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扉を軽くノックする音に「何だ」とエルフィードが応えると、小さな声が扉の向こう側から響いてきた。
「シャレルです。クラーク卿がお見えになりました」
鈴が鳴るような声をしたシャレルに、エルフィードは一瞬、耳を疑った。
慌てて椅子から立ち上がり、扉に向かって行く。
いつものシャレルはノックもせずに「エル!」と叫びながら入ってくる。
ノックぐらいしなさい、と何度言っても、聞いてくれたことは無い。
そのシャレルが、今、侍女のセイムと変わらぬマナーの良さを見せている。
「…シャレル?」
ハーヴェイが来た、ということよりも、そちらの方が驚きだった。
扉を開くと、目の前には見慣れたシャレルの姿と、ハーヴェイの姿があった。
エルフィードが扉を開けると、シャレルはその扉の隅に立ち、ゆっくりと頭を下げた。
見慣れたはずのシャレル…だが、こんな淑女然としているシャレルは見た事が無い。
「…シャレル…どうしたんだ」
「エルフィード様、クラーク卿がお見えになりましたので、お連れ致しました」
「…あ、ああ」
驚くエルフィードなどお構いなしに、シャレルはすっと扉から一歩離れた。
「どうしたんだはこっちの台詞だな。何を驚いてるんだ」
苦笑いを浮かべ、ハーヴェイがエルフィードの前に進み出た。
「それほど、シャレル嬢と私が一緒だということが驚きなのかな?たまたま庭で会っただけなんだが」
「いや…そういう訳じゃない…ただ、シャレルがあまりに…マナーを弁えていたから…」
ちらり、とエルフィードはシャレルを見た。
シャレルは何も言わず、柔らかな笑みを浮かべて立っているだけだ。
普段なら、どういう意味!と怒ってきそうなものだが…今のシャレルは浮かべた笑みを全く崩さず、静かに佇んでいるだけだ。
「失礼な物言いだな。こんな完璧なご令嬢を前にして」
未だに驚いているエルフィードと、静かに佇むシャレルを交互に見、ハーヴェイがさも面白そうに笑った。
「私はまだマナーも完璧ではございませんので。エルフィード様は私がクラーク卿に失礼しなかったか、不安なんですわ」
「シャレル嬢は礼儀正しく、どこに出しても恥ずかしくないご令嬢だよ。エルフィードは厳しいんだね」
「いえ、私などまだまだ未熟ですので。エルフィード様も不安でしょう」
にっこり、とシャレルが微笑む。
エルフィードは違和感を感じつつ、シャレルとハーヴェイの会話に適当な相槌を打つぐらいしか出来なかった。
「さあ、エルフィードには話したいことがあってね。シャレル嬢、お茶を持ってきてくれるかな?」
部屋の前でのやり取りを終える為、ハーヴェイは一つ手を叩き、エルフィードに中へ案内するように促した。
同時にシャレルには少し場を離れるように、という意味を込めてお茶の用意を頼む。
「…クラーク卿、シズーのお茶とミリンガのお茶、エダンのお茶がございます。如何いたしましょう」
「そうだな。じゃあ、エダンを」
「畏まりました」
一つ礼をし、シャレルは扉をゆっくりと閉めた。
お茶の種類は、時間を差している。
茶葉を蒸らすのに時間がかからないシズー、茶器を二度暖めてから蒸らすのに数十分要するミリンガ…
エダンは水から茶葉を入れ、ゆっくりと時間をかけて湯を沸かす為、一番時間がかかる。
エダンを要求したということはつまり、1時間は誰も入るなという意味だ。
これもラベルトの貴族間でよくあるやり取りだ。
シャレルの対応に満足げにハーヴェイは微笑んだ。
「本当に…貴族間でもあれほど美しく振舞える女性はいない。どこに出しても恥ずかしくないな」
ハーヴェイはエルフィードが用意した椅子に腰掛け、感嘆の息を漏らす。
庭から歩いてくる間、そして今のやり取りの間もじっくりとシャレルの作法を観察していたハーヴェイはその振る舞いに大変満足していた。
貴族の令嬢と言えども、その作法が押し付けがましかったり、大げさだったりしてうんざりすることがある。
シャレルはそんな所が全く無い上、ハーヴェイが思う通りに動いてくれた。
「…本当はあんなんじゃないんだけどな」
ぼそ、とエルフィードが呟く。
普段のことを思い出せば、更に違和感が増す。
礼儀や貴族間のしきたりをシャレルに学ばせたが、一向に良くならなかった。
それをとやかく言う気など全く無かったので、気にしていなかったが。
本当なら侍女や執事と一緒に主の帰りを一列になって待つのがラベルトの貴族社会の常識だが、
エルフィードが帰ってくれば、走って抱きついてくるのは子供の頃から何も変わらない。
今のお茶のやり取りだってエルフィードが頼んでもいつもシズーのお茶しか持って来ない。
昨日もそうだったし、大体何が良いかなど聞かれたことは無い。
しかも、蒸らす時間が少ないといわれるシズーをろくに蒸らさずに持ってくる。
薄いシズーを飲んで「まずい」と言えば、怒ってエルフィードの手からカップを取り上げるのがいつものシャレルだ。
昨日の茶も例によって薄かった。
ちゃんと礼儀を学んでいるのか、と不安に感じていたが…マナーの先生はシャレルを絶賛する、という話をセイムから聞いたことがあった。
セイムが気を遣って言ってくれているのだろう、そう思っていた。
それにエルフィードは貴族間での礼儀がああだこうだ、ということは全く気にしていなかったのだから。
一列になって「おかえりなさいませ」なんて言われるより、小さい頃と同じように走って抱きついてくれる方が嬉しい。
どこに出しても恥ずかしくない、などとハーヴェイは言ったが、シャレルをどこかに出そうとは思っていなかった。
そもそも社交界に対してはあまり良い印象が無い。そんな場にわざわざシャレルを連れて行く気など無い。
シャレル本人も、社交界や貴族の交流の場には興味が無いらしい。
近くの小さな街の孤児院で子供たちと遊ぶのが大好きで、出かけると言えばそれぐらいだった。
だからこそ、先ほどの淑女然としているシャレルは見た事が無かった。
そういう態度を取らなければならない人物と遭遇した所も見たことが無かったから。
完璧なシャレル。
だが、エルフィードにとっては違和感の塊でしか無かった。




