第二十一章 湖の主 其の一
変更履歴
2016/01/12 記述修正 もはや定型業務と化している器の確認作業を開始した → もはや定型業務と化している糧の流入元と器の確認作業を開始した
2016/01/12 記述追加 手始めに糧の流れを探ると~
2016/01/12 記述追加 表現を替えればそれは~
2016/01/12 記述追加 まあ目下のところは~
2016/01/12 記述修正 手始めに四肢に当たる部位を → まずは四肢に当たる部位を
2016/01/12 記述追加 その匂いと糧との関連性については~
2016/01/12 記述修正 この器の求める様な代物が存在する気配がある事から → この器の求める様な代物が存在する気配がある事や、どうも水深が深くなるほどにその濃度は高まる事から、発生源はここよりも更に深い場所となる中央部であるのが濃厚な為
2016/01/12 記述修正 この建物と共に埋もれたまま永遠の時を → この建物と共に埋もれたまま、いつ尽きるとも判らない糧を消費し続けるだけの時を延々と
2016/01/12 記述修正 永遠の絶望も → 果てしない絶望も
2016/01/12 記述修正 ここに来て思わぬ好機が訪れた → 思わぬ好機が訪れた
2017/11/01 誤植修正 増してや → 況してや
2018/02/01 誤植修正 1ヵ月 → 一ヵ月
私は完全なる暗闇を落ち続けている。
そして恐ろしいまでの落下速度のままに水面へと衝突し、全身が砕け散りそうな凄まじい衝撃の後急速に失速する。
水温に因って体温を奪われ遠のく意識の中、私はゆっくりと仄暗い水底へと沈んでいく……
その手法の違いや状況の変化からどの様な結果が訪れるのかと危惧していたが、意識を取り戻してみれば何の事はなく、これまでの召喚後の状況と差異は感じられなかった。
つまり私はまたしても全く別の世界の別の器へと変わっていた、全く以っていつも通りに。
それはある意味安堵出来る状況とも言えたが、逆に考えると結局はこれまでと何ら変わり無い事が証明された様にも思われ、若干落胆した部分もある。
だがとりあえず、行動に支障が出るであろう瀕死の状態が踏襲されていない点だけは単純に喜ぶべきなのだろう。
新たな召喚での動揺も収まって来たところで、これからどうすべきなのかを思考する前に恒例の状況確認へと入る事にした。
まず真っ先に感じるのは全身への抵抗と圧力と冷気で、この様子だとここは水中だろうか。
深度が深ければ光も届かなくなり視界はほぼなくなるのだが、今回はそれほど深くもなく更に透明度も高いのか仄暗くはあるものの比較的周囲が見えており、どうやら私はかなり広い水中の底付近に沈んでいるのが判った。
周囲には水草か海藻らしきものが所々僅かに群生している他は堆積した泥に覆われた岩が点在しているだけで、動くものは何ひとつ見つからない。
視界は正に魚類のものでややぼやけてはいるものの非常に広範囲を視認出来ており、周囲に関して見落としている可能性は限り無く低そうだ。
水流らしきものを全く感じず静止状態では視点が変化しない点から大河や海でもないとすると、ここは湖と思われる。
そして周囲を目視出来る程の明るさが維持されているのは透明度の高さもあるだろうが、それ以上に水深がそれほど深くはないからであると判断出来る。
そう推測しつつ上を見上げると恐らく今は日中なのだろう、若干濁ってはいるが淡い水色の揺らぐ空があり、更に目を凝らすと何か影になっている箇所がいくつかあるのも判った。
確証は無いがあれは船影に見える、と言う事はつまり近くに人間がいると言う事か。
それが召喚者なのかも知れないと思うとかなり気掛かりだが、迂闊に接近して更なる新たな展開が起きても面倒なので、それよりも先に自分自身を確認してからにすべきだろうと判断し、もはや定型業務と化している糧の流入元と器の確認作業を開始した。
