監督令嬢はヒロイン育成に失敗しました。
「きゃぁぁぁあああ!!」
リンツ魔導学園の正門前。
夕刻になり下校途中の生徒で賑わうその場所で、甲高い悲鳴と共にどぼんっとそれなりの重量のものが水に落ちる音がした。
勢い良く水飛沫が跳ねて乾いた地面へと落ちる音と生徒のざわめきを割って、軽やかな拍手が聞こえた。
「まあ素晴らしいっ、素晴らしいです! みなさんご覧になりまして? これぞヒロインです! この素敵なイベントを起こした彼女へどうぞ拍手を送って差し上げましょう!」
過剰なほどの歓喜に打ち震えるのは、眩い金色の髪を美しく結い上げた公爵令嬢であるローゼリンデ・ラシュトルムだ。
ローゼリンデに先導され、下校途中の生徒達の戸惑いを含んだまばらな拍手が起こる。
その拍手を向けられている、ヒロインと呼ばれた一学年下の男爵令嬢のシャロン・リースは正門前の噴水に全身浸かって濡れ鼠となり、色気皆無の見窄らしい姿を晒していた。
シャロンはわなわなと怒りに体を震わせて噴水から出るとローゼリンデの正面に仁王立ちをする。
「ば、馬鹿にしているの!? いつも言ってるそのヒロインって何よ!! そもそもあんたが腕を引いてくれたら私がこんなずぶ濡れになることもなかったのよ!? 見てたなら助けてくれてもいいじゃない!!」
ビチャビチャと音を鳴らしながら地団駄を踏んでローゼリンデへと詰め寄る愛らしい顔立ちの彼女は、稀有なローズピンクの髪とアメジストの瞳、そしてこれまた稀有な光属性の適性があった。
シャロンは男爵家の庶子で、去年まで平民として過ごしていたが、ニ年前に男爵家に引き取られた。その愛らしく可憐な見目や哀れな生い立ち、光属性持ちということで編入当初は学園でも何かと話題に上がった。
しかし、今や学生たちの口の端に上がる彼女の話題といえば、やれ婚約者のいる男性にコナかけてるだとか、やれ貴族のマナーがなっていないだとか、やれ適性があるだけで全く光魔法が扱えない落ちこぼれだとか、とことん悪い意味での話題ばかりである。
自分の身を乾かすこともできないほどの成績だ。濡れそぼったハンカチを絞りながら顔を拭くシャロンを哀れに思い、ローゼリンデは風と炎の複合魔法で彼女を乾かしてやる。
「そうは仰っても、わたくし非力ですもの。支えられなくて一緒に噴水に落ちてしまいます。公爵令嬢として、その様な無様でみっともない真似できませんわ」
ローゼリンデが口元を手で隠しながら申し訳なさそうに俯く。それは自然な表情でありながら、計算されたかのように美しく、西陽さえも味方につけたように横顔を照らす。
その姿を絵画に残そうと美術部らしき生徒らがデッサンを始めた。
ローゼリンデは「それと」と垂れ目がちな瞳を細めて、わざとらしく厳しく見据える。
「その話し方は減点です。ヒロインをされてどれくらい経つと思ってるんです? もう少し自覚を持ってーー」
「乾かしてくれたのはありがとう! でもヒロインなんてものになった覚えないっての! 相変わらず頭イカれてんじゃないの!?」
不敬も不敬なその態度。
男爵令嬢が公爵令嬢にする態度ではないのだが、ローゼリンデは気分を害した様子もなくしょうがない子ねと言いたげに眉尻を下げた。
「あー、まあイカれてるってのは否定できねぇな……でもこいつは馬鹿にしてるつもりはないんだよなぁ」
校舎の方からローゼリンデの婚約者であるルフィーノ・マーディッド侯爵令息が後ろ頭を掻きながらやって来た。
「そうそう、残念なことに姉様の心からの賛辞なんだよねぇ」
「お嬢様に悪意などありませんからね。そもそも女神の化身たるお嬢様がそんな感情を持っているのかも甚だ疑問ですが」
ルフィーノと共にやって来たローゼリンデの弟のユーゼン、そして護衛騎士のディラン・エムドルがそれぞれに呟く。
ローゼリンデを庇う言葉にシャロンは彼らをキッと睨みつけた。
