事案404
この文字数を書き上げるのにまさかの数か月、やばすぎる。
後、ところどころ期間が空いてたりしてて何かがおかしくなってる可能性があります。
肩が上下する度に漏れる疲弊した吐息、雨に濡れては滴る赤い体温、人の痕跡だけがお化け電球と共に漂う商店街で夜闇のような野戦服を着た男が一人、今やシャッター通りと化したそこをよたよたと歩く。
予報通り暴風雨となった魔害区域、漸く雨が凌げる場所へと辿り着いた男は構えていた拳銃を右大腿のホルスターへ収め、一度深呼吸を挟むと近くの古びたシャッターへと背を預けた。
張りつめていた気が緩まり、必然体を鉛のような疲労が襲い、シャッターへ半ばぶつけるような勢いで預けた背からけたたましい音が鳴り響く。だがこの時ばかりは男は運が良かった、周囲は暴風による雑音が酷く、例え奴らがいたとしても音を聞かれることは無かったのだ。
束の間の安堵――彼は繋がらなくなったインカムを捨て、ひびが入ったバイザーヘルメットを外し一瞥して舌打ち、その場に置くように捨てた。
そして微かに痛む左脇腹へ手を当て、分かりづらいがグローブについた血液を手の中で転がす――――するところん、と音を立てて嫌な予感が落ちていく。
見て見ぬふりをしていた現実、そこに虚構を貼り付けていたのがメッキのように剥がれたのだ。しかもそれは腹の中を虫となって不快に蠢き続け、苦痛と混ざりあって手先の痺れとなる。
気づけば空になっていた片手に、ホルスターにあったはずの拳銃が握られていた。
弾は入っている――感覚のない指先と手で半端にスライドを引き、薬室に一発入っているのを視認、リリースボタンを押してグリップに差し込まれている弾倉が自重落下するのを左手で受け止め、まだ十四発入っていることを確かめる。
予備の弾倉も心許ないがまだある。
最悪な状況だが彼にとって銃があるという事実は決して悪いことではなかった。
全てを覆すほどの力があるかと言われれば、まあ無いだろう。しかし正気を保つには十分なのだ。
やがて俯き気味だった顔を上げ、他の隊員との合流地点へ向かうべく男は歩き出した。
そう遠くはない……家へ帰ろう、それだけを想って……けれど、現実はいつになろうと非情であった。
片側一車線の道路を挟んで存在する商店街、その一番端から申し訳程度の雨避けの屋根が続く歩道、そこへ向き直り奥へ視線を向けた瞬間、
――――緩んでいた糸が張り詰めた――――
距離にして二十メートルくらいだろうか、人払いされてるはずの場所で学生服に身を包み、背を向けてしゃがみ込んだ誰か、本来いるはずの無い存在。
しかし男は警察官であった。どうしようもなく、警察官だったのだ。
「君、こっちに来なさい」
逃げ遅れる一般市民なぞいない。頭の中で分かっていながらも乾き切った口腔で舌が踊った。
「安全な場所へ行こう」
銃口は既に地面へ落ちていた。当然引き金に触れていた指は離れ、周囲の暗闇にばかり視線が向き、絶望の中にある希望へ縋るよう少女へは警戒をしていなかった。
故に、二十メートルあった十分過ぎる距離は男によってみるみるうちに縮められていく。
やがてその距離は少女が手を伸ばせば届くほど近くになり、やっと男はその異変に気づく。
……少女は男の意識が逸れた一瞬で暴風雨の中とは言え衣擦れも気配もなく立ち上がり、男へと体の正面を向けていた。
確実に見えているはずの顔は見えず、いや『存在』せず、覗き返してくる闇に男の背筋が凍り付き、短く呻く。
男の体がその状況でも強張らずに動けたのは、普段の訓練の賜物だろう。
異形の少女の手には包丁が握られていたのだ。頭上の点滅を繰り返す電灯に鈍色の輝きが見えたと同時、男は数歩後ずさった。
