逃避
もうここにはいられない。
シンシアは逃げるように自室に戻ると、荷物をまとめはじめた。
なんという心得違いをしていたのだろうか。
本来、シンシアは大姫・レイラ付きの侍女。ザルリディア本家に仕える一奉公人に過ぎない。その上、他の侍女たちのように、ザルリディア一族やそれに準じる家の出身ではない。それどころか、シンシアは小さな漁村の名も無い貧しい漁師の家に生まれた。そう、シンシアはイザベラの指摘通り『どこの馬の骨かも分からない』女なのだ。
それなのに、あろうことか、シンシアはザルリディア本家の当主であるレクラスと結婚できるものだと思い込んでいた。ザルリディア本家の嫁になれると思ってた。
ザルリディア本家は魔術師界の頂点に君臨している。
現在、表向きは王家の臣下となっているが、本来は客分。ザルリディア一族は王家に招聘され、共にこの大陸を平定した。ザルリディア本家は、いわば王家と同格といっていい存在なのだ。
そのザルリディア本家当主であるレクラスに、一介の漁師の娘に過ぎないシンシアが釣り合うはずはなかった。
シンシアの父親は腕の良い漁師だった。しかし、ある嵐の日、漁に出たきり、ついに戻ることはなかった。
シンシアの家はたちまち傾いた。
しばらくは、シンシアの母親が漁師仲間から細々とした仕事を回してもらい、なんとか生計を立てていた。だが、その母親も大病を患って寝たきりになってしまい、薬代どころか、その日に食べるモノすら事欠くようになっていった。自身もまだ子供と言って年齢であるにもかかわらず、さらに幼い弟を抱え、シンシアは途方に暮れていた。
そんなとき、ザルリディア本家から、シンシアを侍女として召し抱えたいとの話が持ち上がったのだ。
シンシアが奉公するにあたって、ザルリディア本家からは多額の支度金が支払われた。
シンシアは方々への借金を返済し、さらにの母親の薬を購入することができた。残念ながら、ほどなくシンシアの母は息を引き取ってしまったが、手厚い看護を受け、穏やかな最後を迎えることができた。
幼かった弟は、ザルリディア一族の師範魔術師に内弟子として入門することができ、引き取られていった。
レイラの侍女となったシンシアは、侍女に上がると同時に、主君であるレイラに入門することになった。
レイラはシンシアをいたく気に入り、侍女や弟子というよりも、まるで妹のように可愛がった。
いつしかシンシアはレイラの弟であり、ザルリディア本家の若き当主であるレクラスと心を通わせるようになり、ふたりは結婚の約束をするまでになっていた。
レクラスは常日頃からシンシアに「侍女であることを気にする必要は全くない」と言っていたし、レイラはシンシアをまるで本物の妹のように可愛がってくれていた。だから、いつの間にかシンシアは自分がザルリディアの人間のような気持ちになってしまっていた。
だが、そんな本家の人々の優しい気づかいに甘えてはいけなかった。分け隔てなく接してくれるからこそ、それに甘えてはいけなかった。
シンシアのような貧しい出自の者が、王家と同格であるザルリディア本家当主の嫁になるなど、あってはならない。たとえ当主のレクラスがそう望んだとしても……。
シンシアは主家のために自ら身を引くべきなのだ。
シンシアは、そんな誰にでもわかるような単純な道理に思い至らなかった自分が恥ずかしかった。と同時に、レクラスと決して結ばれることがないという現実に、胸が締め付けられそうになる。思わず叫びだしたい衝動に襲われ、シンシアは手で口をグッと押えた。
今すぐ、消えてしまいたい。
シンシアは溢れ出す涙を拭い、人目を忍んで、外へと飛び出した。




