プロローグ 皇帝の憂鬱
ここは帝国の首都カサレア、中央大陸の海岸線から50キロほどの内陸に位置する都市であり、外部からの攻撃を遮断するために高さ10m近い巨大な壁に覆われているという特徴がある。 壁の中の中心にある小高い丘には皇帝が居住し、国政を取り仕切る場でもある王宮が存在し、その周囲を取り囲むかのように貴族や高級軍人達の屋敷が軒を連ねる。 そして壁の外側では一般市民の家々が広がり、川沿いには蒸気機関を活用した工場が立ち並び、そこから伸びる無数の煙突から黒々とした煙が伸びている光景があった。
この街では近年、蒸気機関を活用した産業革命の影響で一般市民の間から有力な財界人が生まれている。
彼らは軍人や貴族達と違った交流の場を設け始めるとともに帝国が発行する戦時国債の購入を推し進めたことにより戦争終結に一役買うことになり、時の皇帝ジギルヘイム3世は戦争終結による彼らの功績を湛え、国債の一部返上替わりに陳情してきた人類史上初となる議会の開催を認めることになる。
街の至る所では有識者を中心に5年後に開催される予定である議会に向けての政治集会が開かれ、それは財界人だけでなく彼らのもとで働く多くの労働者や一般市民までもが集まり、口々に意見を出し合って立憲君主制に向けた議論が展開される光景があった。
しかし、そんな彼らの耳に信じられない情報が飛び込むことになる。
異世界から来た謎の艦隊によって帝国艦隊が壊滅したと
当初はそんな話は誰も信じようとはしなかった。 しかし、バラディ沖海戦から命からがら生き延びた海鷲団の帰還によってことの詳細が知らされることになり、戦争終結により招集解除されて戻って来たばかりの若者達が再び召集されるかもしれないという不安に駆られてしまう。
既に多くの市民達は戦争そのものに嫌気がさしていたのだ。
「それは本当なのか?」
「は、海鷲団からの報告によりますと艦隊は2つとも異世界から来たカイジョウジエイタイという組織によって壊滅されたとのことです」
「私もこの目で確かに見ました。 帆を持たぬ灰色の巨大な軍艦が竜騎士隊を殲滅し、トラロック艦隊が撃破されただけでなく神をも仕留めたところも...」
王宮内にある謁見の間において、海軍長官であるヴェルテス元帥と海鷲団の団長であるウォーヘル中将からの報告を受け、ジギルヘイムは目頭を抑えて考え込んでしまう。 35歳で皇帝の椅子に座り、20年にも渡って連合王国と戦争を繰り広げようやく和平にこぎつけたもののこの国には戦後の対応を巡って皇帝派と教皇派に分かれて政争の兆しが見えていた。
皇帝派の主軸は戦時国債を購入してきた財界人が中心であり、彼らは連合王国との新たな交易販路に思いを馳せている。 その一方で教皇派はモーヴェ教の司祭や軍の重鎮が名を連ねており、未だに根強い亜人排訴論の展開と戦争終結による軍の規模縮小反対を訴えている。
せめて議会の開催によってそれらの勢力に対する牽制となれば良かったが、異世界からやってきた勢力によって再び戦乱の兆しが見えることは彼にとって予想外の出来事であった。
「本土防衛のためにすぐさま再招集をかけて艦隊を整備させるべきです!!」
力強く叫ぶヴェルテスであったが、ジギルヘイムの傍らにいる財務大臣の顔色は冴えない。
長年にわたって軍に人材が集中していた若い労働力や技術者が民間組織に移動したことにより、ようやく偏っていた産業構造が改善されてきた影響で今の帝国は徐々にではあったが豊かになってきた。 庶民の間でも食卓にひと皿料理が増え、病院をはじめとした幾つかの公共施設の建設計画も進み始めている。 そんな矢先で突然の再招集を実行すれば、大きな社会的混乱を生み出すだけだ。
「陛下、慎重な判断をお願いします」
「うむ、海軍長官の気持ちはわかるが、我らのもとには敵の情報が少なすぎる。 ひと月以内に今よりも詳しい情報を持って参れ」
「陛下!! 神をも倒した敵は今にもここに攻め入るかもしれませんぞ!!」
「...そなた、予の言葉が聞こえなかったのか?」
声を荒げるヴェルテスに対し、ジギルヘイムは鋭く睨みつける。 軍の実質的最高権力者である彼の言葉に逆らうことなど許されず、海軍長官は言葉を濁しつつも萎縮して頭を下げる。
「...分かりました」
若干の沈黙の空気が流れたあと、ヴェルテスとウォーヘルは踵を返して立ち去っていくが、二人の態度は明らかに皇帝に対する不満を抱いていることが伺える。
「勝手なことを言いおって...」
