帰宅
叩くような風が窓を揺らす。
降り続く雪はしだいに激しくなり、今や吹雪といってもいいくらいになっていた。
リタは昼過ぎに出かけたソニアがいつ帰っても大丈夫なように、あたためたワインに保温の術をかけると、タオルを用意して玄関に待機していた。
日が暮れてだいぶ経つというのに、ソニアはまだ帰ってこない。いつもならもうとっくに帰っている時刻だった。大雪で時間がかかるということを考慮したとしても遅かった。
何かあったのかもしれない。
不安になったリタがソニアを探しに行こうかと思った時だった。
「ただいま」
玄関が開き、雪風ともにソニアが入ってきた。
「お帰りなさい。寒かったでしょ」
リタは安堵に顔を輝かせると、ソニアの身体に降り積もった雪を払おうとした。が、ソニアの身体には全くといっていいほど雪が付着していなかった。それどころか……。
懐かしい気配を感知したリタは、パッと身をひるがえした。
「シンシア」
リタは腕を摑まれた。
懐かしい魔力の気配が押し寄せてくる。
「私はリタです。お人違いをなさってませんか?」
挫けそうになる心を励まし、リタは身体を背けたまま、冷たい声で言った。
「シンシア。私が貴女を見間違えるはずがない」
懐かしい声が、リタのすぐ後ろから聞こえてくる。
「知りません。あなた様のような方は存じ上げません」
リタは顔を背けたまま、フルフルと首を横に振った。
「なぜ嘘をつくのです。この清廉な魔力はシンシア以外、居ようはずはない」
「違います。私はシンシアというお方とは似ても似つかぬ者です。お放し下さいませ」
リタは手を振りほどくために力いっぱい腕を引こうとした。が、その一瞬の隙を逆手にとられ、後ろから抱き締められてしまった。
「嫌だ。貴女が本当の名を名乗るまで放しません」
リタの耳に熱い吐息がかかる。
「レクラス様。どうかお許しください。何もおっしゃらずに、このままお引き取りください。でないと私は……」
リタは声を震わせる。
レクラスが腕を緩めた。リタは目を伏せたまま、ゆっくりとレクラスに向きなおった。
「シンシア。なぜなのですか? なぜ、何も言わずに私の前から姿を消したのですか? あの晩、約束したではありませんか」
「お許しください」
シンシアは俯いたまま、レクラスの視線から逃げるように顔を背けた。
「私のことが嫌いになったのですか?」
「違……。そうです。そうなのです。私はあなた様のことがイヤに……。私は他に好きな方が……」
「嘘だ。嘘だと言ってください。シンシア」
レクラスはシンシアの両手を掴んだ。
「お許しください」
シンシアは身体を背けるようにしてレクラスの手を振りほどいた。
「シンシア……。わかりました。それならば、私のどこがどうイヤになったのか、はっきりとおっしゃってください。どこの誰を好きになったのか、お教えください。なぜ姿を消したのですか? 貴女が突然居なくなって、私は……。納得できません。貴女を諦める理由が欲しい」
「レクラス様……」
シンシアは顔を上げた。
レクラスはシンシアを真っ直ぐ見つめながら続けた。
「この3年間。私は全てを捨て、貴女を捜しまわりました。各地を隈なく歩き回り、やっと貴女にたどり着いた。それなのに貴女は、ご自分の名前まで偽って私を遠ざける。なぜなのです? なぜ、私から目を逸らすのですか? 教えてください。納得のできる理由が聞きたい。貴女の本心を聞かせてください」
「お許しください……」
シンシアは俯いたまま、小さく首を横に振った。
「貴女は口を開けば、そればかりだ。このままでは、私の心は留まったまま、前に進むことも、後ろに下がることもできない。シンシア、貴女ほど残酷な女性を、私は知りません」
レクラスの瞳が揺れていた。
「レクラス様……」
「シンシア。いっそのこと、私を殺していただけませんか? 私の心が死んでしまう前に……」
レクラスは顔を歪め、掠れる声でそう言った。シンシアは握った右手で口元をギュッとおさえ、肩を震わせながら、苦しげな嗚咽をもらした。
レクラスはハッとした様子でシンシアの肩を優しく抱き、
「シンシア。許してください。貴女を追い詰めるつもりはいのです。ですが……」
苦しそうな表情を浮かべる。シンシアは逃れるように身をよじり、レクラスから離れた。
「レクラス様。どうか、どうか、私のことはお忘れくださいまし。私は、あなた様にはふさわしくない女なのです」
シンシアは深紫色の瞳を涙でにじませた。
「ふさわしくない? 貴女ほど私にふさわしい女性はおりません」
「いいえ。ふさわしくないのです。私は名もなき家に生まれた身分卑しき者です。どこの馬の骨ともわからない女なのです」
シンシアはそう言いながら、真っ直ぐに見つめてくるレクラスの瞳を避けるかのように目を伏せ、首を左右に振った。
「シンシア。そのようなことを気にしていたのですか?」
レクラスは軽い驚きを含んだ声で言った。その、少々あっけらかんとした声の響きに、シンシアは思わず顔を上げた。少し悲しそうに首をかしげるレクラスがいた。
「私は貴族ではありません。身分とは縁遠い人間です」