自身の首元があった場所を通過する刃が見え、けれどひやりと汗を垂らす前に、指が引き金に触れた。
銃声が数度鳴り響き、異形の少女がコンクリートの地面へ膝をつく、が右手に持たれた包丁は届かなくとも尚男を狙って振るわれており、空を切り裂いた。
反射的に射撃してしまいながらも男の狙いは精確で、化物の片足へ二発、腹部へ一発、命中していた。
しかし化物は動き続けている。人間であれば死ぬか運がよくとも出血すら伴っているはずが、奴の体には穴が空くだけとなっていた。
「……化物がッ」
口をつく悪態は憎悪に満ち、それは引き金に触れる人差し指へ移ると同時、躊躇いをボロ雑巾で拭ったように引かせ……起こしていた撃鉄が元に戻るとその勢いで撃針が薬莢底部の雷管を叩いて燃焼、それは無煙弾薬へ続き小さな爆発となり、薬室内部の圧力を高める。
そうして発射された僅かに赤熱化した九ミリパラベラムHP弾が、濡れて冷えた空気を切り裂き、顔の無い化物の頭へと吸い込まれていく。
一瞬遅れて赤を帯びた黄色の空薬莢がまた一つ足元へ転がり落ち、人間とは思えない空虚な音と共に少女の形をした何かは上体を大きく後ろへ反らす。
そしてぱしゃりと水音が鳴った。同時にぐしゃりと崩れる音がし、彼の眼前で瞼も無ければ眼球も無い昏い穴だけの双眸を、暗い空へと仰ぎ向けて、人ならざる奇妙な土煙を纏い、まるで落とされた泥人形とも陶器とも言える様相で砕け散る。
それがこの魔力で作られたゴーレムの死なのだと誰が見ても分かるだろう。当然彼もそれを悟り、警戒心から残骸にも向けていた銃口をそっと外し、目を瞑った。
祈るため、ではなかった。
間近に迫った死に心臓が強く脈打っていたからだ。
しかも雨に濡れ冷えているのもあってより強くはっきりと聞こえる気がして、どうにか落ち着かせようと視界を閉ざしてみる……が逆効果だった。
聞こえていたはずの雨音はいつの間にか消え去り、ただただ静寂に包まれた暗闇の中でそんなはずはないのに自身の鼓動音に不協和音が交じり始めた。
それは不安と焦燥を駆り立て、種でしかなかった孤独という恐怖を増幅させていった。
彼の正面で粉々になり果てた残骸をその恐怖はまるで無かったものとして復活させた――――同時、脳裏に浮かぶ包丁を逆手に握る少女の形をした何か……けれど理性は否定する――急激に膨れた恐怖による妄想だ、と。
しかし体は理性の制止を振り払い反射的に動いてしまう――身を翻し、振り向いたところで存在するのは電灯が明滅を繰り返す、閑散としたシャッター街だ。
それ以外には何もない……はずだった。
「!」
突如左肩に宿る灼熱、彼はそれが一体何なのかをコンマ以下で悟る、故に対応は早かった。
即座に背後にいるであろう存在に対し、左腕を伸ばし切った裏拳気味の殴打を行ったのだ。ただ腰を使っただけでは威力など大したことはない。だから左足先を軸にした体ごとを使った左半回転で勢いをつけ、半月のように薙ぎ払った……けれど左掌底部に伝わる砂にも泥にも似た感触は、倒したあの少女の形をした何かを過らせる。
「っ」
何も無いはずの場所にあった感触を確かめる為に、振り切った腕から手の先へ視線を這わせる。彼は改めてそれと正対し――全てを理解する。そして息を飲み、顔を、表情を歪ませる。
――――何体だろうか、つい先刻まで誰もいなかったはずが、再度振り返った先には工場で大量生産されたような同じ姿形をした無数の泥人形が成形され始めていたのだ。
極度の恐怖による錯乱に近い脊髄反射で、彼の真後ろにいた一体の顔面を抉り取り、魔力の残滓を微かに迸らせながら泥として頽れさせた。