「今のが馬鹿にしてないなら何なのよ!? って、ちょっ、あんた達もいい加減に拍手やめなさいよ! 見せ物じゃないんだからさっさと帰ってってば! こらっ帰りなさいよ!! しっしっ!!」
八つ当たりをするように周囲の生徒達まで威嚇し始めた。
「まあまあ、落ち着いてくださいな。声を荒げてはいけません。ヒロインのイメージが損なわれますよ」
「だからヒロインだとかイメージだとかってなんなのよ! 私の素はこれなの! なんであんたの理想通りに動かないといけないのよ!!」
「ふふ、そんなこと言いながら先ほどは立派なヒロイン芸を披露してくださったではないですか」
「ヒロイン芸ってなにっ!?」
「まあっ、無意識ですのね。さすがヒロインです。わたくし感服いたしました。
ーーさて、ヒロイン芸とは何か、ですね。ヒロインに説明するのは、ふふっ、何やら神官に説法と言うものですが、お望みとあらばお答えいたしましょう。
ええ、あれはあなたを初めて見かけた初夏の眩い午後の陽射しの下のことーー」
「え、なに? いきなり回想入るの?」
戸惑うシャロンは黙殺され、すでに諦めモードのお守り役三人は遠い目をしている。
ローゼリンデは胸元で手を組んで、夢見がちな少女のように語り出す。
◇
庭園にローズピンクの髪を見つけ、その珍しい髪色に思わず足を止めた時のことでした。
「そんなところで何してるんだ?」
「実はあの木の上に髪に結んでいたリボンが……」
「ん? あー、あれな。ちょっと待ってろ」
彼は風魔法を操りリボンを取るとシャロンさんに屈託ない笑顔を向けた。
「ほら、今度は飛ばすなよ」
「は、はいっ」
その瞬間、シャロンの頬が赤く染まった。
◇
「あれはまさに恋する乙女の顔。彼の後ろ姿が見えなくなるまで見送るあなたを見て、わたくしは久しく感じていなかった胸のときめきを感じたのです。そう、これは恋愛小説の始まりなのではないかと! あれから半年間、こっそりとシャロンさんの様子を観察してましたわ。女子生徒の嫉妬で集団に囲まれたり、うっかりドジで階段で足を踏み外したり、実技で他の生徒の魔法が暴走して怪我をしそうになったり、その都度誰かしら男子生徒が助けに入るだなんて、わたくし、とっても感動したのです! なんというテンプレ! なんというヒロイン力っ! ヒロインという称号はあなたにこそ相応しいのです!」
「やかましいわっ!!」
べしっ!っとシャロンが握りしめていたハンカチを地面に叩きつける。
「ねえねえ、回想シーンの男子生徒ってルフィーノ兄さんじゃないの?」
「あー、なんかそんなことあったような気がしないでもない」
「お嬢様は恋の始まりだとか仰ってましたが」
「いや、なんも始まってねえよ」
背後でのやり取りなど聞こえていないローゼリンデは芝居がかった大袈裟なため息をついてみせた。
「だと言うのに、始まり以外のあなたの反応と言ったら、なぜそんな好感度が下がる選択肢ばかり選ぶのでしょう? わたくし居ても立ってもいられず、つい毎度口出しをしてしまうのです」
「余計なお世話よ!! あんた、私が光属性持ってるからって僻んでんじゃないの!? いっつもいっつも意味わかんないこと言って絡んでこられてうんざりなのよ! ストーカーかってくらい私の行く先々を待ち伏せして言動を逐一採点されて、これはヒロインらしくないとかヒロインっぽいとか!! なんなの!? あんたなんなのよ!? 私の頭おかしくさせたいわけっ!? おかしくさせたいんでしょうねぇ!? あーはいはい、あんたのお望み通り私はすっかりノイローゼ気味よ!」
「まあ。お喉が強いんですね。先程からそんなに叫んで痛めませんか?」
シャロンの心からの叫びも全く意に介さないローゼリンデに、シャロンは怒りで顔を真っ赤に染め上げて、可愛らしい顔の造形を忘れさせるほどの憤怒の表情を浮かべている。
