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二人きりになった部屋はとても静かで、周りの物音ですら何も聞こえて来なかった。
「シャレル」
薄暗くなり始めた夕刻の部屋で、エルフィードはシャレルの元へとゆっくり歩み寄った。
エルフィードが近づいてくるにつれ、シャレルの表情は曇っていく。
せっかく笑顔で別れを告げることが出来たのに。
決心した心も、簡単に揺れ動いてしまう。
どうしてもう一度、会いに来てくれたのか…その理由が知りたいと期待しているのと同時に恐かった。
シャレルは近づいてくるエルフィードを見ることが出来ない。
気を緩めると、涙が出て来てしまいそうだったから。
「…シャレル」
シャレルは泣きそうな自分の顔を見せることが出来ないまま俯いていた。
俯いたままのシャレルの頬をそっと包み込み、エルフィードが柔らかな声でその名を呼んだ。
その声は、いつだってシャレルの世界を明るくしてくれた。
エルフィードと別れた後、また一人ぼっちになってしまったシャレルの世界を、再びこうして明るく優しく照らしてくれる。
「…エル」
抱きつきたい衝動を押さえ、シャレルは顔を上げた。
優しい穏やかな紫の瞳が、真っ直ぐにシャレルを見つめていた。
ずっと恋焦がれてきたその瞳に、シャレルは胸の奥がツンと痛くなる。
いてもいなくても同じ。
大きなベリアルのお城で誰からも認められず、疎まれるだけの毎日だった。
そんな自分の存在を認めてくれたのは、この瞳だけだった。
そんなシャレルに、笑顔で話しかけてくれたのはエルフィードが初めてだった。
抱きしめてくれたのも、温もりを教えてくれたのも…エルフィードだけだった。
エルフィードは真っ直ぐな瞳で、ゆっくりとシャレルに語りかけた。
「シャレル…今更遅いって怒るかもしれないど…もう一度、俺と一緒に来てくれる…?」
その言葉に、シャレルは胸が苦しくなった。
あの時、一人ぼっちだったシャレルの心を、世界を照らしてくれたのは…エルのその言葉。
今でも忘れない。
あの時、どれほどその言葉が嬉しかったか。
どれほど、その言葉に救われたか。
「もう、男爵でも無くなるし、職も手放すつもりだ…もしかしたら苦労させてしまうかもしれないけど」
7年前、シャレルと出会ったあの時と変わらない。
エルフィードは精一杯の気持ちを言葉に込めた。
「それでも…もう一度…」
俺と一緒に来てくれる?
エルフィードがそう言い終わったと同時に、目にいっぱい涙を溜めたシャレルが、エルフィードの胸に飛び込んできた。
「エル…!私の幸せも、私の選ぶ道も…7年前から同じ…ずっと同じよ」
震えるシャレルの肩を抱きながら、エルフィードの顔から思わず笑顔が零れた。
あの時から何も変わらない。
「ずっとエルが大好き…」
「俺もだよ。愛してるよ、シャレル」
エルフィードはシャレルの頬にそっと唇を落とす。
我慢していた感情があふれ出すかのように、シャレルは涙を零した。
「ごめんなさい。私、あなた様とは結婚出来ません」
シャレルとエルフィードは、城へ戻ってきたヴェスアードに結婚の申し入れの拒否の意を伝えた。
ハドリーからは、シャレルの登城は結婚を受ける為だと聞いていたヴェスアードは、暫く開いた口が塞がらないかのように呆然としていた。
自分が幸せにしたい、と思っていたのだが…
エルフィードの隣で微笑むシャレルがあまりに満ち足りた表情をしていたので、何も言えなかった。
きっと、自分では彼女をこんな風に笑わせることは出来ないのだろう。
「…敵わないな」
あれほどシャレルを泣かせた相手は、同じだけ…いや、それ以上に彼女を笑顔に出来る。
とても敵いそうにない、ヴェスアードは少し溜息を漏らした。
「この件につきましては…責任を取ります。騎士隊からの除隊、爵位の返還、全ての領地と屋敷を放棄いたします」
エルフィードは腰に差していた剣をそっと地面に置いた。
「何も…そこまでしなくていい」
ヴェスアードがいくら引き止めても、エルフィードは首を縦には振らなかった。
「自分の中のけじめでもあります」
全てを捨てる、それはけじめでもあるが…エルフィードにとってはもう一つの意味もあった。
身分も全てを捨てることで、シャレルを自分の手元に置くのだ。
エルフィードの為に自分の意思を捨てたシャレル。
今後、シャレルがそんな悲しい選択をしなくて済むように。
シャレルがそんな身分に縛られることの無いように。
そして、エルフィードが堂々とシャレルを妻として迎える為に。
シャレルと結婚する代わりに、今持っている物を全て手放すのだ。
剣を置いたまま、エルフィードはゆっくりと立ち上がった。
「失礼致します」
最後に騎士らしく礼をし、エルフィードはシャレルと共にその場を後にした。
次で最終話です。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
もう少しだけ、お付き合い下さい。




