第1話 松坂の決意
内閣総理大臣である松坂について語ると歴代総理と比べ、特異な経歴を持っていた。
元々彼の一族は明治期から代々国会議員を輩出してきた名門一族だったが、戦時下において時流に乗るつもりで軍部の肩を担ぎ、大政翼賛会の主要人物になったのが失敗であった。
一時は最大級の影響力を得て国政に関わるも、敗戦による公職追放によって一変。国民からの批判もあり国会に議席を維持することも叶わず、一族がまるごと公職から追放されたことにより、国政における一切の影響力を失い、以後は暫く企業家として過ごすことになった。
しかし、一族は決してくじけることなく捲土重来の覚悟で今度は民の立場から経済復興に取り組みつつ力を貯め、戦後復興を経て高度経済成長期の到来に尽力した。そして、戦後50年を期に改めて国政に参加すべく政治活動を再会し、その一貫として一族で唯一官僚として采配を奮っていた松坂を衆院選に出馬させることとなった。
当時の松坂は警察庁のキャリア官僚でありながら、海外の日本大使館の警備を担当する在外公館警備対策官の経歴と、内戦が続いていたアフリカの小国において、国連のPKO活動の一環で日本が派遣した文民警察隊にも参加した経験も有する現場型として知られ、外務省とも広い人脈も持つ優秀な人物として期待されていた。だが、満を持した初めての選挙は自身の顕著な性格と独身であったことが災いし、資金とメディア戦略に秀でた対立候補を前に支援者の囲い込みが振るわずに落選、一族のコネにより得た比例でギリギリ当選する始末であった。
一族念願の政治家になった彼は党内においては仕事は抜群で官僚達からも信頼されていたが、執行部に媚びず時に現実的な意見を口にして貫く性格故に上層部から反抗的で扱いにくい人物と見られ、大きな役職を与えられず面倒ごとばかり押し付けられる不遇な扱いを受けるようになる。しかも、その後に起きた解散総選挙では党から比例に必要な重複立候補を認められず、出馬した選挙区では前回惨敗した候補者を相手にする羽目になり、党の地盤も弱く落選が予想された。しかし、田嶋が選挙参謀として介入したことで一変する。
松坂を当選させるため、彼女は大規模なメディア戦略を展開し、自ら元隊員を説得してPKO文民警察隊の活躍を描いた記事を新聞や雑誌、インターネット上に掲載し、テレビにも取り上げられるようにした。更には公職から離れた彼らを選挙の応援に立ち会わせた上で、その中心人物である松坂の優秀さをアピールしたことにより多くの無党派層の支持を集め、全国的に注目を集めた結果、官僚を率いれる実務派政治家として人気を博して前回敗れた立候補者に大差をつけて当選。その結果に驚いた党執行部は掌を返し、今度は松坂の人気にあやかる形で彼を新政権の閣僚として迎えることにした。
そして現在、内閣総理大臣として異世界情勢と7か国会談に向けて忙しい日々を送る松坂であったが、この日は夜遅くに仕事を終え、公邸の書斎にて一人になり一冊の本を手にしていた。その本の題名は「憲法講話」、戦前に生起した「天皇機関説事件」の中心人物である美濃部達吉が書いた物である。彼は曖昧さのある大日本帝国憲法の解釈において天皇陛下を国家のひとつのかつ最高機関である国家法人説を唱え、統治権を国家にあるとした。この学説は国際協調の観点から昭和天皇も認めており、長く大日本帝国憲法の常識とされていたにも関わらず、統治権を天皇に属するとした天皇主権説を掲げる政治家や軍と真っ向から対立することになり、収益目当てに便乗したメディアの影響を受けた浅はかな国民にも批判されて遂には著作が発禁となり、貴族院議員の立場を追われて暴漢にも襲われ殺されかける羽目になった。
彼を排除した大日本帝国は天皇陛下を神とする誤った教育をした上で、憲法を形骸化して本来の思想を失い、国際的にも孤立したあげくに軍部は統帥権を盾に憲法や勅諭の精神を蔑ろにし、惨めな敗戦へと繋がった。
「あらまあ、おじ様は良い趣味をお持ちで」
誰に断ることもなく現れた田嶋に対し、松坂は答えるまでもなく黙読する。
「ふふふ、そういえば美濃部先生は憲法学者としてただ一人、国民を主権とした日本国憲法に反対されてましたわね。ただ、悲しいことに彼は孤高の人物で誰にも媚びず正々堂々と戦ったがために、正しい人間でありながら様々な妨害により追い出されました」
「...」
「国民主権、聞こえは良いですが決めたのは日本国民ではありせんのに。マスコミは常によく分からない世論調査をして多数決で民意を出して優先事項を見いだそうとしますが、果して答えた方々が国政を理解しているのでしょうか?美濃部先生は軍部とよく対立してましたが、統帥権は否定してませんでしたね。寧ろ素人の政治家が軍の作戦に介入する危険性を訴えてましたし」