それでも数は増えていく……切り裂いたプラナリアの如く、増えていく。
絶望と表すに相応しい状況に、だがしかし、男は左手で警棒を構えた。ノルアドレナリンが再度分泌されたこともあって肩の灼熱は無いに等しく、目前の恐怖も恐怖ではなくなっていた。
感覚的に言えばハイに近いその状態が途切れる前に男は動く――――右手だけで握られた拳銃を、躊躇い無くその異形の集団へと撃ち込んだのだ。
数度続く銃声が降りしきる無数の雨粒達へ伝播して微かに揺らし、発砲炎が眩く男の視界を照らす。
それほど異形の集団と離れていないのもあって放たれたホローポイント弾……鉛で作られ、弾頭と呼ばれる先の部分が丸く繰り抜かれて空洞となっているそれ……ソフトターゲット、つまり人体などの柔らかい物体に対し絶大な威力を発揮するその弾丸は、一発として外れることはなく、数体の泥人形の内側へと吸い込まれていく。
効果は絶大だった。
人型というのもあるだろうが、そもそも魔力と泥で出来ているのだから効かないはずがない。
手足などを除いた頭は当然、胴体に命中した泥人形も一瞬の間をおいてその場でただの泥へと変わっていった。
しかし――――たった数体だ。たった数体が、ただの泥になっただけ。
未だ数十体は存在しており、それも今し方ただ存在しているだけではなくなった。
ある種の防御機構なのだろう、仲間が完全に泥となって倒れると、立っているだけだった他の泥人形達が個体個体で疎らではあるが、男へ向かって走り出した。
そこには明確な殺意、排除する意志が見える。だが男に逃げるという選択肢は無い。存在できない。この大群をどうにかしなければ、家に帰ることすらできないと状況が語っているからだ。
……まず最初に走り出した一匹とそれに続いた数匹は、右手の射撃によって遠距離から倒されたものの、動く物体を狙うのは訓練されたプロですら難しい。
「ちっ」
舌打ちと共にマガジンリリースボタンを押し、空となった弾倉を地面に捨て、警棒を握った左手で予備弾倉を取って差し込む。
金属の摩擦音を鳴らし、固定されていたスライドを解除、弾丸が薬室内部へ送り込まれたのを確かに確認し、再び照準する。が、思った以上に奴らは早かった。
距離にして数メートル、ただでさえ近い距離が更に縮まっており、逆手に持たれた無数の包丁が男の体を切り裂くべく迫り、その最初の切っ先が届くコンマ以下、左手の警棒で化物の右手首を下から左へ弾き飛ばした。
彼の狙い通り包丁は空を切ったものの突進の勢いはそのまま、それほど大きくないとは言え、まともに受ければ転び、目前の化物も、それに続く数多の化物達へも対処が出来なくなる。
そして、対処が出来なくなるということは、つまるところ死――――
だから彼は少し身を屈め、化物の腹辺りへラリアットをする形で勢いを受け流し、鉄棒でくるんと回るように地面に落ちたところを右手の拳銃で胴へ三発、頭へ二発、動かなくなったのを確認……いや、する余裕もなく次が来た。
やはり右逆手で握られた包丁は、上から下へ最も力が込められる動きで振るわれたが、身を低くしていたおかげで懐へ容易に入り込むことができ、力強く踏み出された右足へすくい上げるように体当たりして自身の後方へ吹き飛ばす。
思惑通り、ぽっかりと暗闇の広がった顔面を朽ち果てつつある仲間へ打ち付け、コンクリートに刃を突き立てながら海老もびっくりなほど体を反ったが、数発の銃声の後に守るものの無いその胴体へ数発の弾丸が穴を作る……しかし奴が死んでいるかどうかを確認する暇は無く、即座に右手の拳銃と共に振り返り、次へ射撃……とはならなかった。
