紫陽花
霧雨に浮かぶ丘陵は、全体的にぼぉっと薄紫に覆われている。
天気の良い日は紫陽花目当ての人々でにぎわうこの神殿も、今日のような悪天候の下では、人影は見えない。
レブアルにいわせれば、人がいなくて当然なのだ。
ただの霧雨で終わらない不穏な気配が空を渦巻いている。
今はまだ明るいが、いつ雷雲が発生してもおかしくない状態なのだ。
大気の様子から、レブアルは何度も諌めたのだが、ヴィルフリートは「風情があって良い」ときく耳を持たなかった。
風流もヴィルフリートのように度が過ぎてくると、誰も行かないようなところへと出かけるようになる。
普通の事では満足できなくなるらしい。
嵐の日に舟を出そうとして、船頭ともめたこともあった。
あの時は、断固として船を出そうとしない船頭を払いのけ、ヴィルフリートは竿をとって船を出そうとしたのだ。
そして結局は、レブアルが魔術を使って舟を動かすことになった。
それに比べたら、今日のわがままはかわいい方だった。
「レブアル、見てみろ。しめやかな中にも瑞々しい生の喜びがあふれている。やはり紫陽花は露を含んでこそだ」
うっとりと紫陽花を見つめるヴィルフリートに相槌を打ちながらも、レブアルはチラチラと空を見上げる。
確かにヴィルフリートの言う通り、雨に濡れた紫陽花は、晴れた日の紫陽花とはまた違った美しさではあったが、レブアルはそんなことよりも、天候のが心配だった。
しかし、ヴィルフリートは天候のことなど全く気にしていないようだ。
そして、レブアルのおなざりな相槌も気にしていないらしい。
紫陽花を愛でながら、ご満悦そうにのんびりと歩いている。
大きな池に出た。
池の水面はそぼ降る雨を受けてゆれている。
不意に、煙りのような雨の中から微かな弦の音が聞こえた。
ヴィルフリートの足が止まった。
レブアルも足をとめ耳をすませた。
静かな調べは、雨の中に吸収されてしまいよく聞こえないが、確かに筝の音だ。
池の向こうに、侘びた茅葺きの建物が見える。
調べは、確かにそちらから流れてきている。
「山霧の君……」
ヴィルフリートはそう呟くと、熱に浮かされたように早足で歩きはじめた。
レブアルも慌てて後を追った。
池に架かる石橋までくると、箏の調べははっきりと聞こえるようになっていた。
石橋の途中で、ヴィルフリートの足が突然止まった。
レブアルはぶつかりそうになり、身体をのけぞらせる。
ヴィルフリートの手から傘が離れた。
ポチャっと小さな音をたてて、傘は池の中に落ちる。
仕方なく、レブアルはヴィルフリートの動向に注意を払いながら、すぐさま自身の傘を石橋の上に置いて、池に落ちた傘を拾い上げる。
ヴィルフリートが取り出した笛を吹きはじめる。
雨に濡れることも全く気にしていない様子だ。
「若。お風邪を召されてしまいます」
レブアルは内側まで濡れてしまったヴィルフリートの傘をたたみ、自身の傘を再び手にすると、ヴィルフリートにさしかける。
ヴィルフリートの耳には、そんなレブアルの声はまったく届いていないらしく、橋の向こうを見つめながら、一心不乱に笛を吹いている。
レブアルはため息をつき、気持ち伸び上がってヴィルフリートの先にみえる建物の様子を観察する。
障子が半分閉まっていって、こちらから中は見えない。
しかし、室内に灯る明かりのおかげで、箏を奏でる女性の姿が、影となって障子に映っていた。
なだらかで静かな筝の調べと、少しくぐもった笛の音が同じ旋律を奏でたり、ときには交差したりしている。
まるで、離れ離れになっていた恋人同士が、ひっそりと逢瀬を楽しんでいるような音楽に、レブアルは天候の事を忘れて聴き入ってしまっていた。
バタバタと大きな雨粒が傘を打つ。