手始めに糧の流れを探ると、この器へと流入しているのは間違いないのだが、その発生源がある筈の流入してくる方向がどうも掴めない。
表現を替えればそれは方向性がないと言う事であり、まるで水に溶け込んでいるかの様に全方位から糧を感じている状態だ。
まあ目下のところは枯渇さえしていなければ良しとして、その詳細よりも己自身についての理解を優先すべく器の確認へと入った。
まずは四肢に当たる部位を動かしてみると皆非常に短く動作時微妙に抵抗を感じ、水中にいながら呼吸に支障が出ていない点を合わせると、四肢が鰭状をした鰓呼吸の魚類であるのは明白だった。
唯一自身の器で視界に入る胸鰭は不自然な程に煌めく黄金色をしており、更にどうも制御可能な鰭の数が一般的な形状の魚と比べて多い様に感じる。
確認すると胸鰭が一対と腹鰭が一対と尾鰭が一基あり、それに加えて背鰭や尾鰭があるのは判るのだがどうもその数が多い。
改めて慎重に確認すると背鰭はどうやら三基あるらしく尻鰭も二基あり、そしてそれぞれの鰭は自力で動作可能なのが判った。
金色の鱗を持つ鰭だらけの魚、それを想像した際にその形状から一瞬脳裏にある古代魚の姿が朧げに浮かんだが、その詳細を思い返そうとすると霞の様に掻き消えてしまった。
もう一度思い出せないかと試みるもやはり無理だったのでその代わりに以前の召喚を思い起こすと、今度は巨大な海蛇じみた体躯をした器の記憶が蘇った。
あの時は長い身体をくねらす事で推進力を得ていたのだが、今回の場合どうも胴体自体はそこまで柔軟には出来ていないらしく、この十基の鰭を駆使して泳ぐのがこの器の在り方らしい。
各鰭ともに一般的な魚のそれと比べてかなりの筋肉質でありそれに見合う運動能力を有しているのならば、単なる姿勢制御ではなく推進させる為の器官ではないかと言う推測は間違っていなさそうだ。
試しに各鰭を動かして自身への影響を確認してみると、想像以上に自在な方向へと動けるのが判った。
前進は元より後退や浮上や沈降のみならず努力すればその場での回転運動すら不可能ではなさそうだが、多様な運動性能の対価として多くの鰭が抵抗となり高速での推進は難しい。
感覚的には船を櫂で漕ぐ様にしか進めないので、そればかりはどうしようもないのだろう。
若干の問題はあるものの、これでも以前海底での召喚時に遭遇した様な高速で逃げなければならない強敵を相手にせずに済むのなら、それは杞憂なのかも知れない。
それ以外で明確に判るのは、肉食なのかかなりの力で噛み締める事が可能な顎と歯を持っている点くらいで、最も重要であるこの器が持つと思われる超自然的能力の有無は未だ判っていないが、こればかりは試行錯誤で見出すのではなく何らかの情報を入手すべきであろう。
今のところ近くに危険な存在は確認出来ないのでそろそろ周辺の探索に入ろうかと思った時、何かを嗅ぎ取ったのか鼻孔に未知の違和感を感じた。
それは人で言うところの嗅覚で刺激臭を感知したかの様な感覚なのだが、それが餌となるものを見つけたものである事を本能的に理解し、そしてそれはこの周辺から感じていると言う事も同時に把握した。
その匂いと糧との関連性についてはまだ判らないが、これまでの器では無かった感覚である点からしてこの器独自の能力と考えるべきか。
まずは頭上の船影よりこちらから確認する事に決めて、私はその感覚を頼りにゆっくりと周辺を探り始めた。
鼻孔に感じるその匂いは極めて微かなものであったが、この器が求め欲するそれの正体を確認出来る期待を抱きつつひたすらに周辺の捜索を続けると、それは地中から漂い出ているらしい事が判った。