普段のローゼリンデの奇行を思い返して心底申し訳ない気持ちになりながら常識ある三人は気まずさから視線を逸らした。
「そうだわ、もうそろそろ卒業記念パーティがありますけど、シャロンさんはどなたを狙っていらっしゃるのかしら。パートナーは決まりまして? 断罪イベントの準備はしっかりとできていて?」
「パートナーなんていないわよ! 誰かと話してるとあんたが邪魔してくるからね! そもそも断罪イベントとか、なんで私がそんな意味不明で不穏なイベントの準備しなきゃいけないのよ!! 平穏に卒業させなさいよ、物騒ね!!」
「わたくしが邪魔しなくても皆様からフラれていると聞いてますけども。学年最下位、貧乏男爵、貞操観念皆無と残念三拍子揃ってますもの。でも諦めてはいけないわ。大丈夫、自分を信じて」
完璧な笑顔で励ますも9割は悪口である。
内容は確かに嘘偽りなく正確なだけにシャロンの胸を抉る。
「〜〜〜〜あんたなんか、あんたなんかっ! そうやって男を侍らして見せつけるなんて、なんて嫌らしい性格なのっ!?」
「婚約者と弟と護衛騎士ですけど何か問題がありまして?」
苦し紛れの発言すらさらりと一蹴され、唇を噛み締めるシャロンに周囲からは同情の視線が向けられる。
「お嬢様、正論は時に相手を追い詰めます。冷静さを欠いている者を落ち着かせるにはまず肯定して受け入れてあげなければなりません」
「ええ、そうね、そうよね。ディラン、あなたはいつも的確なアドバイスをくれるわね。助かるわ。まずは受け入れることが大事なのね。ーーさて、シャロンさん。あなたのおっしゃる通りよ。見目麗しいわたくしの婚約者と美少年の弟に、精悍で凛々しい騎士なんだもの。ついあなたに見せびらかしてしまったわ。ごめんなさいね」
「ぐぅあああああぁぁぁあっ!!!! こっれっで! 悪意がないとでも!? どうなのよ、そこの三人!!」
「いやぁ、これでもほんと姉様に悪意はないんだよねぇ」
「お嬢様は心根の美しい方です。誰かを貶めるような意図は一切ありません」
「悪いな。卒業パーティが終われば解放されると思うから辛抱してくれ」
三人の返答に頭を抱えて大きく吠え叫ぶシャロンにローゼリンデは「まあお元気だこと」とにこにこ微笑んで様子を眺める。
見物していた周囲の生徒も、シャロンの雄叫びが大きくなるにつれて、騒動に巻き込まれないようにと迎えの馬車に乗り込んでいく。
「それにしてもどなたもお選びにならないのでしたらバッドエンドまっしぐらでは? 断罪をご所望で? んもう、それならそうと仰ってくださいな。最初にわたくしに「負けないから!」と宣言されるものですからてっきりメインヒーローであるルフィーノを選択されたものだとばかり……わたくしの早計だったのですね」
「え、バッドエンド? 断罪? メインヒーロー?」
「待て、ローゼ。なんで俺の名前が出る?」
「ルフィーノはともかくシャロンさんはお読みになったことありません? 巷で話題の魔法小説ってありますでしょ。本を読んでいると途中でいくつかの選択肢がページ上に浮かび上がり、物語が分岐する本です。その物語にピンクの髪をした平民のヒロインが光属性に目覚めて魔法学園に転入して男性と恋に落ちるのです。
そのお相手は様々で、読者の好みに合わせて選べますのよ。
学園内で見目麗しい男性が攻略対象になるのならどう考えても一番はルフィーノです。だって一番素敵ですもの。優しくて頼りになって家柄も成績も良くって、そのうえ剣まで使えますの。お顔立ちも、ほらこのように凛々しいでしょう? だけど目を細めて笑うと可愛いの。それから大きな手のひらで髪を撫でられるとうっとりしてしまうほどよ。声も程よく低くて聞いているだけで幸せになれますの。こんなに素敵な人、他にいないでしょう?」