「何の用かな?今日の仕事は終わった筈だが」
松坂の言葉に対し、田嶋は悪びれることなく紙袋を机に置く。
「夜食です、忙しい日々で食事も儘ならないと聞いて」
「そうか、ありがとう」
「手作りです、塩分は控えめにしました」
独身の松坂にとって久しぶりに口にする手料理は有難かった。鶏胸肉とレタスを挟んだサンドイッチは消化に優し配慮されていた。
「例の晩餐会の日程は万全のようで」
「ああ、明日の報道陣への発表予測はどうだ?」
「まあ、半々ってところですわ。未だに韓国への冷静な対応を呼び掛ける連中の勢いが強いので。今のところ幾つか代表的な人物を追い詰めるネタを探してますが」
「程々にしておけ、彼らの力は未だに強いからな」
「大丈夫です、聖人ぶる輩ほど裏では汚いことをしてますから」
田嶋はそう言いながら、松坂のために紅茶を入れる。
「おじ様、貴方は私が唯一この国の未来を託そうと思った方です。無理をなさらないで下さい」
「田嶋君、私を買い被りすぎだ。総理になれたのも元々は党の負債を押し付けられただけなんだしな」
「でも貴方は誰よりも勤勉で誠実でかつ、国家の本質を理解されています。貴方でなければこの問題は乗り越えられません」
「...10年前、君が私を当選させたときはまさかこうなるとは想像できなかったな」
「ふふふ、私は信じてましたわよ。いずれ総理になると」
田嶋はそう言いながら、机の上に幾つかのガラクタを置く。
「盗聴機か」
「公邸にも沢山ありましたわ、処分しても次から次へと補充されます」
「職員を一新するか」
「ならば私が推薦する者を、裏は取れてます」
「君を敵に廻したくないな」
「大丈夫、私はおじ様一筋なので」
田嶋はそう言いながら机の上に置かれていた写真立てを手にして眺める。
「おじ様、まだ悔やんでおりますか?ボタビアでのこと」
写真には日の丸を手にしたボタビアPKO派遣隊員一同が写っており、出発前の壮行会の光景であることが伺える。当時は隊員の誰もが日本が国際社会の一員としてボタビアの平和に貢献することに強い使命感を抱いていた。しかし、現実はここにいる全員が帰国することはかなわなかった。
一部の隊員が反体制派の襲撃により命を落としたのだ。
「あの時、俺は親しくなった現地の村人から反体制派の襲撃計画を聞き付けた。急いで彼らの出発を止めようとしたが、日本から持ってきた無線機は安物で役に立たず、他国の海兵隊に護衛を任せていたために連絡がつかなかった。私は必死に彼らを追いかけたが、間に合わずに犠牲を出してしまった。耳障りの良い平和主義のために丸腰同然で行かされた挙げ句、非常なテロリストによって身体を銃弾によって穴だらけにされてな」
「...それが、おじ様が政界に行く切っ掛けにもなったのですわね」
当時、ボタビアに派遣された日本の文民警察隊は現地の情勢を理解できない政治家達により、マトモな装備も与えられず自費で護身用の装備を整えている有り様だった。隊長の側近であった松坂は仲間を守るために必死で情報収集にあたったものの、結果として守りきることが出来なかった。
「そうだ、私が仲間の身体を抱き締めて叫んでいたとき、当時の首相はその報告を軽井沢のゴルフ場で聞いて「仕方がないな」と言っていたそうだ。お前が殺したんだと言いたくなったよ。今でも奴の写真を見ると怒りが沸いてしまう。フォークランド紛争でアルゼンチンと戦うことを決意したサッチャー首相は毎日戦死者の名簿を届けさせて彼らの名を呟き涙してたのと違ってな」
松坂の口調は鋭く目は強ばっていた。それだけボタビアでの経験は彼の人生に深い闇として刻まれていた。
「直接襲撃してきた犯人は最後まで見つからなかった。あの時、俺達に満足な装備があり、同じ日本人である自衛隊に警護してもらえればこんなことにはならなかった筈だと今でも思う。国連加盟国としてPKOの派遣は国際社会における平和貢献の義務であり、国家は派遣される国民を全力で守れるよう最大限に配慮しなければならない。それが分からず、平和主義をかざして皮張りのソファーで鉛筆を舐めて算盤を弾き、国会では派遣隊員の安全よりも他者を追い落とすことばかり考える愚か者に政権を握らせたことが失敗だ。命懸けで任務に向かいボタビアで犠牲になった彼らこそが真の愛国者だというのにな」
「だからこそ、おじ様は決して同じ失敗を異世界で繰り返したくは無いのですね」
