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ある一族の物語  作者: 岸野果絵
レイラ
35/64

夢幻の湖

 濃霧の中を歩き続ける。

この先に何があるか、レイラは知っていた。


 ふっと目の前が開けた。

とはいっても、先ほどよりは薄くなったとはいえ、相変わらず霧がたちこめている。


 ここは『夜の女神』が眠る『夢幻の湖』だ。


 レイラは立ち止まると、ゆっくりと湖を見回した。

湖面は乳白色の霧に霞んで、よく分からない。


 湖の上に人影がみえた。

懐かしい人の姿、に思わずそちらの方へ行きかけたが、ハッとして足を止める。


 あの人影はまぼろし。

ここにはレイラ以外の人間はいるはずはないのだ。

 改めて周囲を見渡すと、そこかしこにいろいろな人が現れては消え、消えては現れる。

レイラのよく知った人物だけでなく、見知らぬ人、そしてレイラ自身もいた。

それらは誰かの記憶。

誰かが思い出せば、その姿がこの湖畔に現れるのだ。


 レイラは湖畔に佇み、しばらくの間、幻影を眺めていた。


 この湖にたどり着くことができるきっかけは解っていた。

 深い孤独と悲しみを感じた夜、その孤独を抱えながら眠りにつくと、必ず霧に包まれた道に立っているのだ。

その道を霧の深い方へと進めば、この湖が現れる。

 孤独と悲しみが鍵なのだ。

 はじめのうちは、レイラ自身が孤独と悲しみをえなければたどり着くことができなかった。

 しかしある時、深い孤独を抱える女の話をきき、それに涙した夜、その女の孤独と悲しみに引き寄せられるように、レイラはここに着ていた。

 それ以来、レイラは他人の深い孤独に接すれば、ここに来れるようになっていた。


 レイラは積極的に孤独を抱えた人々に会う。

孤独と悲しみを探し求め、各地を渡り歩く。

深い孤独に触れる度に、レイラの心は痛み、ときには息ができないくらいの苦しみに捕らわれそうになる。

それでもレイラはやめなかった。

湖に来るためにはじめたことだったが、いつしか人の心の奥深さに興味をおぼえるようになっていた。

 今、こうして湖面をみつめていると、先ほど話を聞いた女の喜びに満ちた笑顔と、悲しみと怒りに歪んだ顔が交互に浮かんでは消え、消えては浮かび、その顔がだんだんに変化していき、先ほどの女ではなく、一昨日、すすり泣きを漏らしながら話をしていた、子を失った女や、その前に話を聞いた遊女、今まで話しを聞いてきた女たちの顔になり、そしていつしかそれは、レイラ自身の顔になっていた。