盛大な惚気にあんぐりと口を開けて言葉を失うシャロンとルフィーノ。
二人とは反対にユーゼルとディランは慣れたもので、すんっと表情を消して聞き流している。
「それからわたくしのかわいい弟のユーゼルと護衛騎士のディランも攻略対象になりますでしょ。あと魔法理論のウェルシュ先生かしら。王族の方は年齢が合わなくて学園にいらっしゃらないから残念ながら除外しましたの」
「お、おう。俺は喜べばいいのかなんなのか……」
ルフィーノは照れたような顔を浮かべつつも自身がシャロンと恋に落ちることを期待されていたと知り、複雑な表情だ。
「あ、あんたの惚気はどうでもいいけど断罪って……?」
恐る恐ると言った風にシャロンが問い質す。
「この貴族社会で男爵令嬢がどなたの庇護下にもなく好き勝手にして許される道理などありませんわ。どなたのルートにも入らない上、ヒロインというより悪役令嬢のような行動をされると断罪されます。国外追放や修道院行き、平民落ち、処刑だとか行く末は様々です」
「そんなっ、どうしてっ……なんでそうなるのっ……!」
「何でも何も、わたくしこれでも公爵令嬢ですの。学園内とは言え、無礼な態度をとっておいてお咎めなしで済むはずありませんでしょう? 今はわたくしがあなたを育成しているのでお父様には寛大なお心でお目溢しして頂いているだけです。ーーはて、困りましたね。シャロンさんったらどうするおつもりなのでしょう?」
「えっ、えっ? でもっ」
「でももかかしもありません。あ、もしやわたくしとの友情エンドを目指してます? でもさすがに今から親密度を上げるには些か厳しいかと思いますよ」
「ど、どうしたらっ……」
「はっきり申し上げますと」
ごくりと喉を鳴らしてこちらを見上げる紫水晶の瞳に、ローゼリンデは真剣な眼差しを向けてにっこり微笑みながら頷く。
「現段階ではどなたの心も射止められていません。断罪ルート確定です」
「どうしろって言うのよーっ!」
「ええっと、刑が軽くなるように善行を積んでみては? 迷えるあなたに神のご加護があらんことを」
「ひ、他人事だと思って!」
ローゼリンデが後光が差すようなアルカイックスマイルを向けると涙目でシャロンが掴み掛かろうとしてくる。
それをヒラリと半歩身を引いて躱して、ずしゃりと勢いのまま地面にダイブする彼女を見送る。
「まさか。わたくしは育成に失敗してしまった責任を取って、あなたを断罪する義務があるのです。まあ、さすがに処刑や国外追放や娼館エンドはちょっと後味が悪いかしら。いえ、でもそれが断罪の醍醐味ですよね。修道院行きや平民落ちくらいでは生温いと言われそうですし。わたくし、心を鬼にしてシャロンさんを奈落の底に突き落としてあげますね」
「ひっ……」
ローゼリンデの心からの笑みが心底恐怖を煽る。
「ご心配なく。わたくし、権力とお金だけはありますから必ずやご期待以上の断罪をご覧に入れましょう」
「ふふ、何にしようかしらっ」と物語の中の数々の断罪劇を思い浮かべて恍惚とした表情を浮かべている。純粋に楽しんでいるのだから救いようがない。
「そ、そんな……」
「あー、ちょい待ち。それ全部物語の話だから。さすがにそこまではしない。学園内でのことだしな。あっても謹慎くらいだから安心しろ」
「あら、そんなこと言わないで。そこまでがセットなんですもの。わたくしが尽力します。必ずや彼女を断罪して地獄をみせます!」
「ちょっとおぉぉ!? さっきは私に神のご加護をって祈ってくれてたじゃない!」
「ちょっとくらい慈悲をくれてやりゃいいのに」
「ですが、ストーリーに沿わなければ盛り上がりに欠けますし。ストーリーテラーとしては一番の山場は手を抜けません」
「いつストーリーテラーになったの、姉様……」
「さあ、シャロンさん。せめて希望を聞いて差し上げます。卒業パーティまでにどれかおひとつ選んでくださいね」