果たしてこの器の求める物は何なのだろうか、それを考察し始めると直ぐさま蘇った記憶はあの道化の下知であり、その推測は的中していたのが程なくして明らかになった。
怪しいと思われた周囲一帯の湖底を掘り起こした挙句ようやく見つけたのは、小さな薄い円柱状をした金属、即ち硬貨だった。
視力がそれほど高くはないので明確には目視出来ないが、鈍く黄金に輝く金貨と思しきそれは中心部分が穿たれており、その粗雑な加工の所為で全体的に拉げる様に歪んでいる。
どうやらこの器は黄金か或いは金貨そのものを餌として欲する存在で、つまり自分の意匠を施した金貨を収集させる為にこの召喚を選んだと言う訳か。
これで道化の王の魂胆は理解出来たと同時に、己の目的に即した召喚を選択可能な事も証明され改めてその力を思い知った訳だが、ここでひとつ疑問が生じた。
それは金貨を見つけ出す為の器にしては、その能力があまりに低いのではないかと思える点だった。
確かにこの歪な金貨に引き寄せられたのは事実だがそれは本能的な不可避の執着からではなく、もし他に何かにもっと注目すべきものがあったなら確実に見過ごしていたであろう程度の非常に僅かな興味でしかない。
この器はその程度の検知能力しか持ち得ないのか或いはもっと大量の金塊でなければ反応しないのかそこは疑問だが、多少なりとも餌と識別して見つけ出した硬貨なのだから、次の段階として目的の獲物を見つけた後の衝動に従った場合の結果に興味が移る。
口を間近まで硬貨に近づけると微弱ながらも例の感覚は強まるので、やはりこれが対象物であるのは間違いないのだが、どうも食指に訴えるまでには至っていないと言うか、食べ物の匂いが移っているだけの物の様に感じてしまう。
餌を摂取するには消化器官へと取り込む必要があり、現状取れる手段は直接口で咥えて飲み込むしかないのだが、この硬貨の大きさは自身の唯一目視出来る胸鰭と比べてもかなり小さく、咥えると言うよりは周囲の泥諸共丸呑みにせざるを得ない。
体積からして飲み込むのは物理的に容易ではあるものの、器の本能はこれを摂取すべきものとは見做していない、さてどうしたものか。
暫らく硬貨を凝視しながらその周りを廻りつつ逡巡し続けていると、どうもこの金貨が以前に見たあの忌々しい硬貨に施されていた意匠とは違っている事に気づいた。
前に見た金貨には道化の姿が精巧に描かれていたのに対し、今目の前にある物は水の屈折や視力の低さを差し引いてもそれ以上に表面が歪んでいる様に見えるし、中心部に至っては色味も違っている様に見える。
もしかするとそれこそがこの煮え切らない感覚の原因なのか、だとしたらそれを確認する為にはやはり試すしかなさそうだ。
私は意を決すると疑惑の金貨の周辺の土砂毎喰らいつき、貨幣を歯で咥えると砕かんばかりに全力で咀嚼した。
口腔内に含んだ当初こそは未だ餌たる感覚を残していた硬貨は、その硬度こそ純金に近い感触であったものの咬みついた途端に苦々しい味覚へと変貌し、その猛烈な不味さのあまり反射的に吐き出してしまった。
再び視界に入った硬貨は二つに千切れる寸前まで断裂しており、その断面を見ると鈍色でこれは明らかに鉛やそれに近しい卑金属であった様で、噛み千切る前に見た際の中心部の色味の違いは、元々そこに穴が開いていて地金が見えていたからだったのも判った。
この検証結果を踏まえると、どうやらこの器の味覚は純金のみに反応しており、金で鍍金を施した様な紛い物には反応が鈍ると言う事らしい。
それにしても貴金属を餌として欲する魚とは本当に道化の任務に打って付けの器だと感心しつつ、すぐに新たな疑問が生じる。
それは、どうして鍍金が剥がれてしまうのに中央に穴を開けていたのかだ。
私はこの偽造された金貨の形状の不自然さを改めて確認し始めた。
