翌朝
目覚めると、マティアスの姿はなかった。
昨夜、ラセリアが寝つくまではすぐそばにいた。
まだマティアスのぬくもりが残っている。
ついさっきまで傍に居たようだ。
どうやらラセリアは、マティアスがベッドから抜け出したことにも気がつかないくらい寝入っていたらしい。
こんなにぐっすりと眠ったのは何年ぶりだろうか。
ずっと眠れない日が続いていた。
特に、ルーフィスが亡くなってからは・・・・・・・。
ラセリアはゆっくりと起き上ると、次の間へと向かった。
「マティアス殿は?」
ラセリアは尋ねた。
侍女たちは視線を彷徨わせ、お互いに目で尋ねあっているようだ。
ラセリアは表情を変えなかったが、心の中ではため息をついていた。
マティアスは存在感を全く感じさせない。
居るのだか居ないのだか分からないくらい影が薄い。
侍女たちに気がつかれずに、というより、侍女たちの方がマティアスに気がつかなかったというべきか。
とにかく、マティアスはどこかに行ってしまったようだ。
屋敷内に居るのだろうか。
それとも・・・・・・。
ラセリアは侍女たちに気づかれないように、すこしだけ視線を落とした。
昨晩、マティアスは、ラセリアのそばを離れないと誓った。
あの時、ラセリアは、マティアスならばずっとそばにいてくれるはずだと思った。
それなのに・・・・・・。
いや、そんなはずはない。
なにをそんなに弱気になっているのだろうか。
ただ、目覚めた時に姿が見えなかったというだけだ。
何日も姿を見せないというわけではない。
この程度のことで、冷静さを失いそうになるなんて、どうかしているのではないだろうか。
「確か、庭の方へ行かれたような・・・・・・」
侍女の一人が、記憶を絞り出すようにつぶやいた。
ラセリアは身支度を整えると、庭へと降りた。
建物のすぐ近くにはマティアスの姿は見えなかった。
しかし、微かだが、マティアスの魔力を感じる。
近くにいるような気がする。
ラセリアは、マティアスの魔力を探しながら、庭の奥へと、木立の間を進んでいった。
朝日を受けて水面を輝かせる池の前で、まるでその景色と同化する様に佇んでいるマティアスの後ろ姿が目に入った。
ラセリアは、ホッと息をついた。
と、同時に胸が締め付けられるような感覚がおしよせてくる。
息を止め思わずギュッと胸をおさえる。
浅く息を吐き、そして吸った。
ラセリアは、浅い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりとマティアスに向かって歩き出した。
鼓動がいやに大きく聞こえる。
今すぐマティアスに駆け寄って、あの背中にすがりつきたい。
昨夜のように、抱きしめられたい。
そんな衝動に駆られたが、そんなはしたない行いをすることは、ラセリアの矜持が許さなかった。
ラセリアはマティアスの近くまでいくと、足を止めた。
声をかけようとしたが、どうしても言葉が出てこなかった。
普段のラセリアなら、他人に話しかけることなど造作もないことだ。
しかし、なぜかマティアスにどんな風に話しかけたらいいのか、全く浮かんでこなかった。
頭の中は、戸惑いと焦りが渦巻き、ラセリアは今すぐ逃げ出したいような気分になる。
不意にマティアスが振り向いた。
無防備に胸に手をあてたまま立ち尽くしていたラセリアは驚いて息を呑んだ。
「ご当主様」
マティアスは驚いたように慌てて跪こうとする。
「我らは夫婦。そのような堅苦しい挨拶はいりませぬ」
言葉がすらりと口をついて出て、ラセリアはホッとしていた。
マティアスは顔をあげ、ラセリアを眩しそうに見つめながら、ニッコリと微笑んだ。
その優しく柔らかいまなざしに、ラセリアは吸い込まれそうな心持ちになり、我を忘れて見入っていた。
ふと、マティアスの瞳の奥が悲しみに揺らいだ。
「やはり、私の顔は奇怪ですよね」
自虐的に口元を歪め、ラセリアから目を背ける。
「違います」
驚いたラセリアは小さいが強い声で否定した。
しかし、マティアスは表情を変えずに、ラセリアに疑り深い眼差しを向けただけだった。
その諦めを含んだ悲しい瞳にラセリアは衝撃をうけた。
マティアスは昨夜とは全く別人のようだ。
あの深い洞察力をもったマティアスはどこへいってしまったのだろうか。
今、目の前にいるマティアスには、ラセリアの言葉が届いていない。
それどころかまるで聞き入れようとすらしない、頑な雰囲気をかもし出している。
その瞳には少々投げやりな怯えと不安、その奥底に深い悲しみが潜んでいて、ラセリアは心が苦しくなった。
マティアスの心の奥には一体何があるだろうか。
手を伸ばせば届くくらいすぐ近くにいるのに、なぜだかとても遠い。
このまま本当に遠くへ行ってしまうのではないか。
不安になったラセリアは、思わず手を伸ばした。
