても青天であれば安全に移動が出来る様になっていたのだが、給水する手段が見出せなかったのだ。
なので“黒翡翠”は一日で往復可能な距離まで随行し、そこから先は私だけで向かい“黒翡翠”は湖に戻らせる事とした。
この決断に“黒翡翠”もその時は大人しく従ったのだが、理解はしたが未だに諦めきれないと言った感じで、私の方を幾度となく眺めては小さく溜息を吐くのを繰り返していた。
それでも話を蒸し返してこないところを見ると、仕方が無いのだと理解すべく努力していて、それが尽きる事の無い溜息に現れているのであろう。
その様子を見ていると不憫にも思えるが、不調を引き起こした状態で無理をさせて何か致命的な状況に陥ってしまったら、それこそ本末転倒だ。
“黒翡翠”もそこまで判っているからこそのこの態度なのだと推測し、敢えて何も触れずに私も黙って進んでいく。
そうして進み続ける事半日、夕日が山脈へと沈んでいくところで立ち止まった。
ここが“黒翡翠”の到達限界点だ。
「貴き御方」
半日振りに私を呼んだ“黒翡翠”の声は普段よりも低くて小さく、若干聞き取りにくい。
「……お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
妙にぎこちない口調でそう発する蝶の女の表情は硬い。
「お帰りを、お待ちしております……」
最後の方は半ば声にならず呟いた“黒翡翠”は、私へと向かって頭を下げる。
そしてそのまま頭を上げようとしない様子を見て“黒翡翠”の心情を察し、私もそれに応えるべく短く返事を返すと速やかに前へと進み始めた。
ずっと頭を下げ続けていた失意の黒衣の女は、表情も判らなくなる程離れたところで頭を上げると、名残惜しそうに踵を返して来た道を引き返し始めた。
こうして“黒翡翠”と別れ、単独での探索行へと突入した。
“黒翡翠”の元に出来るだけ早く戻るべく、月や星の明かりを頼りに未開の地を最大の速度で突き進む。
ここまで来る道程も目新しい物は皆無だったが、それが独りになった途端に何かが見つかる筈も無く、寧ろ暗くなった所為で更に単調な風景と化している。
計画としてはまず直線的に進みこの丘の広さを調査する心算で、丁度一日で別れた地点に戻れる様に日の出まで前進する予定だ。
移動速度から換算すると、半日で約50km程度は進んでいる計算になるので、このまま変わらず進み続ければ湖から100kmまでの地点に到達出来るだろう。
一日で一周出来る程度だった“黒瑪瑙”の居たトーラスの丘とは、比べ物にならない程に広いと言わざるを得ない。
これが本当に同じトーラスの丘なのか改めて疑問に感じるが、こんな特徴的な場所が幾つもあるとは到底思えず、同一の場所が何らかの要素で変容しているか、或いは変容しているかに見えているだけだと捉えるのが妥当ではないのか。
この謎を解き明かす何かが見つけ出せたなら、そこから私の器に関する情報も得られるのではないか、根拠は無いがそれを期待している。
と言うよりも、そこにしか望みが無いと言うのが正直なところだ。
そんな事を考えつつひたすら真直ぐに進み続けた。
何の代わり映えもしない景色に変化が訪れたのは、空の色が白み始めた頃だった。
暗闇に延々と続く花畑の中に、点々と小さな明かりが瞬く一帯が見え始めた。
その光の正体を確認すべく極力急いでその場所へと向かうと、空が明るくなるにつれて小さな光は減って行き、ある程度接近した段階でその正体が明らかになった。
光の正体は星であり、湖に反射して映りこんでいた星の光が夜明けと共に消滅していたのだ。
折り返す予定だった夜明けに到達する地点で新たな発見があるとは、これは先見の明があったと言うべきか。
そんな自負を抱いていると、日の出と共に広がる視界の中に、思わぬ物が映りこんだ。
それは“黒翡翠”に置かせておいた目印で、湖の手前に立つ潅木に引っ掛かっているそれは、間違い無く私が指示して設置させたものだ。
午後からの時間で行ける範囲には当然湖の対岸も含まれており、そちら側にも日没までに往復出来る距離には設置済みだったので、ここが対岸である事を証明している。
だとするとつまり、この丘が周囲の山脈から隔絶された小さな球体になっていて、私はその表面の大地を一周したと言う事になってしまうが、そんな事が在り得るのか。
探索を開始した当初こそ、何らかの仕掛けに惑わされているのではと勘ぐっていたが、ここまで広大だともうそれは無いのではないかと思い始めていたのもあり、予期せぬ事態に思わず狼狽する。