これは元々穴開きの意匠ではなく鋳造し鍍金を施した後に穿たれていて、それもその稚拙な加工で硬貨が変形してしまっても構わずに行なわれている。
そこまでしてしまったら穴の断面から偽金貨である事は明白になってしまうのにどうしてそんな加工を行なったか。
その解は長考に陥らずとも、ここまでに得ていた情報から導く事が可能だった。
恐らくこの穴開きの偽金貨は私への餌なのであろう。
差し詰め私の器は金を喰らう幻の魚と言った代物で、恐らく前鰭の色からしても鱗が金で出来ているとか或いは腹の中に金が詰まっているだとかそんな類の伝説が広まっており、それで欲に目の眩んだ人間達が湖に船を出しては釣り上げようとする訳だ。
で、本来餌は金でなくてはいけないが一攫千金を企む様な輩は大半が貧困に喘ぐ者達なので、本物の金貨を入手出来る筈もなく偽物を使って釣ろうとしている、そうした餌のひとつがこれだったのだろう。
まだ憶測の域を出ないものの、大きくずれてはいないと自負する結論も纏まったところで自論の検証へと入るべく、私は水面に浮かぶ船影を目指して浮上を開始した。
目撃した当初は詳細まで認識出来ずにいた船影は、浮上して行くに連れて細長く前後が尖った典型的な形状や船体中央付近から左右から伸びる櫂等、その形状が明確になっていく。
その姿からしてどの船も帆も備えていない数名が乗れる程度の小舟らしい。
その小舟のどれもが、船体周辺からほぼ真下へと素材不明の紐を垂らしており、その先端には巨大な鉤爪状の針に取り付けられた平たい円筒状の何かが吊り下げられているのも確認出来た。
あの偽金貨の大きさを基準としてざっと計算すると私の器の全長は10m近くあると推定したのだが、これだけの巨体を釣り上げるには少々吊り糸や釣り針が華奢で頼りなく見える。
彼等は私の全長や重量を正確には把握していないのかも知れないと思いつつ、目視と嗅覚で確認出来た釣り針の餌全てを嗅ぎ取り本物の金貨を捜索するのだが、やはり全て偽物にしか思えなかった。
でももしかすると嗅ぎ取る能力に誤りがある可能性も捨て切れないと考え直し、この後暫らくの間少しでも可能性のありそうな物については敢えて喰らいついてみたのだが、それで判ったのはやはりどれひとつとして本物の金貨は無かった事と、偽物ながら色々と素材は異なっている事だった。
最初の鉛を鍍金した代物などはまだ良い方で劣悪な物になると色味だけ似せた黄鉄鉱や真鍮となり、これらに至っては最早全く餌としての感覚も無くその味たるや筆舌し難い程であった。
そんな散々な状況であったが、それでも私は金貨取得の可能性が僅かでもあると信じて金貨探索を続ける事にし、徐々に行動範囲を広げながら湖底と湖面付近を往復し続けた。
暫らくすると周囲が暗くなり、夕刻に差し掛かったのだと気づいた時には湖上の船影が減り始め、陽が落ちる頃には全ての舟が居なくなっていた。
この日は新月なのかそれとも曇天なのか不明だが、この器は夜目が利かない昼行性である様で陽が落ちると水中はほぼ闇に閉ざされた状態となった。
視認可能な昼間でさえ自分の現在地を把握するのが難しいのにこれでは遭難しかねないと判断し、仕方がなく明朝までその場に留まり眠って朝を待った。
それから時は流れ、一ヵ月程度経過しただろうか。
その間に色々と確認を続けた結果、自分が棲息しているこの湖は相当な広さなのが明確となっていた。
私が最初に現れた辺りは西方の湖岸付近であり、その一帯は遠浅となっていたので湖底にいながらも湖面の状況が把握出来た様だ。
近くの湖岸には桟橋があるのだがそこには少数の漁師しか訪れず、西方以外の湖岸は断崖や深い森林に面しており昼夜を問わず誰一人として現れない点から、西岸付近が唯一往来する道が繋がっている人里離れた地域らしい。