「でも……」
「我がザルリディア一族は代々魔術師を生業とする者。血筋や家柄、出自などには頓着しません。魔力。それこそが、最も重視されるものなのです。貴女は稀にみる清廉な魔力の持ち主。貴女ほど私の妻にふさわしい女性はいないのです」
レクラスはニッコリと優しく微笑む。シンシアはレクラスをジッと見つめ返したが、まだ釈然としていないという表情を浮かべていた。レスラスはそんなシンシアを優しいまなざしで見つめ、さらに続けた。
「それに、貴女は馬の骨などではありませんよ? 薄暮の空を思わせるような深紫の瞳。流れるようなダークブラウンの髪。清廉な魔力。貴女は、海に消えたラステルームの民の特徴をすべて兼ね備えています。ラステルームの民は、我が部族と同じ、古の神を崇め奉る民。いわば、我がザルリディア一族の同胞です。左胸の刻印は、名もなき神の紋章。違いますか?」
シンシアは驚いたように目を見開いた。
「ご存じだったのですね」
「以前から、と言いたいところですが、ラステルームの末裔ではないかと気が付いたのはごく最近。貴女の左胸の痣をみて確信いたしました。もっとも、母は貴女を一目見た瞬間に確信したようですが……」
「では最初から……」
「そう。母と姉は、貴女を私の花嫁候補として、手元に引き寄せたのです」
「私がラステルームの末裔でなかったら……」
「当時、召しかかえた若い侍女たちは、みな私の花嫁候補。貴女がラステルームの末裔でなくても、その清廉な魔力で選ばれたはずです」
「魔力があるから、私のことを気にかけてくださったのですか?」
「わかりません。ただ、魔力がなければ貴女とこうして出会うことはありませんでした。その清らかな瞳、絹糸のような髪、慎み深い心根……、全てに心魅かれました。もし、今、貴女から魔力が消えたとしても、貴女を妻にしたいという気持ちは変わりません。貴女がザルリディア当主の妻にふさわしくないというのなら、私は喜んで当主の座を捨てましょう」
レクラスは決意を含んだまなざしでニッコリと微笑んだ。
「レクラス様……」
「シンシア。私の元に戻ってきてください。私の妻になってください」
シンシアは瞳を潤ませながらレクラスを見つめていたが、ためらうように視線を落とした。
「あたしのことは気にしなくていいんだよ、リタ」
ソニアがシンシアの肩を叩く。
シンシアは振り向くと、
「でも、お母さん。ひとりになってしまうわ」
そう言って目を伏せた。
「あたしはもともとひとりだったんだから、元に戻るだけのことよ」
ソニアはニカッと微笑む。
「でも……」
「いやよぉ。あたし、あなたに心配されるほど老いぼれちゃいないわよ」
煮え切らないシンシアに、ソニアは眉間にしわを寄せる。
「ソニア殿。もしよろしければ貴女も私たちともに……」
「お気持ちは有難いのですけど、あたしはこの住み慣れた街から離れるつもりはありません」
ソニアはレスラスに向かってそう言うと、シンシアに向きなおった。
「リタ、じゃなくてシンシアさんだったわね。あたしはあなたが幸せなら、それで十分なのよ」
「お母さん……」
シンシアは目に涙が滲む。
「短い間だったけど、あなたと親子の真似事ができて楽しかった。ありがとね、リタ。幸せになるのよ」
ソニアはニッコリ笑うと、レクラスに向きなおり、
「レクラスさん。リタを頼みましたよ。必ず幸せにしてやってくださいね。もう絶対に泣かせちゃイヤですよ」
と、レクラスの翠色の瞳をジッと見つめて言った。
「はい。必ずや幸せにしてみせます」
レクラスはしっかりと頷いた。
「お母さん……」
ソニアはシンシアの手をとると、
「幸せになるのよ」
と、瞳をうるませながらギュッと握った。
*****
翌朝。
昨日の吹雪が嘘のように、空は見事に晴れ上がっていた。
レクラスとシンシアが、ソニアの家の外に出ると、一面の銀世界のなかに、黒いインバネスコートを身に纏った禿頭の老人が静かに佇むように立っていた。
「父上」
レクラスはマティアスに会釈をする。シンシアもそれに倣った。
「随分と時間がかかりましたね」
マティアスはレクラスをチラリと見て静かにそう言うと、ふたりを見送ろうと出て来たソニアに向きなおり、深々と頭を下げた。ソニアもこたえるかのように深々と頭をさげた後、顔をあげ、ニッコリと笑い、シンシアの方に目を向けた。
「リタ、じゃなかった。シンシア。元気でね」
「お母さんも……」
シンシアは瞳を潤ませながらこたえた。
「シンシア。近い将来、貴女は何時でもここに来られるようになりますよ」
マティアスはシンシアの方を見てそう言うと、ソニアに視線を戻し、軽く目礼をし、レクラスに向きなおった。
「では、ご当主。参りましょう」
レクラスは肯くと、ソニアの方を向き、
「お世話になりました」
と、深々と頭を下げた。シンシアも頭を下げる。
「では」
マティアスはソニアに再度目礼をすると、力ある言葉を紡ぎ出す。
術が完成し、3人の姿はその場からパッと消えた。
ソニアは瞳を潤ませ、鼻をすすりながらも、満足そうに微笑みながら、しばらくシンシアのいた場所を眺めてい




