逢い〜愛 ー エピローグ
火葬場の控室の窓から、俺は空に立ち昇る煙をぼんやりと眺めていた。
恵美は他の事故の犠牲者とともにその合同の社葬で弔われた。
火葬場には俺の他に、恵美が生前親しくしていたという同僚の女性三人だけが残った。時々彼女らが幾つかの言葉を交わすほかには、秋の乾いた日差しと静寂とがあった。
一人が俺の前に置かれた冷めたお茶の代わりを差し出してくれた。彼女は恵美が最も親しくしていた友人で、古川美奈子といった。
「恵美は高村さんと知り合うようになってから、本当に毎日が楽しそうでした」
湯呑をテーブルに置いて、美奈子は言った。
「覚えていらっしゃいますか。イルカと泳ぐんだと言って、子供みたいにはしゃいで…」
M島へと向う機上で延々恵美のイルカ談義を聞かされたのが美奈子だった。
「恵美はそれまで仕事を辞めたいと言ってずっと沈みがちだったんです。でも、あの休暇以来すっかり元気になって…」
美奈子は悲しげに笑った。俺も力ない微笑みを返した。
「それで、ある時から、恵美は高村さんの話をするようになりました。それが本当に幸せそうで、聞かされるこっちが恥かしいくらい…」
美奈子の言葉はそこで途切れた。
「それなのに…どうして…どうして…こんなことに…」
彼女は両手で顔を覆った。嗚咽に肩を小さく震わせた。鼻の付け根がぎゅっと痛くなった。
「…運命…だったのかもしれません」
俺は絞り出すように言った。
「…運命…」
美奈子は苦しげにその言葉を反芻すると、大きく肩を震わせて泣いた。
運命―――
その言葉で片付けてしまうことは簡単だった。
むしろ、遺された者にはそのように考えることの他に慰みの術がないのだ。
しかし、もし、本当に人の一生が人智の及ばぬ所で決められるものならば、なにゆえ恵美は斯くも短い期間しか与えられなかったのだろうか。
恵美は最期の瞬間は幸せそうだった。
或はそれがこれまでの悲しみや不幸を帳消しにするものだったのかもしれない。
しかし、それも結局は、遺された者の慰みのための便宜的な考えかもしれなかった。
*
美奈子に伴われ、俺は恵美の遺骨を抱いて彼女が生前暮らしていたマンションの一室へと足を運んだ。
このマンションはその全部を航空会社が借り切って、いわば寮のように社員に貸し出しているものだった。
恵美の部屋は当面そのままに残されることになっていた。
俺は初めて、恵美の部屋に足を踏み入れた。特別の装飾もなく、さっぱりとした部屋だった。ほんの数日前に彼女が最期にこの部屋を出た瞬間のままだった。
恵美はここでテレビを見て、笑ったこともあったろう。或はここで泣いたこともあったかもしれない。そんなごくありふれた日常生活がこの部屋に彼女を主として営まれていたのだ。
しかし、その主は今はもう二度とその沈黙を破ることはない。
窓際に小さな机があった。化粧品が並べられ、中央に大きめの鏡が置いてあった。そこに遺骨を安置し、美奈子とともに黙祷を捧げた。
暫くして美奈子は恵美の部屋の鍵を俺に渡し、自分の部屋番号を告げた。必要なら呼んでくれるように言ってから、
「これ、机の上に置いてありました」
そう言って一冊の、少し大きめの手帳のようなものを差し出した。
「たぶん、恵美の日記だと思います。もしかしたら、恵美は恥ずかしいと言って怒るかもしれませんが、でも、高村さんに読んでもらえば、きっと恵美のためになると思います」
彼女はそれを俺に手渡すと、一礼して出て行った。
俺はベッドに腰を下ろし、その渡された日記を手にとって眺めた。
この日記を読んでしまえば、恵美が完全に「思い出」という過去になってしまいそうに思えて怖かった。
しかし同時に、日記に綴られてあるのが過ぎ去った時の恵美の言葉であるにしても、そこにだけでもいいから生きた恵美を見出したいとも思った。
俺は少し躊躇したが、思い切って日記を開いた。最初の何ページかが切り取られてなくなっていた。残っている日記は8月3日から始まっていた。
*
8月3日
羽田への復路便で、高村さんという方に会った。ちょっとおかしな人。
親族の方がダイビングのインストラクターをしていらっしゃって、高村さんはそのヘルプでしばらくM島に滞在されていたそう。
しかも、ドルフィン・ウォッチングの船を出していらっしゃると聞いて、思わず声を上げちゃった。
あとですごく叱られたけど…。でも、我慢できなかった。だって小さい頃からの夢だったから。
今度の休みに、もしかしたら、その夢が叶うかもしれない!
高村さんが連絡をくださるまではどうなるかわからないけど、でも、きっと大丈夫!
神様が居るなら、きっと叶えてくれる。
私の小さな小さな夢。
きっと叶うはず。
8月10日
今日、高村さんから電話があった。
従兄さんはお忙しいそうで、でも、高村さんがわざわざ東京から出向いて船を出してくださると聞いた時は、神様はやっぱり居るんだ、と思った。
まだあと二週間もある。
首が長ーくなっちゃいそう。
8月21日
今日から4日オフ。
明日からは待ちに待った旅行。
朝から落ち着かない。
旅行の準備をしてても、ソワソワする。
今日眠れるかなあ。
明日、午後の便でM島へ。
明日の今ごろは旅館にいるはず。
楽しみ!
8月22日
羽田で高村さんと落ち合う。
やっぱり相変わらずおかしな、おもしろい人だ。
Funnyというよりinteresting?