しかしすぐに正気を取り戻し、冷静に状況を分析し始めた。
まず言える事は、初日の出来事を“黒翡翠”へと伝えた際に語っていた、通常の生物がこの場所に出入りする事は出来ないと言う説明が、これに因り証明されたと言っても良いだろう。
後はこれが幻覚ではない確認を行うべくこのまま湖を横断し、中央部の気泡が湧く箇所を確認しつつ対岸へと渡れば、丁度今頃に戻っているであろう“黒翡翠”と再会する事で、ここが元居た湖だと断言出来る。
もし幻覚の類ならば、突き進む事で必ず何処かで破綻するなり矛盾が生じるだろうから、その細工を見定める事で謎の究明に繋がるに違いない。
そう考えを纏めると、新たな足掛かりとなる事を期待しつつ、早速対岸へ向けて出発した。
湖の中央へと差し掛かると、以前よりも気泡の発生頻度が随分と増加し、気泡自体も更に大きくなっており、まるで沸騰しているかの様な様相と化している。
まだ連続して発生しているところまでは至っていないが、この様子では渦となるのもそう遠くない様に思える。
念の為に湖底を覗き込んでみるが、澄んだ水であるものの水深が深いらしく、気泡を発しているものを視認する事は出来なかった。
これ以上ここで時間を費やす必要は無いと判断して、速やかに移動を再開しその地点から遠ざかっていく。
出来うる限りの最大速度で湖を横断し終えると、すぐに寝床の潅木に寄り掛かり項垂れていた“黒翡翠”を見つけ、予定通り無事に帰還しているのを見て安堵する。
眠っているのか、背を丸めて膝を抱えた姿勢で俯いたまま動かない“黒翡翠”だったが、思念で呼びかけるとすぐに顔を上げた。
「貴き御方、なのですか? どうしてこちらに……?」
その顔はまだ状況が飲み込めていない怪訝な表情をしていたが、これまでの経緯を説明すると次第にいつもの様子へと戻った。
「わたくしのお伝えした事が正しかったと証明されたのは幸いでしたわ。
何しろわたくし自身も、それを実際に確認した事は無かったので、本当にそうなのかは知らなかったものですから。
それにしても、泡がそんなに大きくなっていたのは予想外でした、もう少し時間が掛かると思っておりましたのに」
そう言うと感極まったのか、徐々に瞳を潤ませていく。
「でも今は、こうしてより早く貴方様と再会出来たのが、わたくしとしては何よりも嬉しくて……」
そこまで言うと、言葉を詰まらせ溢れそうになる涙を指で拭う。
てっきり世代交代の時が迫る焦りからの動揺なのかと思いきや、まさか再会出来た事へと嬉し涙だったとは。
私と別行動をしていたのがそこまで心痛となっていたのかと少々驚き、その涙の理由を尋ねると感涙の黒衣の女は静かに語り始めた。
「それはきっと、知ってしまったからですわ、孤独というものを。
蝶だった時は、ずっと独りでいたので全く気づきませんでしたし、それが当たり前でしたから何も感じずにおりました。
ですがこの姿にされて貴方様がお出でになり共に過ごした事で、独りがどれだけ寂しいものだったのかを知ってしまったのです。
貴方様から探索への同行は許可出来ないと告げられた時から、何かこれまでに無い感情の変化を感じていました。
それが最初の御方をお待ちしていた時の、翅を返してもらう為に再来を待っていた気持ちとは全く違う事だけは判りましたが、その時はまだそれが何なのかは気づいていませんでした。
その後、昨日貴方様とお別れしてから独りでここへと戻っている時、その変化の意味をはっきりと理解したのです、これは独りでいる事の寂しさなのだと。
夜の闇がこれほど心細く感じた事もありませんでしたし、感情や意思を伝える相手が居ない事がこれほど寂しく切ないなんて、思いもしませんでした。
貴き御方、今のわたくしにはもう、貴方様の居られない日々なんて考えられません、ですからお願いです、どうかここに居て下さい。
お願いだから、独りにしないで……」
最後に言葉を詰まらせた“黒翡翠”は、跪いて祈る様に手を合わせ、それと同時に涙が頬を伝い落ちていく。
最初に会った時の光景を髣髴とさせるその行動を見て、私が抱いたのは同情だった。
黒衣の女の懇願を聞いて直ぐに思い出したのは、私が最初に“嘶くロバ”と遭遇した際の記憶であり、それまでの絶望から一転して藁にも縋る様な期待は、それこそが罠だったと判明した今に至っても決して忘れる事は出来ないものだ。