「嫌よ、嫌っ! 絶っっ対イヤ!」
「あっ、その……フルコースをご希望……? どれも選べないなんて、なかなか欲張りさんですのね。国外追放からの他国の娼館行き、そして最期は処け……」
「どれもお断りっつってんの! フルコースとかあんた鬼畜なの!?」
「いえいえ、鬼や畜生のような人外になった覚えはありませんわ」
「非道な行いをする奴のことを鬼畜って言うのよ!」
「落ち着けって。いざとなったらこいつから逃げられるように取り計らってやるから」
「ルフィーノ様っ……!」
シャロンは勢い良く跪くと救いの神を見るような瞳でルフィーノを見上げる。
「まあっ、ここでフラグですのね。駆け落ちエンドかしら」
「なんでそうなる!? 俺、お前の婚約者だよな!?」
「近々元婚約者になるのでは?」
「頼むから滅多なこと言わないでくれ!」
涙目のルフィーノの背中を哀れむように叩くユーゼル。ディランがすっとハンカチを差し出す。
「あんた自分の婚約者によくそんなこと言えるわね! 人の心がないの!?」
「人の心、ですか。生きていれば誰しも持っているものでは?」
「良心とかそういうもの!」
「弱き者に施し、他者を憐れむ心なら持ち合わせております。月に一回は孤児院訪問ですとか治療院へお手伝いに行ったりしてますよ」
「その優しさを! なぜ! 私に! 向けない!?」
「だってヒロインですし」
「かぁーーーーーっ!! ヒロインだからなんだってのよ!」
「そんな痰吐きのおじ様のような叫び声はさすがにヒロインどうこう以前にレディとしてちょっと……」
「うっさい! そもそもあんたみたいな生粋のお嬢様が下町のおっさんが道端に痰を吐くなんて知らないはずでしょーが!」
「ふふっ、こっそり下町にも行ったことがありますの。本の世界だけでは見えないものがありますもの。そこでいろんな悪い言葉も覚えましたのよ」
弾む声ではにかんでみせるローゼリンデと叫び疲れて肩で息をしているシャロンの対比は美術部員たちにとっては大変面白い構図のようで筆が止まらない。
「あー、落ち着けって。あんま叫ぶと血圧上がって倒れるぞ。ユーゼル、ちょっとローゼの口押さえとけ」
「はいはーい。任せて。姉様ごめんね。さすがに姉様のせいで誰か倒れたりするのは外聞が良くないからさ、静かにしてね?」
「んんむっ?」
「ユーゼル様。押さえ方が甘いです。お嬢様に遠慮は無用です。こういう時はここをーー」
「ああ、こうか。なるほどね。やっぱりディランは有能だなぁ」
ふごふご言うローゼリンデをスルーして朗らかに会話を続ける。
「あー、シャロン嬢。君が公爵家から処罰されない唯一の方法がある」
シャロンはやや血走った真剣な目で続きの言葉を待つ。
「『ローゼリンデ被害者の会』って知ってるか?」
「は?」
「『ローゼリンデ被害者の会』」
復唱されても、そんなよくわからない団体聞いたこともないと首を横に振る。
「この暴走型のうちのお姫様は幼少期から何かと周囲に迷惑をかけていてな。悪気はないんだが、いかんせん権力と好奇心が強くて思い込んだら止まらないんだ。その結果、公爵家が補償した者の数も少なくない。当然の成り行きとして五年ほど前に『ローゼリンデ被害者の会』は設立されたんだ」
「なっ、なんて傍迷惑な女なの……」
唖然とするシャロンに苦笑しながら話を続ける。
「君が入会することでローゼリンデへの今までの不敬も咎められることはないだろう。もちろん入会審査もあるが、君なら何なく通過できると保証しよう」
「ああっ、ルフィーノ様! 感謝いたします!」
ルフィーノは、膝をついて拝み倒すシャロンに労りの目を向けつつ立ち上がるよう手を差し出す。
「こうして、二人は恋に落ちるーーそこに立ちはだかる公爵令嬢の壁。卒業記念パーティーのダンスパートナーをかけた戦いと、知略巡らされた罠の数々。それらを乗り越える二人の愛は熱く激しく燃え上がり、控え室でついに一線を超えてしまうーー」