三匹目もすぐ目前にまで迫っており、一瞬見えたその化物は持ち替えたのか右順手で握られた包丁を腰の後ろ辺りに構えていたからだった。
ならば、と男は近づく度こちら側に迫り出すその包丁を持つ手目掛けて警棒を横一閃振るう、けれどタイミングが僅かに早かった。
包丁そのものを落とすつもりで狙ったのが、包丁の横っ腹を打つ形となりその大部分を失わせるだけとなってしまった。
次に構えるのを止めて引き金からも指を離した右腕を折り曲げ、突き出させた肘で化物の勢いを殺しながら首を斬るように薙いで、押しのけた。
後ろへよろめきながら空になった両手でそれでも男へ追いすがる化物だが、すぐさま拳銃で頭を撃ち抜かれる。
更にその後ろから迫ってきていた二匹へ続けざまに撃ち込む。
見えた四匹目を更に撃とうとするが……スライドが固定されていることに気づく。
「っ!」
予備の弾倉を、と左腕を動かすと鋭い痛みが走った。目で確認すれば先程の大部分が折れた包丁が左肩に刺さっていた。
逡巡する暇は無い。見れば迫る四匹目は包丁を順手で振り上げている、彼は警棒でその刃を受け、下斜めに傾けることで刃を鍔でせき止め、右手で固定されたスライドを元に戻しながらひょいとグリップからスライド側を握り、空の弾倉が入ったままのグリップで化物の側頭部を殴打、泥が弾ける水っぽい音が鳴るとその体が力なく崩れていく。
それでも、その背後から間髪入れずに五匹目と六匹目が到達しそれぞれ順手と逆手で持たれた包丁が迫る――――順手の、致命傷となる腹部を狙った包丁は左の警棒を使って振り払ったけれど、逆手の彼の左肩を狙った一撃は対処できなかった。
「ぐ……っ!」
――――肉を突き切り、鎖骨を折って、その鈍色の刃は極寒に曝された氷柱のように冷たいはずが、熱されて赤熱となった鉄の如く灼熱を纏っていた――――
濡れた腕が仄かに暖かくなり、ぬるりと服が張り付く。
生きなければ……男の本能がそう呟き、足を止めさせなかった。
まずは大部分が折れた包丁、肩、とは言ったが三角筋へと突き刺さっていたそれを銃は口に咥えて空いた右手で乱暴に引き抜き、今し方男の左肩に包丁を刺したことで勢い余って手を離した化物の喉元へ突き刺し、即座に泥となって崩れ去った。
男は何一つとして恐れることなく、肺に到達しなかっただけの、左肩に深く突き刺さった包丁を引き抜き、払われて地面を転がった包丁を拾おうと屈んでいたもう一匹の脳天目掛け、その包丁を突き刺した。
けど、まだだった。
ここまでの男の善戦を嘲笑うように、まだ化物達は数十体もいた。
男は右手を使って咥えていた拳銃を両の太腿でグリップが上を向くように挟んで固定し、更に右手で予備の弾倉をグリップの底へと差し込んだ。
次に銃口を下に向け逆のことをして、スライドを引いてチャンバー内へ弾を確実に送り込み、右手で持ち直して射撃を続ける。
九匹目、十匹目と仕留めたところで弾が切れる……男はまた両の太腿で拳銃を固定させて予備の弾倉を探すものの、既に持ち合わせていないことに気づき、太腿にあった拳銃を即右手で持ち、投げつけた。
……そして感覚のない左手が未だ持っていた警棒を右手で奪い、構える。
ただ人間を殺そうとする化物へ向かって。
――――これは戦後起きた巫覡による事案の中で最大の物である。
死者は町内住人の千を優に超え、対応に当たった県警の警察官十三名と巫覡対策課実働部隊以下三十名も殉職。
改めて出動要請のあった警視庁公安部巫覡対策課にて鎮圧。
これを№404と呼称していたが、後にテロと認定し、初の巫覡改め魔法テロ事案の№1と認められる。