レブアルはハッと見まわした。
池の水面が大きく揺れている。
空を見上げると、雲が飛ぶように流れていく。
西の空が真っ暗だ。
「若」
さすがのヴィルフリートも笛を中断し、レブアルに促されるままに走り出す。
石橋を渡り切り、軒下へと駆けこんだ。
ザザザザザ
みるみる雨脚が強まっていく。
建物の中から紺のお仕着せを着た女中らしき大女が顔をだした。
「すみません。突然……」
「こんな所じゃ濡れちゃうよ。中へどうぞ」
人なっこくニッと笑う女中の言葉に甘え、二人は建物の中に入る。
「雨がやむまで、こちらでって、お嬢さんがね」
女中が用意してくれたタオルで、濡れた身体を拭いながら、座敷に上がった。
室内の中央に筝がおかれ、その前に、屏風を背にしたリディアが座っていた。
髪を綺麗に結い上げ、淡い鴇色の衣を纏っている。
リディアはヴィルフリートの姿をみとめると、髪に挿したラベンダーの花を揺らしながら、深々とお辞儀をする。
湿気に蒸れた室内に、甘く清々しいラベンダーの香りがふんわりと漂う。
レブアルは思わず舌打ちをしそうになったが堪えた。
出来すぎだった。
あの、成金ハーゲンにここまでの才覚があるのだろうか。
一代で財を成したと噂されるハーゲンだが、レブアルの見た限りでは、金のニオイには敏感そうだが、こういう方面は得意そうではない。
ハーゲンの屋敷の調度品は、成金趣味すぎて、お世辞でも品が良いとは言えなかったのだ。
しかし、今目の前に座っているリディアの装いは、じっとりとしたこの季節の憂いを吹き飛ばしてくれるような清涼感があり、しかも淡いピンク色はリディアの初々しい可憐さを引き立てている。
小さく可愛らしいラベンダーの紫、そしてその香りには、心を穏やかにさせてくれる効果があり、この鬱々とした時期にはうってつけだ。
心憎いまでの演出だ。
どう考えても、あのゴテゴテしい衣服に身を包んだハーゲンのゲジケジ眉とは結びつかない。
かといって、リディアにそこまでの才覚があるようにも見えなかった。
リディアは確かに可愛らしいが、その可愛さは知性的な雰囲気というより、のどかであどけない、ちょっぴり危なっかしい、幼い子どものような愛らしさだ。
こんな気の利いた真似ができそうには、とうてい見えない。
女中が「どっこいしょ」と筝を持ち上げると、大きなお尻をふりふりとしながら、箏を壁に立てかけ、「ふぅ」といいながら、左右の手をパンパンと払うように叩いた。
その、関取のような動きに、レブアルは視線を逸らす。
視界の端にうつった屏風の影で何かが動いた。
突然、屋外がピカッと光る。
間髪いれずにズドーンという大きな音と共に空気が揺れる。
それと同時に屏風の影で魔力がひそかに動いたのをレブアルは見逃さなかった。
確認しようと立ち上がりかけた。
再びドーンと雷が鳴った。
「あれぇ」
不安定な中腰のレブアルに向かって女中が物凄い勢いで飛びついてきた。
予想外の方向からの突然の攻撃、バカ力、女中の質量に、訓練されたとはいえ、細身のレブアルは簡単に横に倒された。
レブアルは倒れた反動で起き上がろうとした。
ドーン
「ギャー」
女中が猛獣のような悲鳴をあげて、起きようとしたレブアルにのしかかる。
仰向けに倒されたレブアルの上に、横幅が倍くらいある女中の巨体が乗った。
レブアルは「ぐへぇ」と、つぶれた蛙のような呻きをあげる。
「ハハハ。レブアル、役得だな」
怯えるリィディアを腕の中にかき抱きながら、ヴィルフリートが楽しそうに言った。
「なんなら代わりましょうか?」
女中の巨体を必死に押しのけながら、レブアルは恨みがましい目でヴィルフリートをにらんだ。
しかしヴィルフリートは、「ハハハ」と笑っているだけだった。