「超えねぇっての!! 変なナレーション入れるな!! これで収拾つけるんだよ! おい、ディラン! ローゼを回収しろ!」
ユーゼンの手から逃れたローゼリンデが夢見がちな表情で高らかにのたまい、ついにルフィーノの怒りが爆発した。
「……ローゼ、後で説教するから覚悟しとけ」
ルフィーノの剣呑な目に、ローゼリンデはようやく戸惑いをその顔に浮かべた。
「えっ? あ、あら? ルフィーノ、もしかして怒って……ますの?」
ローゼリンデがいつになく不安そうにルフィーノを見上げる。どうにか取り繕おうと頭をフル回転させてる間にディランに抱き上げられ、門の近くに止まっていた公爵家の馬車に入れられる。
「あー……迷惑かけたな」
「全くよ! 公爵家から迷惑料毟り取ってやるからね!」
「すまん……中途半端に止めると被害が拡大するもんで静観してたが、もっと強く制止すべきだった。君の学生生活を壊して申し訳ない」
真摯な謝罪に、シャロンも少し罰が悪そうにして怒りを鎮めていく。
「ーーいや、私も態度が悪かったのよね。もう平民ではないんだから、いつまでも甘えていてはいけなかったのに……かわいそうな私を許してって思ってた。いい男さえ捕まえて結婚したらそれでいいって……それしか頭になかった」
なりたくもない、しかも男爵令嬢なんて地位も低い貴族になってしまって、どうせならどこかのお姫様とか公爵令嬢ならもっとみんなチヤホヤしてくれただろうに。
周りに媚びへつらうことだけ求められて、有用性を示すことを強要されるのが、ただただ苦痛だった。
平民のままの自分でも愛して欲しくて駄々をこねるように奔放に振る舞ったが、なんて浅はかで幼稚な意思表現だったのだろう。
「でも、かわいいからって許されるのは小さい時までね。今の自分が立つ場所に見合った自分にならないと誰だって生きていけないのにね。……お陰様でいい加減現実を見ないとこんな目に遭うんだって理解できたわ」
シャロンはこれまでのことを思い返したのか疲れたように自嘲の笑みを浮かべて深いため息をつく。
そしてゆるく首を振って顔を上げる。
その顔は、どこか吹っ切れたようにすっきりとしていた。
くるりとした大きな目は、ローゼリンデに喧嘩を売っていたときのように不屈の輝きを宿していて、ひとつの翳りもない。つんと顎を突き出して二人に笑いかける。
「今度ローゼリンデ様にも謝りに行くわ。無礼な真似をしたのは私だし慰謝料の請求はそこそこにしておいてあげるわね」
慰謝料なんて微々たる金額、公爵家の痛手になりようはずもないが、精一杯の最後の強がりだ。
「あははっ、感謝するよ。姉様を教訓にしてくれるなんてシャロン嬢は素直な心根を持っているんだね。正直かなり見直したよ」
「ああ、君の卒業まではあと一年ある。君ならまだ巻き返せるさ」
「ふん、調子のいいこと言わないでよね。……でもまあいいわ。誰かに真っ直ぐ期待されるのは久しぶりだし、卒業まで足掻いてやるわよ。あんた達のお姫様をぎゃふんと言わせる結果を残してやるわ!」
小さな子犬が吠えているような微笑ましさに、ルフィーノとユーゼルは目を合わせて笑った。
◇◇◇
「さて、と。なあ、ローゼリンデ」
「は、はいっ」
いつもの愛称ではなく淡々と名を呼ばれて、広く頑丈な馬車の中でローゼリンデはびくりと体を揺らした。
助けてくれるはずのユーゼルとディランは、ルフィーノの馬車で帰ると言われて車内には二人きりである。
無茶や迷惑をかけても滅多に怒らないルフィーノを見ていられず、視線を彷徨わせながら身を固くする。
「婚約破棄したいのか? 俺じゃ不満だったか。そうだな、俺は侯爵家だしな。やっぱり王族や同じ公爵家が良かったか?」