それだけに今“黒翡翠”が抱いている感情も理解出来るし、再び孤独に戻る恐怖もまた共感出来るものだ。
若しかすると黒衣の女達に感じていた特別な感情とは、この境遇の共感だったのではないかと気づくと、根拠の無い血縁者説よりもこちらの方が納得出来る理由だと実感する。
最後の言葉の口調の変化こそが、今までの理性的な状況判断からの望みよりも、もっと感情的に切実な想いの証である事も理解した。
その様な“黒翡翠”の悲痛な願いには応えてやりたいところだが、それでは探索行へと赴く事が難しくなってしまう。
やっとこの地の謎に関わる事象を確認出来たのだから、これを足掛かりにして追求しない手は無いし、そうしなければ少なくとも“黒翡翠”が再び飛べる様になる確率は上がる事も無い筈だ。
今の感傷的な“黒翡翠”には酷かも知れないが、飛翔能力を取り戻すと言う最終的な目的の為には、結局のところ本人の為を思えばある程度は耐えてもらう必要があるのではないか。
暫らく考えた末に私はじっと待つ黒い蝶の女へと、まずは落ち着かせた後に遠方への探索の必要性を語るものの、それを聞いた“黒翡翠”はただひたすらに悲しげな表情をするばかりだった。
このままでは埒が空かないので、この日はもう休む様に“黒翡翠”へと告げて寝床へ向かわせ、眠りにつくまで見守り続けた。
隣で静かに眠る“黒翡翠”を眺めていると、これまでの状況から気づいてしまった仮説が脳裏に浮かび上がり、それを考えずにはいられなくなる。
それは守護者の資質と寿命についてだ。
“黒翡翠”は出会った当初と比べて、良くも悪くも明らかに人間らしさが強まっているのは紛れも無い事実だ。
人としての姿を与えられ、その身体で行動しなければならないのだから、それはある程度は当然なのかも知れないが、それが精神面に於いても適応されてしまったのだと推測している。
その様子はまるで、蝶であった時には持ち得なかった自我が目覚めてしまったかの様に感じる。
それを与える要因となったのは最初に現れた者なのだろうが、ここまでの変化を齎したのは他ならぬ私であり、果たしてそれは正しかったのだろうかと今更ながら自問してしまうのだ。
その様な自責の念を抱く理由としては、世代交代を告げる気泡の急成長がある。
“黒翡翠”の説明では、あれは次の守護者たる蝶が現れる兆しとの事だが、逆に捉えるならばあれは現在の守護者の役目の終了を示唆するもので、つまり守護者にとっての寿命とは、役目を果たせなくなると訪れるものと仮定出来る。
この仮定に基づけば、“黒翡翠”は人間にされて飛翔能力を失った事に因って、任務遂行が困難と見做されてしまった事になる。
その根拠は、私が最初に湖の様子を説明するまでは気泡が出ていたとは語っていなかった点で、これに因り人間にされた事を契機として気泡が発生し始めたと推測出来る。
それ以外の守護者たる資格を失う要素として考えられるのが、自我と感情だ。
管理者として日々の務めをこなす事だけに従事出来なくなった場合にも不適格と見做されるとすれば、人間的な自我と感情が目覚めた“黒翡翠”に対しても寿命が短縮された結果として、気泡の急成長と言う現象が引き起こされたと言えるのではないか。
この推測が正しければ、私が関わった事に因って結果的に“黒翡翠”の寿命を削っている事になり、この状況は出会った時点で既に衰弱し死に瀕していた“黒瑪瑙”の場合とは全く異なっている。
人間になりつつある“黒翡翠”の望みが、本来の守護者としての本分から逸脱しつつあるのは先程の懇願からも明白であり、このまま私と共に居れば当初最も恐れていた筈の世代交代の事すら捨て置きかねないのではないか。
そうなれば守護者としての資格は失われ、次世代への交代が尚一層早まってしまい、やがて取り返しのつかない事態を生む事になるだろう。
そんな自身の本質を見失った“黒翡翠”の個人的な願望を優先するのが正しいとは、どうしても思えない。
だとすると、ここで私も決断しなければならない様だ。
このトーラスの丘には、その名称と“黒翡翠”の行動範囲から考えると、必然的に探索対象として浮かび上がる特定の場所が存在する。
それは、湖から離れる様に半日進んだ後、直角に曲がって更に半日進んだその先にある地点だ。
もしこの丘が球体をしていたならば、この進み方をしても湖からの距離は同じく半日分となり既出の場所にしか行き着かない筈だが、恐らくそうはならないだろう。