ジギルヘイムのつぶやきに対し、財務大臣は無言で首を縦に降る。 異世界への入口発見の報告により、海軍長官をはじめとした軍の急進派や宗教界から派兵の要請が矢継ぎ早に入っていき、遂には皇帝の返事を待つまでもなくビエント王国に軍を駐留させ、ジルベルトからの要請という形で同盟まで結ばせてきた。 その結果、異世界の軍隊を怒らせて艦隊が壊滅させられるという自分達の暴走が裏目に出たというのに悪びれもなく本土防衛を叫ぶなどどこの口が言うのか。
「教皇派の連中を黙らせる必要がありますね」
「だが軍の重鎮の多くが教皇に恭順しておるようではそれも叶うまい、皇帝の椅子なぞ所詮はお飾りに過ぎんからな」
この国の政治体型は二頭政治とも言われ、代々世襲で継承されるサント・ウルチモ帝国皇帝と帝国の国教とされるモーヴェ教のトップであり、皇帝とは別の場所に拠点を置くモーヴェ教皇の2つに分けられる。 軍や公共機関は基本的に皇帝が手中を収めているが、教会をはじめとした宗教施設や国家行事に関しては教皇が実権を握っている。 税においても国税と宗教税に別けられる徹底ぶりで、教会の敷地内においては皇帝でさえ手が出せない治外法権だったりもする。
「現在の税の対比は6対4...こちらが国債の返済に追われていることを見越すと教皇派の方が資金面において有利に立っております」
「仕方なかろう、我らが税を上げればそれに便乗して連中も上げてくる。 さすれば庶民の生活は苦しくなってしまうぞ」
モーヴェ教がここまで税を取るようになったのは先代皇帝の時代になってからだ。 彼は25年と長きに渡って君臨したものの、戦争に関してはシロートであり度々連合王国との戦いで敗北し、国力を落とさせてきた。 そのため、彼に不満を抱く一部の有力貴族達が反乱を起こし、一時は帝国領の半分近くにまで反乱軍の規模が拡大していった。 窮地に陥った彼はあろうことかモーヴェ教に助けを求め、国民に対する権威拡大を交換条件に反乱鎮圧の協力を取り付け、巧みな諜報戦略と暗殺組織の活用によって反乱軍の動きを押さえ込むことに成功した背景があった。
「しかし、2個艦隊がこうもあっさりと壊滅させられるとは...神兵団が出しゃばって来ないのも気になりますね」
「こちらの内紛を見据えているのだろう、大方クーデターが起きた時に備えてるのかもしれんな」
神兵団とは教皇直属の独自の軍事戦力であり、普段は教会をはじめとした宗教施設の警護や治安維持に勤めている武装した神父達のことを指す。
赤を基調としたきらびやかな衣装に金銀細工の散りばめられた豪華な装飾の施された銃や剣を持ち、モーヴェ教の名のもとで死ぬことを誉れとする連度の高い集団であり、その力は一人につき一般兵3人分に相当するとも言われ、独自の艦隊をも保有している。
「近衛艦隊を含め、こちらの手元には5つの艦隊がありますが規模は精々3個艦隊程度...元々削減予定の戦力だったのが仇となりましたな」
「この艦隊を投入すれ神兵団に対する牽制が効かなくなるな...」
かつて帝国には皇帝直属の近衛艦隊を含め7つの艦隊があった。 10年の準備期間を経て整備され、大砲を針鼠のように纏う戦列艦を中心とした近代艦隊であったが、レバント海戦ではこのうちの4つの艦隊が参戦して連合王国艦隊を壊滅させたものの、ベアティ率いる獣人族を中心とした決死の白兵戦による損害も大きくその数を半分以下にまで減らしていた。
戦争終結により、それらの艦隊は再建することなくそのまま統廃合する予定だっただけに皇帝の手元に残る戦力は少ないものであった。
「ふむう、連中はたった数隻で艦隊を壊滅させるとは...お前はどう思う?」
そう言いながら、皇帝は傍らにいる一人の少女へと視線を移す。 こぢんまりとして金の才職が施された小さな椅子の上に座る10歳に満たない小さな少女。 ロールのかかった青い髪が特徴のピンクのドレスを着る彼女は先程のやり取りを黙って聞き入っていた影響からか、持ち前の可愛さに似つかわしくない怪訝な表情を浮かべると共に小さく口を開く。
「神をも破るほどの力があるのなら何故、武装解除を受け入れて話し合いの場に姿を現したのでしょうか?」
「やはりお前もそう思うか」
「ええ、わたくしなら話し合いの場など設けずに一番威力のある武器を見せつけますわよ。 「我らに恭順しろ!!」と言って...」
「ならば何故わざわざ牙を隠して接してきたのだろうな」
「犠牲を恐れてるのでは?」
「犠牲?」
「ええ、出来るだけ穏便にことを進めたいっていう意思が読み取れますわ」
少女の考えを受け、皇帝は自らの考えを巡らせてみる。 自らの犠牲を恐るのなら初めから圧倒的な力を見せればいい筈。 にも関わらず彼らが恐る犠牲とは何だろうか?