ラセリアの指先が、マティアスの血色の悪い薄い唇に軽く触れる。
マティアスはびくっと目をむき、戸惑いを露わにした。
逃れようとするマティアスの瞳をラセリアの瞳が捕らえる。
「あなた様のこの唇」
ラセリアはマティアスの瞳を強く見つめながら続けた。
「ここから紡がれるお言葉は、わたくしを喜びに導いて下さいます。お鼻も愛嬌があって好き」
マティアスは、何が起こっているのかよく分からないというように目を丸くして、茫然とラセリアを見ている。
ラセリアはニッコリと微笑みかけた。
本当のことだった。
ラセリアは元々、他人の容姿については気にならない性質だ。
皆が、「美男」だとか「美女」だとか騒いでいるのをきいても、いまいちピンとこない。
確かに、「整った顔立ちだ」とは思うが、「美しい」とか「綺麗だ」とか「素敵だ」と、心の底から思ったことはほとんどない。
整った顔立ちをみていたいのならば、人形でも眺めていればいいのだ。
ラセリアが惹きつけられるのは、造作ではなくて、その人物が時折見せる表情や仕草や態度。
内面の心の動きや考え方が表面に現れた瞬間に、ラセリアの心は反応する。
マティアスは世間一般的にいえば、美男子ではない。
顔かたちは整っているとは言い難い。
しかし、ラセリアにとっては、マティアスは心惹かれる存在だ。
その一挙一動に、ラセリアの心は揺れ動く。
ずっと見ていたいと思わせる人物。
そういう意味では、ラセリアにとってマティアスは美男子だ。
「わたくしが最も好きなのは、あなた様のその瞳。静かに深く澄んでいて、まるで深い山の奥にひっそりと流れる源流のよう。その源流はいつしか大きな流れとなって、わたくしを優しく包みこんでくださいます」
ラセリアはうっとりと微笑みながらマティアスに言った。
マティアスの瞳に、少しずつ光が宿っていく。
ラセリアはそれを見逃すまいと、まばたきもせずにじっと見つめ続けた。
昨夜のマティアスが戻ってくる。
真摯で気遣いに満ち溢れた、優しいマティアス。
ラセリアの心は喜びにうち震えた。
「ご当主様……」
マティアスの呟きに、ラセリアは軽く首を横にふった。
「ラセリアと。そうお呼び下さいまし」
そう言って、ニッコリする。
「ラセリア……」
マティアスは艶を含んだ掠れた声でラセリアの名前を呼んだ。
先ほどまでとは全く違う、熱を帯びたマティアスの視線に射抜かれ、ラセリアの頭の中は真っ白になった。
「マティアスさま。お慕い申し上げております」
知らぬ間に口をついて出た言葉に、ラセリアは驚いていた。
そう。
この気持ちは、おそらく恋というもだ。
ラセリアはマティアスに恋をしている。
今朝の取り乱し様は、いつものラセリアらしくなかった。
いつ、如何なる時も、ラセリアは冷静さを失わない。
どんな時でも、子供を失った時でさえも、取り乱すことはなかった。
倒れるまで泣き喚くのが人としての情だ、と知っていながらも取り乱すことができなかった。
人間として持っていなければならない最も大切なモノ。
ラセリアは自分はそれを持っていない、と思っていた。
冷たい血が流れている、人を愛することができない人間。
情動を持っていない欠陥品。
でも、違った。
今まで気づいていないだけだった。
ラセリアはちゃんと人間としての情動を持っていた。
恋をし、人を愛することも出来るのだ。
それを今、マティアスが気づかせてくれた。
「ラセリア」
マティアスの腕がラセリアを包み込んだ。
ラセリアは素直にマティアスに体を預け、その胸板に顔をもたれかけた。
「あなた様の妻になることができて、わたくしは幸せでございます」
昨夜は言えなかった一言が、すんなりと口からこぼれ落ちる。
マティアスの腕に力がこもった。
「ああ、あなたに溺れてしまいそうです」
熱い吐息を吐きながら、ラセリアの耳を甘噛みした。
ラセリアはピクリと反応し、せつない吐息を漏らした。
溺れてしまいそうなのはラセリアの方だった。
もう、何も考えられない。
このままどうにかなってしまいそうだった。
ラセリアはマティアスの背中に手を回し、目を閉じてしがみつき、マティアスに身を任せた。
「ラセリア。誰か来ます」
ふいにマティアスの冷静な声が聞こえた。
ラセリアはハッと我に返る。
どちらとも無く、スッと身体を離した。
屋敷の方に目をやると、こちらへと向かってくる侍女の姿が木々の間から見えた。
ラセリアとマティアスは並んで池の方を向き、景色を眺めている風を装った。
「ご当主様。朝餉の支度が整いましてございます」
背後から侍女の声が聞こえた。
マティアスは侍女の方を向き「わかりました」と頷くと、ラセリアに向き直った。
「ご当主様、参りましょう」
恭しく一礼すると、ラセリアに目で合図した。
「うむ」
ラセリアは凛とした表情で軽く頷くと、屋敷の方に向かって堂々と優雅に歩きだした。