忘却の呪詛
雨の音が、古びた屋敷の鴨居を湿らせていた。薄暗い畳の間で、芥川は膝を震わせながら、目の前の女を見つめている。美しい着物を纏い、妖しく微笑む女――綾乃。
「綾乃……頼む、僕に話しかけないでくれ」
芥川の声は神経質に擦れ、喉の奥で引き攣っていた。
「どうして? 芥川さん。私たちはこうして、言葉を交わすためにいるのでしょう?」
綾乃の低く艶やかな声が耳腔をくすぐる。どこか冷ややかな威圧感が部屋の空気を支配していた。
「違うんだ! 喋ってはいけないんだ……。僕がある『音』を口にするたび、その音に紐づく世界の記憶が頭の中から削ぎ落とされていく。さっき僕が『あ』と発した時、『愛』も『朝』も失われた。僕の頭から、それらの意味が完全に消失したんだ!」
芥川は爪を立てて己の頭を掻きむしった。時計の刻印音も、雨音も、彼が音節を発するたびに歪み、世界の色彩が削られていく。
「まあ、恐ろしい。でも、気のせいではありませんか?」
綾乃は優雅に首をかしげ、卓上の茶碗に細い指を添えた。
「では、お試しになりなさいな。私に、一番大切なものの名前を言ってみせて」
「だめだ! 言ったらそれも消えてしまう!」
「ふふ、言わなければ、貴方が何に怯えているのか私にはわかりませんわ」
射抜くような綾乃の眼光に気圧され、芥川の理性が崩壊する。絶望的な叫びが口から漏れ出した。
「『あ』『や』『の』……! 君の名前だ! 頼むから僕を一人にしないでくれ!」
言った瞬間、芥川の頭の中で何かが弾けた。
目の前に座っていたはずの美しい女の顔から、目鼻立ちが滑らかに消えていく。着物の色彩が失われ、ただの白い靄のような輪郭へと変わっていく。
「な、なんだ……君は誰だ?」
芥川は腰を抜かした。白い輪郭となった存在は、寂しげに微笑む気配を残して静かに囁いた。
「言葉が消えていたのではありませんわ、芥川さん。貴方が特定の音を発するたび……消えていたのは、私という人間の記憶そのものだったのです」
かつて芥川が己の保身のために見殺しにした妻――綾乃。その激しい罪悪感が産み落とした怪異は、彼が彼女の名前を構成する音をすべて発声した瞬間、記憶から完全に消去されるという呪いだった。
「これで貴方は罪から解放されます。何もかも忘れて、どうぞお幸せに」
声が途切れると、部屋にはぽっかりと誰もいない空間だけが残された。
芥川はぽかんと畳を見つめている。なぜ自分がここで震えていたのか、なぜ涙を流しているのか、さっぱり思い出せない。
ただ、屋敷を叩く雨の音だけが、暗闇の中で虚しく響き続けていた。