他の種は死滅してしまっているのか水中には水草程度しか生物の姿はなく、この湖は何らかの理由で大半の生物が生存出来ない水質なのではないかとの判断に至っている。
湖の西方以外もまた遠浅の地形で中心に向かって深くなる擂り鉢状の湖底をしているのも判明しているが、中心部については水深が深くなり視界も悪く見通しが利かないので危険な為未だに未確認の状態だ。
それに加えて中心の湖底の方からは断続的な謎の水流が発生し、湖面に起こり得ない波や渦を作り出す事象も起こる為容易には近づき難い。
この湖が雨量も殆んどなく且つ河川の流入が無いにも関わらずこれだけの水量を保持しているのは、湖底からの水流が主たる水源でありこの地下水流が生物の棲息には厳しい成分を含有している鹹湖だからなのだろう。
しかし中心部からはほんの微かではあるものの鼻孔が反応を示しており、この器の求める様な代物が存在する気配がある事や、糧の根源についても依然として不明確ではあるものの、どうも水深が深くなるほどにその濃度は高まる事から、発生源はここよりも更に深い場所となる中央部であるのが濃厚な為、探索の必要性を強く感じている。
それと当初からの懸案だった器の能力についても、何かを引き起こせるかも知れないと期待し色々と試してもみたが依然として不明なままだ。
人間に姿を確認させるべく湖面付近まで浮上したり時には水上へ身体を晒してみたりとその存在を誇示したが、叫び声を上げながら狼狽する漁師達の姿を確認出来ただけで何の情報も得られず、もっと派手に振る舞って小舟への体当たり等の攻撃的な行動も取ってみたものの、その小舟が転覆しそうになりそれを目撃した周囲の小舟も全て理解不能な悲鳴と共に慌てて岸へと逃げ帰っただけで終わってしまった。
通常の魚もろくに棲めないこの湖に人間を落とすと一体どうなるのかと言う疑問も湧きはしたのだが、興味本位で安易な振る舞いをするのはなるべく避けるべきかと思い留まった。
そうして試行錯誤を繰り返す日々を過ごしても、本来餌なのであろう金の摂取はほぼ全く出来ていなくとも飢えを感じる事もなく行動に支障も無い点は、やはり単なる悪食なだけの大魚ではない証なのか。
まさかこの湖で生存可能な事と飢えないと言うのがこの器の能力の全てではないとは思うが、この周辺で過ごしていても新たな発見の見込みが無さそうなのは最早明白だ。
だとすると残る行動は湖中央の調査に向かうしかなく、未知なる危険との遭遇や地下水流の源泉への接触でどの様な異変が起きるかは予測出来ないが、膠着した状況の打破が期待出来る探るべき箇所はもうそこしか残っていない。
何より今の私にある最大の願望は“嘶くロバ”との再会で真相を聞き出す事であり、その実現条件として提示された金貨収集の実行こそが直近の達成目標であるのは消去法的に考えて最も無難な選択肢なのは否定し難い。
もしこの器での消滅や死に瀕する何らかの事態が起こった場合、以前の召喚と同様である保障も無いが、この状況下で新たな展開を見出す為には行くしかあるまい。
そう決心するともうすっかり見飽きてしまった西方の湖底を後にし、仄暗い中心へ向かってと泳ぎ始めた。
擂り鉢状の形状をしていると推測していた湖底の構造は、想像とは若干異なり実際には漏斗状と形容する方がより正しいのが判って来た。
当初はほぼ平面のなだらかな斜面であったものが、中央へと近づくに従い湖底の傾斜は角度を増し、今や切り立った断崖へと変わっていたからだ。
まるで海溝を髣髴とさせるこの地形を考えると、これだけ深い湖底からであるなら多くの生物に有害な何らかの成分が湧き出していても全く疑問には感じない。
そしてその想定が正しいとすると、差し詰め私は死の湖に潜む伝説の黄金魚と言ったところなのか。