 レイラはゆっくりと目を閉じた。

湖はしんと静まりかえり、水音さえもしない。


 湖にたどり着けるようになったばかりの頃、レイラは湖のどこかで眠っている『夜の女神』を見つけだそうと、湖に入ろうとしたことがあった。

 あの時、レイラは足場の良さそうなところから岸辺に降り立ち、湖の向こうを見つめながら、静かに進みはじめた。

しかし、足先が湖水触れた途端、レイラの身体は硬直した。

冷たく鋭い何かが心の奥に突き刺さり、無理矢理かき回されるような気分に襲われたのだ。

普段は胸の奥底に沈み込み、その存在すら忘れている怖れや絶望、憎しみなどの負の感情が、まるで汚泥が舞い上がるようにふつふつとわき上がってくるのを感じた。

レイラは慌てて足を引いた。

一瞬の出来事ではあったが、レイラの額からは冷たい汗が噴き出していた。

恐怖に荒くなった息を整えながら、レイラは悟った。

まだ女神の元に辿りつくには至っていないのだと。


 その出来事以降、レイラは湖に入るのを一旦諦め、周辺を探るようになっていた。

 そしてある日、微かに感じる魔力の気配に気がついた。

それは、現実に生きている者たち、レイラのよく知っている者たちの気配だ。


 その時、レイラは確信した。

 この湖は夢の中にのみ存在する湖ではない。

現実に存在するのだ。

現実世界と通じる道がどこかにあるに違いない。


 レイラは、精神を研ぎ澄まして、その気配がどこから流れてくるのかを探った。

しかし、あまりにも微かすぎて、掴んだと思った瞬間にパッと消えてしまい、なかなかたどることが出来なかった。

何度も挑戦しながら、レイラは、湖と現実世界との接点を見つけることが、女神の元に近づくために必要な行程ではないかと感じていた。

 それで、レイラはこの湖に来ると、その接点を探るために、こうして静かに湖を眺めながら精神を研ぎ澄まし、気配を探るようになっていった。



突然、きれいに研かれた鏡のような湖面が、風もないのに揺れた。

霧が薄る。

と同時に、見知った者たちの魔力の気配が押し寄せてきた。

レイラは反射的にそちらの方向に駆け出した。

しかし、みるみる濃霧が立ちこめてきて、あっという間に気配をかき消してしまった。

 レイラは呆然と立ち尽くた。

辺りは真っ白で右も左も、上も下も分からない。

まるで、乳白色の空間に投げ出されたような感覚に陥った。

レイラは混乱に飲み込まれそうな自分に気がつき、頭を冷やそうと大きく深呼吸した。

しばらく目を瞑り、呼吸だけに意識を集中していると、早鐘を打っていた心臓が静まっていった。

 レイラの精神は冷静さを取り戻していく。

足裏から地面の固さが伝わってくるのを感じた。

どっしりとした心強い大地にホッとし、目を開けると、相変わらず乳白色の世界が広がっていたが、落ち着きを取り戻したレイラはもう困惑することはなかった。

そのまま、ゆっくりと意識を自分の内部から外側へと移していく。

 背後に濃い霧が渦巻いているのを感じた。

意識でたどればたどるほど霧は濃くなっていく。

濃い方向が夢幻の湖、そして、その最奥が女神の眠る場所だ。


 この霧は女神の神気だ。

そう確信した途端、パッと視界が開けたような軽さを感じた。

相変わらず濃霧が立ちこめてはいたが、レイラには周囲の様子がはっきりと認識できた。

乳白色の空間のなかに、木々や草花、土や石の気配を感じることができるのだ。

 霧のかすかな濃淡すらもわかるようになっていた。

しかし、わかるからこそ、背後の濃霧から重苦しい圧力を感じはじめていた。

 どこまでも清涼な力でありながら、まるで猛獣がすぐ傍に潜んでいるような、得体の知れない重圧感と緊張感。

まとわりつき、何もかものみこんでしまうような、圧倒的な力。

人間などひとたまりもない絶対的な力の気配に、レイラはゴクリと唾を飲み込んだ。

じわじわと恐怖がわき上がってきた。

先ほどとは違う、畏怖と呼ぶに相応しい畏れに、レイラは息をすることすら慎重になる。

背後から流れてくる神気に背筋がチリチリとし、逃げたいような、それでいて、いっそその力に飲み込まれてしまったら心地よいのではないかという感覚に、レイラの意識はしだいに朦朧としていった。