何故ならこの地は、その名の如く円環体をしているからだ。
この円環体が上下共に一日で一周するとなると、最長一日しか湖から離れられない黒い蝶達には、その往復可能な移動距離からはどうしても辿り着けない箇所が生じる。
それが、湖を中心に平面図として見た時の角の隅に当たる場所であり、そこに存在するものがきっと例の石碑であろう。
黒い蝶達は世代交代をしても、先代達の記憶を知識として踏襲している。
だからこそ自分以外誰も居ないのにこの場所に関する多くの知識を持っており、また行なうべき務めやそのやり方も生まれた直後から理解しているのであろう。
であるから、その場所がどうしても辿り着かないからこそ、蝶達が代々伝承する記憶に含まれていないのも納得出来る。
問題はそれを発見した時にどうすれば良いのか、碑文を読んだ後どうなるのか全く判らないが、それはその場で判断して対応するしかない。
私は意思を固めると、今一度“黒翡翠”へと視線を向けて最後の言葉を掛けてから、その地へと向かって移動を開始した。
黒い蝶の女の元より去ってから、一日が経過していた。
出発した時はまだ正午前であったから、想定通りであれば少なくとも日中には辿り着ける筈だ。
今頃“黒翡翠”はどうしているだろうか、遠征の疲労で未だ眠り続けていると良いのだが。
目覚めていたとしたら、恐らく居なくなった私を必死に探し回っているに違いない。
あれだけ孤独を恐れて共に居て欲しいと訴えていたのに、その苦痛を与える事になってしまったのは大変心が痛むが、その対価として必ずや当初の願いを果たすと心に誓う。
“黒瑪瑙”も“黒翡翠”もこの地をトーラスの丘だと告げられているのだから、根拠は薄いが推測の方向性は外れてはいない筈であり、後はその名付けた者がその意味を理解している事を祈るばかりだ。
そしてその場所で、“黒翡翠”の願いを叶える手段を何としてでも見出さなければならない。
そんな心配をしながら進み続けると、向かっている正面にこれまでこの場所では見た事が無い、人工的な形状の物体が地面から聳えているのを発見した。
遠目からも周囲の風景とは馴染まない異質なそれは巨大な黒い石碑であり、夢で見たのと全く同じ物だ。
黒曜石で出来ているかの様に黒く輝くその石碑の表面には、文字らしき何かが刻まれているのも見える。
夢ではここで接近すると石碑が輝き出し、それと共に目覚めてしまい終わってしまっていたのだが、果たして現実はどうなるのか。
それを試す前にまずはこの距離から石碑を確認すべきだろうと思い、距離を保ったまま左側へと回り始めた。
石碑は全高2m幅1m厚さ10cm程の長方形の板状をしていて、表面には碑文が記されているが裏面には何も記されていない様だ。
一周して再び石碑の正面へと戻って来たが、特に状況に変化は無い。
ここで一旦戻り、“黒翡翠”にこの事を報告すべきかと言う考えが頭を過ぎるが、これ以上私と関わる事は結果的に彼女の苦痛と苦悩を増やすだけであろうと考え直し、今ここで解明する事を選択する。
立ち止まった状態で暫らく様子を見るが変化が起こらず、やはり接近して碑文を読む必要があると判断し、意を決して接近を開始した。
出来れば夢の終わる距離の手前で碑文が判読出来れば理想的だが、刻まれた文字が小さくそう上手くは行きそうもない。
致し方なく夢で近づいた距離を越えて、更に接近を開始する。
文字を凝視しながら至極低速度で接近して行くと、徐々に文字が見え始めた。
するとその文字は判読可能の様に見え、一気に近づいて内容を確認したい願望に酷く苦悩しながらも、急激な変化を危惧して慎重に進み続ける。
碑文は複数行の短文の羅列らしく二行毎に完結しており、その短文に用いられている単語もさほど難解なものではなかった。
判読出来始めてしまうと、警戒心よりも好奇心が上回ってしまい、自ずと接近速度も上がっていく。
そして全文が判読出来た時には、既に相当近距離まで迫っていたのだが、もう意識は全てその文面の真意を図る方に奪われてしまっていた。
何故ならその碑文の内容が、これまでに無い特異なものであったからだ。
『その願望は石碑を視認した時に受理され、
これを読み始めた時点で達成される。
その代償は石碑の前に佇む者の全てとし、
これを読み終えた時点で償還される。』
その内容は全てが断定的で且つ不可避のものであり、一行目の結果を確認する事無く、二行目の意味を理解すると同時に私の意識は消滅した。