依然として一切の変調も来たしていない点からして、単に黄金目当てと言うだけではなく不老不死に関する要素が含まれている可能性も高いのではないだろうか。
そう思いつつ進んでいると段々と水深も深まりそれに伴って翳り行く視界に、只でさえ良いとは言えない視野が失われる危惧を感じ始めた頃、湧き上がる水流に運ばれて来た以前に感じたものとは桁違いな匂いを感知すると同時に新たな変化がこの器に発生し始めた。
それは発光で、直接確認出来るのは胸鰭だけなのだが金色の鱗が光り輝き黄金色の光を発し、それと同時に視界一帯もうっすらと明るくなり周辺の地形も多少は見える様になった点からして、恐らく胸鰭だけではなく身体全体が発光しているのだろう。
この発光現象はこれまでの極めて微量で劣悪な餌とは異なる、本物の餌の匂いを感知した際に起こる現象なのではないだろうか。
その憶測を検証すべく中心部の湖底へと潜行を再開すると、少々推測とは違っていて水流に含まれる例の匂いとは連動しておらず、どうやら身体の発光現象は物理的要素を無視した直線的な餌との距離に因って明滅する様だ。
純金を好んで餌とする様な器であるならば、金塊に近づくと輝くと言った伝承もまたあって然るべきか。
それが全くの空想から作り出された要素であろうが、何らかの実在する事象から派生した要素であろうが今は問うまい。
この発光の能力が想定通りなら単により明るくなる方向を選択して向かえば良いと言う事になり、目視に因る周辺確認が容易となる能力であるならば、元が何だろうが今はその力を有益に利用させてもらう事にしよう。
私は自身の器の輝度を新たな指針として加え、匂いの元たる餌を求めて潜行を再開した。
自らの発光で照らされる周囲の状況を確認しつつ下降を続けて行くと、不規則に発生する水流は確実にその勢いを増しており、特に強い時はまるで強い突風に煽られたかの様に身体を煽られて、油断すると上へと押し戻されそうになる。
今はまだ断続的なので一時的に後退させられるだけで済んでいるが、これがもっと強力な水圧であったり長時間持続した場合、この器の推進力では進めなくなり兼ねない。
流石にここまで潜行すると水圧もかなり高まっているからか移動にも影響が出ており、若干動き辛くなっているのもあって余計にそれが気に掛かる。
そんな可能性を危惧しつつひたすらに潜行を続けていると、遂に湖底へと到達した。
そこは漏斗状に狭まっているとは言っても、流石に己の発光で周囲一帯を照らせる程には狭くもなく、まずは外周に沿って旋回しつつ慎重に目的の代物を捜索し始めた。
湖中央の湖底はこの器の全長から推測するに直径100m程度で、当初に見た遠浅部やこれまでに通過してきた傾斜部と変わらず僅かな岩石以外には平坦な土砂以外に何も無く、想像では底一面に可変的な水流の発生源となる無数の亀裂があると踏んでいたのでこれは想定外だった。
だとすると中心部に複雑な形状の亀裂が生じていると言う事か。
この蟻地獄の巣にも似た湖の底に、水流を引き起こす私以外の怪物がいない保証が無いのもあってそこへ向かうのは若干躊躇したが、ここまで来て引き返す選択は考えられまい。
私は意を決して中心へと向かうべく身体の向きを変えると、それまでよりも更にゆっくりと慎重に進んでいく。
段々と己の発する光で視界に入り始めた中心部には、ある意味期待していたとも言えるこれまでに無い物が存在していた。
だがそれは、本来こんな場所には存在し得ない筈の物体でもあり、それが目視出来た途端本能的に留まり停止する。
そこにあったのは建造物であった。
家屋にしてはかなり細く尖った円錐状の屋根と、その屋根の縁に沿う円柱状の壁に窓らしき穴がひとつあるだけの建物、それが平地の湖底に一軒だけ建っていたのだ。
屋根や壁面はどちらも鈍色の屋根材と煉瓦が使われていて、一周して確認してみたが壁面には最初に見た窓枠以外には何も無い。
