(過去話)楓の木の下で 後編
シンシアが不定期にレクラスの指導を受けるようになってから、3ヶ月ほどが経過していた。
最初はなかなか思うように結界を張ることが出来なかったシンシアも、レクラスの適切な指導のお蔭で、今では少し複雑なものでもすんなりと出来るようになっていた。
「シンシア。結界術に関してはもう教えることはありません。よく頑張りましたね」
レクラスはシンシアにニッコリと笑いかけた。
「ありがとうございます」
シンシアもニッコリと笑う。
レクラスは軽くうなずくと、
「これで私の指導は終わります」
と静かな声で言った。
「ありがとうございました」
シンシアはそう言って深々と頭を下げた。
とうとうこの日が来てしまった。
シンシアは心の中で大きなため息をついた。
普段の、ザルリディア本家当主としてのレクラスはいつも淡々としている。普通なら驚くような出来事があったとしても、ほとんど表情を変えることはなく、感情をあらわにすることも皆無といっていいほどない。傍目には何を考えているのか分からないし、少し近寄り難くもあった。
しかし、本来のレクラスは感情豊かでとても優しい人物だということをシンシアは知っていた。
当主としての責任感と周囲に対しての気づかいから、あのように常に淡々と落ち着き払った態度になってしまうのだ。
シンシアは、そんなレクラスが家族でも側近でもないシンシアに、まれにチラッと素の表情を見せてくれるのが嬉しかった。
そして、レクラスが結界術を指導してくれるこの時間は、魔術の上達はもちろんのことながら、そんな素のレクラスを垣間見ることができる貴重な時間でもあった。
その楽しい一時が終わってしまう。
この先、もうレクラスと親しく会話をすることはないだろう。
シンシアはとてもさびしく残念に思ったが、その気持ちを胸の奥底に沈め、微笑みながら顔をあげた。
「シンシア。この先もお会いしていただけませんか?」
思いもよらないレクラスの言葉に、シンシアは驚き、「え?」と首をかしげた。
「これからはプライベートで」
レクラスは真剣なまなざしでシンシアを見つめている。シンシアの胸は高鳴った。しかし、シンシアは首を大きく横に振り、
「レクラス様。私は使用人にすぎません」
と、目を伏せた。
「そのようなことを気にする必要は全くありません。姉上にも許可はいただいております」
「レクラス様……」
シンシアが顔を上げると、レクラスの優しい瞳があった。
「もちろん、私は貴女に強要するつもりはありません。貴女がお嫌でなければ、明日、あの楓の下でお待ちしております」
レクラスは微笑むと、向きを変え、修練場から出ていった。
シンシアはしばらく呆然と立ちつくしていた。
******
次の日の昼下がり、シンシアは箏を奏でるレイラのそばに控えていた。
レイラはあらゆる楽器を弾きこなすが、特に箏の演奏は素晴らしく、いつもシンシアは聴き入ってしまう。
しかし、今日に限ってはレイラの演奏もあまり耳に入って来なかった。
「眠うなった」
レイラは突然手を休め、そう言うと立ち上がった。そのまま長椅子へ移動すると横になり目を閉じる。
シンシアはすぐさまブランケット用意し、広げてレイラにかけようとした。
と、レイラが薄目を開けた。
「しばし休む。そちゃ好きにいたせ」
レイラはそれだけ言うと、シンシアに背を向けるように寝返りを打った。
シンシアはレイラに深々と頭を下げると、部屋を後にした。
シンシアは庭に降りると、約束の場所へと向かった。
このところ朝晩は冷え込むようになってきてはいたが、日中、とくに日向はまだまだ暖かい。
空には雲ひとつなく、秋のやわらかな陽射しが微かに色づきはじめた木々にふりそそぎ、金木犀の甘い香りが漂っていた。
あの楓の葉は少し赤く色づきはじめていた。
楓を見上げていたレクラスは、シンシアが近くに来ると、ゆっくり振り返った。そして、シンシアの姿を見つけると、瞳を輝かせ、とろけるような優しい笑みを浮かべた。
初秋の少しひんやりした風がレクラスの黒髪を揺らす。
「シンシア。良かった。貴女がいらっしゃらないのではないかと、少し不安に思っておりました」
シンシアはレクラスの翠色の瞳に吸いこまれそうに感じ、なんの言葉も言えずにレクラスをただ見つめていた。
「以前、貴女にはみっともないところを見られてしまっていますからね」
レクラスはそう言うと、心もち視線を落とした。
「?」
シンシアは首をかしげた。
「父上に叱られているところを……」
少しうつむいたレクラスに、シンシアは首を横に大きく振った。
「あれは違います。あれは、レクラス様がお優し過ぎるから、マティアス様がご心配なさっただけで……」
「シンシア……」
レクラスに熱いまなざしで見つめられ、シンシアは真っ赤になってうつむいた。
「少し早急すぎるかもしれませんが、私は貴女を妻に迎えたいと考えております」
シンシアは驚き、顔を上げた。
「レクラス様。私は使用……」
「そのことを気にする必要は全くありません。貴女は魔術師としても優れた才能をお持ちだ。私の妻として何の不足もありません」
レクラスはニッコリと微笑む。
「レクラス様……」
シンシアはレクラスの優しい瞳をぽーっと見つめた。
「シンシア。結婚を前提にお付き合いしていただけませんか?」
レクラスは真剣なまなざしで、シンシアにそう言った。
「はい」
シンシアは首まで真っ赤になりながら肯く。レクラスはシンシアの手をとると、その甲に優しくくちづけをした。
秋の涼しい風が楓の木を揺らしていた。