―――ちょっと謎。
美奈子にイルカと泳ぐことを話していたら、最後には呆れられた。
初めてM島に出たけど、緑が多くて綺麗な島。
こういう所でずっと過ごせたら幸せだろうなあ。
イルカもいるし、お魚も美味しいし―――晩御飯がとっても美味しかったのだ。
明日は9時にロビ-で高村さんと待ち合わせ。
眠れるかな。
あーっ、待ち遠しいっ!
8月23日
楽しかった!
本当にイルカって人懐っこい!
全部で何頭いたんだろう。
嬉しくって夢中だったから、殆ど覚えてないよ。
でも、今日のことは一生忘れられない思い出。
夕日も、とても綺麗だったなあ。
今まで悩んでいたことも、全部吹き飛んだみたい。
でもあのときの不思議な気持ちはなんだったんだろう。夕日を見てたら、悲しいのでも、嬉しいのでもない、真っ白な気持ちになった。
P.S.
寝ようと思ったけど興奮していてなかなか眠れない。
そういえば、三度目に泳いで、くらげに刺されたとき、さすがに少し疲れて頭がぼおっとしてたから、ついつい失敗。ちょっと気まずかった。
高村さん、耳まで真っ赤になってた。
今時あんなにウブな人もいるんだ、とちょっと感心。
コラコラ、そんなウブな大学生の男の子を悩殺してはいけませんよ、恵美さん。
8月24日
あっという間に旅行も終り。
すごく楽しかった。
また行きたいな。
帰りの機内で高村さんが私を食事に誘ってくれた。
ウブな人らしく、すっかり緊張してたみたい。
何もそこまで緊張しなくても、とこちらが気を使ってしまうくらい。
それにしても、高村さんは不思議な男の人だ。
普通なら、男の人と接する時はどこか身構えて緊張もするのに。高村さんとだと、高村さん自身はすごく緊張しているみたいだけど、私は少しも気を張らなくていいから、不思議。
やっぱりあの純粋っていうかそういうところが、私をそうさせるんだろうなあ。
実は少しばかり今度の食事は楽しみなのです。
食事に誘われてそれを楽しみにするなんて、もしかしたら、初めてかもしれない。
つくづく不思議な人だ、高村さんは。
9月9日
今度の水曜日は、高村さんと食事だ。
何を着ていこう。
あんまり堅くしたら、高村さんが困るだろうし、でも、ラフすぎたら失礼だしなあ。
うーん、悩むなあ。
あ、口紅は昨日買った新色にしよう。
フフ、こうやって悩むのもちょっと楽しいかも。
9月13日
楽しい食事だった。
あんなに素敵なお店があるなんて知らなかった。
章君はどこであのお店を知ったんだろう。
笑ってごまかされちゃったけど、きっといろんな女の子と行っているんだろうなあ。
…ってこれは嫉妬?緑色の目をしてる?
でも、「好き」とかそういう気持ちよりも前に一緒に居たいっていう気持ちが強い。だから、恋とかっていうのとは違うような気もする。
じゃあ、何なのかというと、それはわからない。
ただ、彼と一緒に居て、ごく自然に楽しいとか感じられるのは、やっぱり彼が特別だからだと思う。
9月14日
日記を読み返していたら、8月からずっとハイテンションなのにびっくりした。
自分が書いたものじゃないみたい。
そういえば、私はいつからか、章君のことを「高村さん」じゃなくて「章君」と呼ぶようになってた。いつからだろう?たぶん、昨日はもう、そう呼んでいたような気がするけど。
あ、でも、章君は前から私のことを「恵美さん」って呼んでたような気がするな。
ぜんぜん気にならなかったけど。
あと、古い日記は全部捨てることにした。
新しい日記帳にしてもいいけど、それだと最近の大切な日記とは別になっちゃうから、古い、ちょっといじけた日記は全部捨ててしまおう。
もう、私は今までの私じゃない。
後ろじゃない。前を向いて歩くんだから。
10月4日
最近、携帯が鳴ると、章君じゃないかと思うことが多い。
彼のことだから用がない限り電話なんてしそうにないことは分かってるんだけど…。
電話しなさいよ!もう、寂しいじゃない。
やっぱり、私の気持ちは「好き」なのかもしれないと思う。
会いたいなあ。
10月7日
昨日、とても不思議な夢を見た。
M島で章君と一緒に暮らす夢。
章君は漁師で毎朝早くに船で漁に出て、私は夕方港で帰りを待つの。天気の悪い日は、章君が網の手入れをして、私はその横で繕いものをする。そうやって髪が白くなるまで、特別なこともないけど、平凡に暮らす漁師の夫婦。
すごくリアルな夢だった。
夢の中で潮の匂いをかいだような気もする。
正夢?もしそうだったら、それはとても素敵な、幸せな人生だと思う。
奇しくも日記は事故の前日の日付を最後に終っていた。
*
イキイキと最後までその想いの綴られた日記。
もはやこの続きを綴る者はない。
暫し瞑目した。
閉じられた瞼から涙が滲み出て、頬に幾条もの跡を描いた。恵美が逝ってから初めて流す涙だった。
主を失った部屋の静寂。
日記の生命感。
それはあまりに残酷な対照だった。最期の日記はより一層その対照を際立たせていた。
恵美が正夢だったらどんなに素敵だろうと言ったのは、あまりにも平凡で、ささやかに過ぎる夢だった。
そんな夢を幸せそうに語る恵美から、その全てを奪い去った運命とは一体何だというのか。
この残酷なる運命を吾らに与えし者よ!
何をして、汝にその未来を奪い給わせたか!
何をして、汝にその夢を壊し給わせたか!
汝、答え給え!