その何の飾り気も無い建物の唯一ある装飾とも言える窓枠は上辺中央部が鋭角となった縦長の五角形で、嘗ては存在したであろう窓自体は朽ち果てており今や単なる縦長の穴となっている。
この建物の直径は己の器の全長を10mと仮定した場合、円錐状の屋根の高さは10m、円柱状の壁面は高さ及び幅は5m、窓枠は高さ3m幅1m程度の大きさだろうか。
窓部分の近くまで迫りそこから内部を覗いてみると、家屋としてあるべき家財道具等は見当たらないばかりか床すら見えず、覗いて見える範囲には本来床があった様な形跡すら存在しない。
この地点に到達してから未だ強い水流は発生していないが、それを確認せずとももう他に疑う余地など無い、それこそ超自然的な力が完全なる無から生じさせているのでないとすればこの建物からしか水流は発生し得ない。
窓のみで出入り口は疎か床すら見当たらない小さな建造物、そこから起こる強力な水流、更に強まっては来ているが未だに見つからない餌たる金塊。
これらを踏まえて考えると最も納得の行く見解は、これは湖底の地下に埋没する城や城砦等の尖塔で建造物のごく一部であり、床が無いのは窓の開閉には梯子等で昇降していたからであろう。
つまりここまでの探索作業は序章に過ぎず、この内部への浸入こそが本当の探索と言う事か。
湖の湖底に沈み埋没した城とは如何にも何か有り得ざる力を持った存在が潜むには実に相応しい場所だと辟易しながら、これまで以上に増大する不安で精神が苛まれる。
だがもしかするとその存在は自分自身だったなどと言う安易で楽観的な結末を迎えないものかと僅かな期待を残しつつ、更なる危険に飛び込むべく計算をし始める。
窓の寸法を考えると鰭を胴体に押し付けて突っ込めばどうにか入れそうではあるが、この先が瓦礫で塞がって先細りだったりすれば後退出来るとは到底思えずそこで嵌って身動き出来なくなるだろう。
その際全力で暴れて建物を破壊出来れば良いが、地中に没している部分に対して押し広げる程の破壊力の発揮はこの器には難しそうであり、そうなると最悪の場合例の強い水流で押し戻して貰う以外に脱出不能となり兼ねない。
もう暫らく様々な角度から内部を覗き込みながら何か新たな情報を見つけられないかと努力してみたが全て徒労に終わり、後はもう決断を残すのみとなった。
最悪の事態は離脱不能の状態で死を待つ事か、いやこの器は飢餓を感じないのだから餓死は起こり得ないとすると、死に因るこの召喚からの解放は期待出来ない。
だとしたらここでこの建物と共に埋もれたまま、いつ尽きるとも判らない糧を消費し続けるだけの時を延々と過ごす事になり、それこそが真に最悪な結末となるだろう。
過去の召喚と同様であるならばこちらがどうにもならない状況に陥っても決して元の世界からの支援も有り得まい、況してやあの道化がご親切にも救助に尽力する可能性なんてあろう筈が無い。
やはりここは果てしない絶望も覚悟の上で突入するしか手は無いのかと半ば諦めた時、思わぬ好機が訪れた。
新たな水流が発生し始めたのだ。
但しそれはこれまでにも何度か遭遇した湖底から噴き出す水流ではなく、その逆の地底へと吸い込む水流だった。
水量の保持に地下水の流入が起きているとは判断していたが、反対に地下水脈の減少が起きれば逆の流れも発生するのか。
改めてその事実を理解していると、発生した当初は微々たる流れでしかなかった逆流は、急速に勢いを増しその吸引力で渦を形成し始めた。
これに乗じて突入すれば、もし狭まった箇所があったとしても突破出来る確率は格段に上がるに違いない。
恐らくこの地に召喚されて以来初の稀有な現象であり、この期を逃してしまえばもうこれ以上の好機は無いと踏んだ私は、逆流に乗じて全力で窓目掛けて突入した。