「ああ、元々ボタビアで内戦が起きた大きな原因は冷戦による大国を中心とした常任理事国同士のエゴが原因だからな。冷戦を終えた今も経済戦争に形を変えてぶつかり合っている現状で、産業革命を迎えたばかりの未開発の世界が繋がってしまったが故に、我が国を中心に大国による世界規模の利権争いが起こるのが目に見えてる。そしたら異世界だけでなく我が国の国体護持に対する影響は計り知れない。幸いにも双方の指導者は幼いながらも聡明で公正な判断力を持っており、私の考えにも共感してくれている。両国の国民とって二人の存在は正に希望の光といって良い。羨ましい限りだ」
「あらあら、例の青年を忘れてなくて?彼がいたから実現したようなものですわ」
二人の脳裏に浮かぶ守の存在。ただの一自衛官でありながらも、偶発的に起きた因縁からレジーナとクレリアの二人の要人を結ぶキーパーソンとなっている。
彼の存在と日本が転移する可能性がある事実こそ、日本が世界に隠さなければならない最大の秘密であった。
「そうだったな...まあ、彼が引き起こした行為故のこととはいえ、こんなことになるとは今でも信じられないな」
「あら?面白いと思いますわよ。一切を公表できないのが残念ですが」
自身が非常識な存在であるためか、松坂と違い田嶋は事態を楽しんでいる節もあった。
「いつか彼にも会いたいですわね」
「やめておけ、ろくなことになる気がしない」
「おじ様がお会いしたとき、彼はどんな感じでしたか?」
「...ただの通訳だ。なんの特徴もない普通の青年だ...そうだな、私に息子がいればあんな感じに育ったのかもしれないな」
「...母は婚約を破棄したおじ様を恨んでなんかいませんでしたよ」
「そうか...」
そう言い残すと松坂はしおりを挟んでから本を閉じて本棚に戻す。ボタビアでの一件で、松坂には同僚を死なせてしまった自責の念から帰国後にある女性との婚約を破棄した過去があった。妻子ある同僚を死なせた自分が幸せになる権利は無いと自分を攻め、生涯独身を貫く覚悟を持っていたが、元婚約者の娘である田嶋には時に親子に似た感情を見せることもあった。一方の田嶋もまた、父親のような態度を見せる松坂に対し甘えを見せていた。
「夜食をありがとう、美味しかったよ」
「どういたしまして。おじ様、今度も改めて我が国による両国の平和と友好関係構築の実績をアピール致しましょう。そして、その先についても」
「ああ、日本の未来のためにもな。そして、双方の平和のためにも何としても異世界との繋がりを絶たねばならん。7か国会談の参加調整のために来週には岡田君を筆頭に例の派遣艦隊を出発させる」
「分かりました、あの二人についても私どもで手配はできてます。あとは...」
「未だに異世界の利権に拘る長老方に退出してもらうか。解散総選挙なんぞしてる暇は無いからな」
松坂の真意を知る田嶋は改めて決意を口にし、ともに戦うことを誓う。
「岡田さんがうまくまとめてくれると良いですね」
「ああ、彼の手腕に期待しよう」
異世界の利権に目を輝かせる党内の長老達と対立し、更迭さえも囁かれる松坂にとって自身の考えを理解する岡田と田嶋は数少ない同志であった。
「君と岡田君は決して気が合う間柄ではないが、お互いの長所を活かしてほしいな」
「ふふふ、光には必ず闇がつきものですわ。寧ろ、私にはおじ様を守る役割がありますし」
謀略のためにフェイクニュースすらも利用する田嶋であったが、松坂に対しては本心から最後までついていく覚悟を見せていた。
架空の国であるボタビアの話はカンボジアPKOをモデルにしました。
内戦から復興したカンボジアは現在、世界中のPKO活動に隊員を派遣しておりますが、私が現地で指導されている日本人の方に理由を伺うと、日本では世界に対するカンボジアからの恩返しと言われているが、現実は貧しい国なりに国際社会での発言力を得ることと、外貨を稼ぎ現地で支給された貴重な重機を持ち帰るためだそうです。
未だに国が貧しいため、隊員達は学費を稼ぐために志願しているのですが、危険な任地に派遣され時に命を落とすこともあるそうです。
PKOは聞こえは良いですが、常に命の危険が伴い、国連であろうとも身の安全は保証できないとのこと。
豊かな日本が比較的安全地帯に行く反面、代わりに貧しい国は危険な地域を押し付けられている現状で、日本が国際貢献を声高に宣伝するのには憤りを感じました。
今後、国連加盟国として世界平和のために国際貢献が義務付けられている以上、カンボジアで犠牲となった隊員達のように派遣された隊員が不遇な扱いを受けることの無いよう、国民全体が現実をしっかりと受け止める必要があると思います。