やっと女中の巨体から解放されたレブアルは立ち上がった。
再びの雷鳴に、女中が襲いかかってきたが、今度はなんなく身をかわすと、勢いあまった風を装って、屏風の後ろに飛び込んだ。
そこには、もはや、魔力の気配は、毛筋ほどもなかった。
先ほど感じた魔術は、瞬間移動術だった気がしていたが、確信に至るほどではない。
確認しようにも、この状態ではなんの手がかりもつかめなかった。
レブアルはため息をついたが、気を取り直して、もう一度だけ、屏風の後ろを確認する。
影の中に、ひっそりと小さな袋があるのが目に入った。
レブアルはそれを素早く手に取ると、懐紙にくるんで懐へとしまった。
****
結局、ヴィルフリートはリディアをハーゲン別宅まで送ることに決めたようだ。
激しい雷雨はおさまったものの、リディアはすっかりおびえきってしまっていたし、このような悪天候の日に、いくら供がいるとはいえ、女性だけで帰すのは忍びなかったらしい。
ヴィルフリートとリディアは馬車に同乗し、レブアルは馬に乗ってお供した。
ハーゲン別宅につくと、ヴィルフリートが先に馬車から降り、中にいるリディアに手を差しのべる。
馬車の中から、目元を朱く染めたリディアが姿を現した。
リディアは恥じらいながら、ヴィルフリートに手を引かれて館の中に入っていく。
そんな一連の様子をじっと眺めながら、レブアルは「今夜は泊まりだな」と呟いた。
毎度のことながら、主人・ヴィルフリートの手際は鮮やかだった。
****
レブアルは、ハーゲン別宅で夜を明かす気満々で、まだ日が落ちていないも関わらず、そこの使用人たちと酒盛りに興じていた。
ゲジ眉ハーゲンにはあまり良い印象を持っていないレブアルだったが、ハーゲンの使用人たちの、素朴で気さくな気質には好感をもった。
都の上品ぶった、すかした奴らと呑む酒は味も素っ気もなかったが、今日の酒盛りは、まだ始まったばかりだというのに、皆がすっかり打ち解けて、あまり良くない酒も美味しく感じていた。
気分の良くなったレブアルが、火術でスルメをあぶっていた時だった。
ヴィルフリートが帰宅するという知らせが届いた。
驚いたレブアルだったが、すぐに身支度を整えると、大急ぎで玄関へと向かった。
ヴィルフリートはレブアルが駆けつけると、待っていたとでもいうように、ひらりと馬に乗った。
レブアルは慌てて、轡をおさえる。
思いもかけない突然の出立の理由を尋ねたいのは山々だったが、まさかこんな場所できくわけにもいかず、レブアルは大人しく、ヴィルフリートの乗った馬をひきはじめた。
あの激しい雷雨が嘘のように、空は明るくなり、夕日が眩しい。
ハーゲン別宅が見えなくなった辺りまで来ると、ヴィルフリートが馬を止めた。
見上げたレブアルに向かって、ヴィルフリートが手を出した。
「若?」
「先ほどのモノを」
レブアルは首を傾げた。
「屏風の影で見つけたモノを出せ」
レブアルは驚いてヴィルフリートの顔をまじまじと見上げる。
「今度ばかりはとぼけさせんぞ」
「え?」
ヴィルフリートの意味深な物言いに、レブアルはきょとんとする。
「いいから、早く出せ」
少し苛ついた声でヴィルフリートが催促する。
ヴィルフリートが声を荒げるようなことは滅多にない。
レブアルは慌てて懐から、懐紙に包んだ小袋を出すと、ヴィルフリートに手渡した。
ヴィルフリートは懐紙を開き、小袋を取り出した。
先ほどは暗がりでよく見えなかったが、小袋は赤い上等そうな唐織りで出来ていた。
ヴィルフリートはその小袋を顔に近づけると、うっとりと目を閉じた。
「白檀か……」
そう独り言をつぶやき、小袋を開き、中を覗く。
「やはり……」
ヴィルフリートは琴爪をつまみ、せつなげなため息をついた。