ーーーーーーー


 ふらふらと湖の方へと向きを変えた時だった。

霧を破るような高音がレイラの鼓膜を震わせた。

反射的に意識を聴覚に集中させたレイラの耳に、透明で軽快な笛の()が流れ込んできた。

レイラが振り向くと、薄まった霧の先にうっすらと太陽の光が見えた。

一気に見知った魔力の気配が流れ込んでくる。

まるでレイラを呼んでいるかのようだ。


 レイラは大きく息をすると、今度は細心の注意を払って、それらの気配を掴んだ。

そして、ゆっくりと慎重に歩き出す。


 風がザザッと吹いた。

霧がわっと押し寄せてきて、掴んでいた気配が細くなった。

レイラは立ち止まり、今度こそはどんなに細くなっても掴んでいようと、意識を集中させる。

一瞬の気のゆるみも許されないくらい、気配は細くなっていった。

レイラは額に汗が浮かべながらも、懸命に気配に食いついた。

が、レイラの頑張りをせせら笑うかのように、気配はみるみる薄くなっていく。

ふっと気配が途切れた。

それでもレイラは諦めずに必死になって気配を探り続けた。


と、またかすかに笛の音が聞こえた。

音の方意識を動かしてみる。

まるで笛の音を追いかけるように、再び気配が流れ込んできた。

レイラは再び気配をしっかりと掴むと、ゆっくり歩き出した。


前方から静かな水音が響いてきた。

誘われるようレイラは速度をあげた。

さらに進むと、笛の音は水音にかき消されてしまった。

しかし、見知った者たちの気配は逆に濃くなっていく。

レイラは気配と水音を頼りに、さらに歩き続けた。


むっとするような水の匂いがして、目の前に川が現れた。

左手の方から川に沿うように霧が流れてくる。

どうやら、左手が上流、右手が下流のようだった。

レイラは立ち止まり、辺りを探るように意識を動かした。

 上流からは女神の神気、下流の方からは見知った者たちの魔力の気配が漂ってくる。

レイラは大きく目を見開いた後、視線を斜め下に落とした。


 この川は夢幻の湖から流れ出たものに違いない。

下って行けば、現世に到達する事が出来る可能性が高いと思われた。


 レイラはゴクリと唾を飲みこみ、下流をじっとと見つめ、大きく深呼吸をし、気合いを入れて歩き出した。


水音がどんどん大きくなっていった。

突然、パッと視界がはれ、青空が見えた。

川は途切れ、水が勢いよく下に落下していく。

押し寄せてくりる現世の気配に、レイラの緊張は一気に緩んだ。


レイラは 足元に気を配りながら、崖に近寄った。

眼下に広がる森、向こうにそびえる山々、さらにその向こうには街並みのようなもの見える。

先ほどまでレイラを包んでいた神気は薄れ、代わりに、いつもの懐かしい気配がレイラを包む。


ここが現世との接点だ。


レイラは湧きあがる感情のままに咆哮をあげた。

続いて滝の下を見た。

しかし、滝壺は盛大な水しぶきでよく見えない。


ゆっくりと大きく深呼吸した。

目を閉じ、喜びに高ぶった精神を落ち着かせる。


まだだった。

確かにここ場所が接点ではあったが、この下に降りることが出来なければ、現世からの道を制覇したことにならない。

ここからが正念場だ。

高さも、下の様子もまったくわならない断崖絶壁を降りなければならないのだ。

はたして、滑落せずに無事に降りきれるのだろうか。


レイラは湿った足場に注意しながら膝をつき、崖の下を覗きこんだ。

吹き上げてきた風がレイラの髪を揺らす。


何の準備もしていない状態で自力で降りるのは難しい。

しかし、次にここにたどり着けるかどうかはわからない。

そして、夢の中でどうやって装備を調達すればいいのか、全く思いつかなかった。


今しかない。

そう思った。

このチャンスを逃したら、二度とここにはたどり着けない気がしてならなかった。


ふと視線を落としたレイラの視界に、自分の手が映った。


そうだ、魔術だ。

飛翔の術を使えば、滑落の心配はなくなる。

しかし、ここは神域。

魔術が使うことは赦されるのだろうか。

女神の意に添わない行いをした場合、おそらく遮断されるか、この場から追放されるだろう。

追放されれば、二度とここには来ることができないかもしれない。


レイラはその場に座りこんだ。


魔術を試してみる価値はあるが、リスクは大きかった。

魔術を使わずに降りる手段はあるのだろうか。

しかし、今のレイラには思いつかなかった。


降りることを諦めるしかないのか。

それとも、一か八かの賭けにでるか。


迷うレイラの耳に、再び笛の音が流れ込んできた。

レイラは顔を上げた。


そうだ。

もし、ここで諦めたとしたら、ずっと後悔し続けることになるに違いない。

やっとめぐってきたチャンスなのだ。

たとえ、今ここで命を落としたとしても構わない。

後悔しない。


レイラは立ち上がると、神経を集中させた。

内なる魔力を凝縮させながらも、辺りの様子にも気を配る。


予想に反して、なんの抵抗も感じない。

それどころか、いつもよりも魔力がなめらかに動く。


女神はレイラのこの行動について、不快感をあらわしていない。

レイラはそう感じたが、まだ油断できないと、さらに細心の注意を払って、丁寧に魔力を練り上げる。


フワッとした浮力を感じ、レイラはホッとひと息ついた。

深く息を吸うと、体内の魔力を動かしてみる。


レイラの足が、ゆっくりと大地から離れた。

飛翔の術は問題なくかかったのだ。


レイラはそのまま崖の(ふち)に移動し、再び見下ろした。


轟音と巻き上がる水煙の向こうには、七色の虹が輝いている。


今だ。


レイラは意を決して、崖の向こうへ飛び出した。

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