「もしかしたら自分達ではなく敵である私達の犠牲を恐れてるのでは?」
「何を言っとるんだ? 既に多くの兵士達が殺されてるのだぞ?」
「ええ、しかし彼らが戦った相手はあくまでも「銃口を向けてきた兵士」です。 事実、海鷲団の報告から推測するに「逃げる兵士」には攻撃を仕掛けておりません。 寧ろ海に落ちた兵士を救助しろと言ってる有様ですよ」
「なるほど...」
「恐らく彼らの技術力は我が国の数百年先まで進んでるでしょう。 その間彼らがどのような戦いが繰り広げられたかはわかりませんが、何かしらのルールを自分達に敷いてるのかもしれませんわ」
「ルール? 敵の兵士を出来るだけ殺さないことか?」
「...いえ、戦火を拡大させることを怖れてるのよ、そうに違いないわ!!」
少女はそう口ずさみながら、背後のカーテンを開けると分厚い本が並んだ書棚が姿を現す。 同年代の女の子と違い、物心ついた頃から彼女は皇帝である父親の影響からか玩具や絵本よりもこういった戦史や歴史書を好んで読むところがあり、幼いながらも優れた見識を持つことから皇帝は時折彼女の知恵を借りることがある。
「お父様、こちらをご覧になってくださいまし」
少女が選んだ一冊の書物。 それはかつてこの世界で栄華を極めていた古代王国に関する神話を綴った書物であった。
「この本の舞台であるグリドニア王国は圧倒的な力をもってして隣国を征服したのですが、敵国の捕虜や民間人を虐殺してきたことにより周辺国から恐れられた挙句、連合を組まれてしまって泥沼の戦いに追い込まれてしまったことが書かれています」
その本には当初は圧倒的な力をもって周辺国を撃退してきたものの、食欲旺盛な昆虫を投入されたことにより国内農業は壊滅し、兵士達が飢餓に苦しんでいたところを攻め込まれて滅びの道を辿ることになったことが描かれていた。
「戦史家達からは昆虫を投入したという点にばかり注目されておりますが、わたくしが思うにこの攻撃において周辺国も少なくないダメージを被った筈。 事実、それ以降100年近く大きな戦いがなかったことから急激に人口を減らしてしまったからかもしれません」
「愚かな...」
「恐らく自滅を覚悟しての攻撃だったのでしょう」
少女が言うには異世界においても同じような事案が起きてしまい、その反省からか戦闘以外での無意味な殺傷を避ける傾向が強くなったというわけだ。
相手が同じ人間ならば彼女の考えにも納得がいく。 彼らは兵器を発展させてきただけでなく、祖先から積み重ねてきた経験を持ってしてじっくりと相手の出方を検索することにしたのであろう。
「なるほど、圧倒的な力を持ってしても最終的には自滅覚悟の原始的な方法で反撃されることを恐れていたということか」
ジギルヘイムは娘の聡明さに驚きつつもこれまでの流れをもう一度整理し始める。
海上自衛隊と名乗る彼らは明らかにこちらの数百年先を進む技術力を持っている。 このまま正面から戦いを望んだところで結果は目に見えてるだろう。 しかし、だからといって昆虫兵器のような自滅覚悟の攻撃を行う選択肢など彼の脳裏には存在しない。
「向こうからのコンタクトを待つのが懸命だと思いますわ」
答えがまとまらないジギルヘイムを前にして、突然出た提案。 その言葉を前にして彼はハッとして少女の方へと注目する。
「わたくしの浅はかな考えですが、近いうちに彼らはこちらとの外交交渉の窓口を持ちかけてくるでしょう」
「根拠はあるのか?」
「これは私の独りよがりかもしれませんが、海鷲団や戦闘能力を失った兵士達を黙ってこちらに送り返したことからこれ以上戦う気がないのかもしれません。 寧ろ、首都が壊滅してしまったビエント王国の立て直しに力を注ぐ必要があるのではないかと」
「ふむ、ここで無理に艦隊を派遣したところでこちらにメリットは無い。 教皇派に睨みを利かせるためにもこのまま艦隊を温存させる方がよかろうな」
聡明な娘の助言を受け、ジギルヘイムは矢継ぎ早に腹心達を呼び寄せるとともにアゲリアクリスタルを通じて各地の港湾関係者や領内に港町を有する貴族へと連絡を取り付け、これから起こるであろう事態に備えるよう指示を飛ばす。
皇帝のその考えに対し、多くの軍関係者は不満をあらわにするも艦隊が温存されたことにより教皇派の動きが牽制され、緊張感が漂いながらも多くの国民は日々の生活に専念することができ、一ヶ月後にはいつもと変わらぬ日常が見られるようになる。
しかし、後にその行為が帝国内部で新たな動乱を呼び起こすキッカケとなることにこの場にいる誰もが思いしなかったことであった。