「い、いえ! ルフィーノに不満なんてありません!」
「へーえ? なのに他の女に譲ろうとしたのか。随分と楽しそうだったよなぁ?」
「ご、ごめんなさい。怒らないで、もう許してちょうだい? ルフィーノ、わたくしきちんと反省しているわ」
表情を消したルフィーノは、しゅん……と意気消沈している愛しい婚約者の顔をじぃっと見つめ、勿体ぶるように時間を置いてから嗤った。
「許さない」
「ど、どうしたらっ……」と混乱したように取り乱している常にないローゼリンデの態度に荒ぶる感情が急速に鎮まってしまう。
うっかり宥めようと手を伸ばしかけて慌てて腕を組み替えて誤魔化した。
(あっ、あっぶねー……うっかり許しそうになったぞ……)
しかし、ここで簡単に許してはならないとルフィーノは表情が弛まぬよう気を張り詰める。
「俺が本当にリース男爵令嬢と恋仲になったら簡単に手放したのか?」
「い、いいえ! いいえ! 手放したりなど絶対にしません! ルフィーノが彼女を選ぶだなんて考えていなかったのです。現実のルフィーノはわたくしの側にいるものだと疑いすらしていなくて……シャロンさんと恋仲になるのは物語の中の登場人物のルフィーノみたいな感覚で、現実のものとしてではなくて、あの、だから、とにかくわたくしが間違っていたのです! 決してっ、決してあなたと婚約破棄したいわけではありませんの!
わたくし、もしあなたが離れていくことになったら悪役令嬢になることも厭いませんわ! そ、そのくらい愛していますのっ!!」
所々つっかえながらも必死に釈明され、ルフィーノはにやけそうになるのを堪える。いや、堪えきれていないかもしれない。口の端がピクピクと動いているのを感じていた。
夢みがちな少女のまま大人になり、それが叶うくらいの地位と権力と周囲の愛情に包まれれば、世間知らずのお姫様が出来上がるのも無理はない。
その片棒を担いだ自分にも責がある、とルフィーノは今までの行いを反省した。
「ローゼは嫉妬に狂うくらい俺を愛していると?」
「ええ、そうです!」
「ふーん? どうにも信用できないな。今まで振り回されてばかりだったし、俺が惚れ込んでいるだけでローゼは家族の一人としか認識していないだろ?」
「そんなことありません! お慕いしてますもの!」
「そうか。じゃあ態度で示してもらおうか」
「た、態度で?」
にっこりと笑うとルフィーノは、ローゼリンデの隣に移動して己の膝をぽんぽんと叩いてみせた。
その意味がわからないわけがなく、先程とは違う意味でローゼリンデは狼狽する。
「えっ、いえ、ですがその、わたくし重たいですし、最近甘いものの食べ過ぎなのかお胸やお尻が大きくーー」
「ごほっ、ろ、ローゼ」
咳払いをしてローゼリンデの発言を遮ったルフィーノのその顔はうっすらと赤くなっている。
「示せないなら信じることはできないぞ。愛しているというのは、この場を逃れたいがための口先だけの発言か? 嘘じゃないなら行動も伴わせるべきじゃないか?」
その強い視線に射抜かれ、ローゼリンデは羞恥に首まで赤くして強くぎゅっと目を瞑る。大きく深呼吸を繰り返し、覚悟を決めて、薄く目を開いた。
視界が狭まれば恥ずかしさも軽減できるはずという、なんの根拠もない思い込みだ。
「い、いきますわ!」
なんとも頼りなく宣言すると恐る恐るルフィーノの太ももに手を置き、腰を浮かせる。
嗅ぎ慣れたシダーウッドの香りをいつもより強く感じるのは、ローゼリンデが意識しすぎているからなのかは分からない。
震える手でルフィーノの胸元に手を添えて、その膝の上に腰を下ろした。
ほんの少し離していた隙間も馬車の揺れで自然と密着してしまった。触れたところからルフィーノの温度が伝わって来て、緊張から自然と息が上がり、目の前がぐるぐる回りだす。
(ど、どうやって息を吸うのだったかしらっ?)
