第9話:楔の人生、新章。株と恋が同時に動き出す
※本話は【株投資サークル】の回です
まだ夜は冷たい風が吹いていた。
大学入学を前に、俺にはどうしてもやらなきゃいけないことがあった。
アパートの机にスマホを置き、深く息を吐く。
「……やるか」
一瞬、父さんの顔が頭をよぎる。
――一喜一憂で終わるなよ。
画面をタップする指は、思ったより落ち着いていた。
名前、生年月日、住所、電話番号。
見慣れた自分の情報を、一つずつ入力していく。
「……本人確認、っと」
スマホのカメラに映る自分の顔は、少し緊張しているように見えた。
送信ボタンを押す。
画面に表示された文字。
《口座開設申込を受け付けました》
俺はしばらく、その文字を見つめていた。
まだ何も始まっていない。
けれど、確実に――扉は開いた。
翌日から、スマホを見る回数が増えた。
通知が鳴るたび、胸が一瞬だけ跳ねる。
――違う。
それはラインの通知だったり、芸能人の結婚や離婚といったどうでもいいニュースだったりする。
「……まだか」
株の世界は、もう目の前にあるのに。
触れられないもどかしさだけが、じわじわと募っていった。
その通知が来たのは、夜だった。
《口座開設完了のお知らせ》
「……来た」
俺はすぐにSBI株アプリを起動した。
暗い背景に、白と緑と赤の数字が並ぶ。
聞いたことのある銘柄名。
見たことのない値動き。
「……ここが」
父さんが、何年も見続けてきた世界。
まだ一株も持っていないのに、画面を見ているだけで心臓の鼓動が早くなる。
――これは、ゲームじゃない。
そう言い聞かせて、そっとスマホを伏せた。
「今日は、見るだけだ」
その後、銀行アプリから指定された金額を送金する。
たったそれだけの操作なのに、
数字が画面から消えた瞬間、背筋が自然と伸びた。
「……これ、もう戻らないんだよな」
小さく呟く。
お金が、ただの数字から覚悟に変わった気がした。
春の神流学園大学部。
構内ではサークルの勧誘があちこちで行われている。
視線を向けると、神道アングラ投資クラブの部長らしき人物が、同学年かどうかも分からない女性を勧誘していた。
(この手の話は、興味がある人にしかしちゃいけない)
思わず口が出た。
「ちょっとすみません。
難しいんじゃないですか? 初めて会った人に、いきなりFXやビットコインの話をしても」
「君は仮想通貨に興味はあるかい?」
「すみません。まったく」
部長は、それ以上何も言わずに立ち去った。
「……ありがとう、助けてくれて」
声をかけてきたのは、さっき勧誘されていた女性だった。
「何を言ってるのか分からなくて、思考が止まってしまっていたわ」
「いえいえ。僕もやったことはないですし。
株と似てるとは思うんですけど」
「あなた、株投資は詳しそうね」
「そうですね……一般的なことなら」
「株もさっぱり分からないわ。
チャート? あの羅列が読めなくて」
「僕も分かるまで時間かかりましたよ。
大河内さん、でしたか?」
「舞華でいいわよ」
「えっ……じゃあ、僕も楔で」
「何よ、イヤなの?」
「い、いやいや、そんなことは」
「株かぁ……私のやったことない分野ね。
でも、あなたが解説してくれるなら大丈夫かも」
少し間を置いて、舞華は微笑んだ。
「今は株って覚えて当たり前みたいな空気だし。
私も一緒に行くね? 嬉しいでしょ?」
「いきなり僕の都合がぶった切られるとは思わなかったな……」
「ほら、早く行きましょ」
「ちょ、ちょっと待って舞華さん」
俺たちはサークルをいくつか回った。
神道トレーディングクラブ。
「今入ると、サークルでまとめた株テクニック50を配布してますよ~!」
「……どうでしたか、舞華さん」
「……何も分からないわ。
頭が散らかってきた」
「散らかりますよね。
株テクニック50、僕にもいらないです」
「ここも難しそうね」
頭も体も疲れきって、広場の横のベンチに座った、その時だった。
「よぉ! お二人さん。
ここで愛し合うのは、まだ早すぎるぜ」
「愛し合ってません!」
「……そんな風に見えますか?
というか、どちら様ですか?」
「おっと悪い悪い。
俺はゆるゆる株投資サークル副部長、天竜驚一郎。
驚くと書いて驚一郎だ」
「そっちの驚一郎なんですか? 珍しいわね」
「よかったら、うちのサークルも見てかないか?
お茶出すぜ。ペットボトルだけどな」
ゆるゆる株投資サークルには、実際に株主優待の商品が並んでいた。
米、レトルトカレー、割引券。
マッサージチェアまである。
株の説明は、優待銘柄を買って権利を取る話だけ。
他のメンバーも、
「権利日間違えて優待もらえなかった」
「思ったより便利だった」
そんな失敗談ばかり話している。
「いきなり難しいこと言っても分かるわけないからな」
天竜さんが笑う。
「まずは“株ってお得だよ”ってとこから。
がっつりキャピタルゲインしたいなら、他のサークルだろ?」
「……まぁ、そうですね」
「興味湧いたなら、ゆっくり説明するぜ?」
「はい、お願いします!」
こうして俺たちは、
ゆるゆる株投資サークルに入会することになった。
株も。
そして、恋も。
気づけば、人生が少しずつ動き始めていた。
(ここから美玲視点)
あの日から、楔のことを考えない時間のほうが少なくなった。
大学に進学して、株とかサークルとか、新しい世界に踏み出した楔。
楽しそうなのは分かる。分かるけど──。
(……なんで、ちょっと置いていかれた気分になるんだろ)
ラインを送ろうとして、やめる。
用件がないのに送るのも変だし、邪魔してるみたいで嫌だった。
でも、何も知らないまま距離だけ離れていくのも、もっと嫌で。
そんな中で、久しぶりにばったり会った楔は、
前より落ち着いていて、前より遠くを見ている気がした。
(私、今どこに立ってるんだろ……)
だからこそ、
声をかけられた瞬間、心臓が少しだけ跳ねたのかもしれない。
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