「ローゼ、落ち着け。ほら息を吸え」
ルフィーノの声に集中してどうにか呼吸を整えるも、耳を擽るその声に顔の温度は上がっていく。落ち着かせるように背中を撫でる手は熱く、私を抱き込むようにもう片方の手が腰に回っている。
落ちないように支えてくれているだけだと言い聞かせて、ローゼリンデは意識しないように努めるが動悸は激しくなる一方だ。
「あーあ、このまま口付けでもくれたら言うことないんだけどなぁ」
「く、口付けですかっ?」
裏返った声を上げたローゼリンデはすぐ近くにある唇を凝視する。
薄く形の良い唇。薄く開いた口の隙間からうっすらと彼の歯が見えて、その先にある舌を想像してしまう。
妄想、想像は乙女の嗜みであるとローゼリンデは常日頃から考えているが、脳内で考えることと現実の恋慕う相手との"それ"は、それはもう天と地ほど差があるもので、自分にはまだ遠い世界の話だと思っていた。
もちろんお年頃である。少し大人な本もこっそりメイドや侍女から融通してもらい隠し持っていたりする。
けれど、ルフィーノとのアレコレを想像したことはなかった。
嫌か嫌じゃないかと聞かれれば当然嫌ではない。
しかし、なんというか、絵本の中の王子様のような綺麗なものを汚してしまう気がしたのだ。
それがどうだ。彼の膝の上に座り、口付けを所望されてしまったではないか。
もしかしたらもしかしてその先もここで求められてしまうのでは!?なとど考えが飛躍して、まあ簡単な話、ローゼリンデは頭から湯気が出そうなほど興奮してしまってフリーズした。
「おーい、ローゼ? 初心なお姫様には早すぎたか……いや、でもなあ。俺も十分我慢してきたと思うが」
「いっその事、段階踏まずに婚姻を早めて初めてを一気に奪った方がいいのかもしれないな、うん」と頭上からひとり納得する声が降ってくる。
その声には愛しさしか含まれておらず、気恥ずかしさを上回る勢いでじんわりと幸せな気持ちが広がっていく。
その日を待ち遠しく思っているのはルフィーノだけではないのだと、そう伝えたくてローゼリンデは胸元にしがみついた。
絵本のような夢見がちな恋から目が覚めたその日。
抱きしめる腕も口付けも、その先も。
相手はルフィーノでなくては駄目なのだと、ローゼリンデは今更ながら思い知ったのだった。
◇◇◇
その後。
シャロン・リース男爵令嬢は、貴族になったことで迷走していた元々の勝気で前向きな性格がようやく正しい方向を向き、『ローゼリンデ被害者の会』に加入して身の安全を確保した後、卒業までの一年間勉学に励んだ。
その努力が身を結び、光魔法を使いこなせるようになり、教会での福祉活動に勤しんだ。そして最下位から這い上がり、中の上の成績で学園を卒業した後は教会所属の治癒師として働き、その後子爵家の男性と恋に落ちて平凡な幸せを得た。
彼女の結婚式には、ラシュトルム公爵家、並びにマーディッド侯爵家からのお祝いが屋敷を埋め尽くさんばかりに届いたそうだ。
「また迷惑な。加減ってものを知りなさいよね」と悪態をつきつつも、シャロンは嬉しそうにしていたそうだ。
ローゼリンデはマーディッド侯爵家に嫁いでからも相変わらず周囲を巻き込み、退屈しない人生を歩んだ。
傍にはルフィーノの姿があり、妻の尻拭いに常に奔走したという。
時折、ローゼリンデが真っ赤になり翻弄されている姿も見られたが、結局その愛らしさにノックダウンされたルフィーノが天を仰いで悶える姿は社交界の名物になった。
仲睦まじい二人は末長く幸せに暮らしたそうな。
久しぶりの投稿です。
気分転換に初短編を書いてみましたが、一万文字以内に抑えるのは難しいですね…
楽しんでいただけたら嬉しいです。