第1話「山中の小さな変化」
天治2年9月4日
今日も、僕は自然の恵みをいただきに、山へと入った。
夕方の帰り道、今年初めてコオロギの声を耳にした。コロコロリー、コロコロリーと鳴き耽っている。自分が今、ここにいるぞとアピールしている。
姿形はいつもと変わらないけど、こういう1幕に、変化を感じる。
やっぱり、山は生きているんだって、感じる。
天治2年9月5日
今日、久しぶりに、万年巨木の方まで足を運んだ。
壮大な樹木には、身長を測るため、僕と弟がつけた傷が未だに残されていた。“比べっこの木”って言っていたっけ。今考えると、いけないことしていたな。
でも、そんな小さな傷に、負けないほどの生命力。
僕たちを、僕たちの先祖を、10000年も、見守ってくれていた。
弟にも、わかってほしいなぁ。
天治2年9月6日
国境崖からすぐ近くの山中で、重傷人を発見した。
意識を失っていて、これを書いている今も、目を覚ましていない。
ただ、本当に人なのかな?
見た目は、僕たちによく似ている。ただ、所々異なる所がある。
まず、異常な治癒能力。僕は少しの処置を施しただけなのに、もう傷が塞がっている。木々が突き刺さり、亡くなってもおかしくないほどだったのに。
それに、頭についている謎の輪。怖くて抜けなかったが、5つもある。しかも、1カ所、頭に穴が空いている。輪を差し込んでいるのか?
赤い髪は…
手記を認めている中、辺りの草々をかき分ける音が、来客を知らせる。
建て付けの戸は無いから、誰が来たかは人目でわかる。
「兄さん、久しぶり」
「あぁ、久しぶり。こんなところまで、どうした、シアンス」
筆を止め、僕は1度立ち上がった。
身長が高い弟は、目線の上から僕を一瞥し、僕の背後の寝具に目を移した。
「…その人は?」
「あぁ、山でちょっとな。…要件は?」
「村長…いや国長から、兄さんに依頼が入った」
「断る。何度来られても、気持ちは変わらない。それに、僕はもう“ラボ”を抜けた身だ」
「話の大元が、御上だとしても、か?」
「…なぜ、僕に?」
「詳しくは知らん。だが、この国随一の頭脳が必要なんだろうよ。だから、国長は兄さんを指名した」
「…俺は忙しい。帰ってくれ」
そう言って、僕は寝具よりも更に奥の台所へと向かった。特に要件も無いのに。
背を向けていたため、シアンスがどんな顔をしていたかはわからない。ただ、去り際の「頑固頭」と罵る声で、全てが伝わってきた気がした。
翌朝も、山の恵みの散策をしに出掛けた。
午前中にある程度まで進み、午後は他のルートを辿って、ゆっくりと引き返してくる。これが、ここ最近の僕の日課だ。
よし、今日は進路を東に取ろう。
川を干からびさせるような日照りだが、山中では幻想的な木漏れ日となり、風情がある。
道中、珍しい薬草も見つけられた。
今日は何だか、良い日だなぁ。
お昼休憩では、山の幸をいただいた。木の実や山菜はもちろんのこと、動物も自ら仕留めたものを調理し、持って行く。今日は、ロンクイノシシの肉を乾燥させて、細かく潰し、オリーブ油に漬けたものをいただく。僕たちの民族の伝統料理だ。
幼い頃から慣れ親しんでいる味だが、色褪せない美味しさがある。
ブー、ブー、ブー、ブー。
どこかから、微かに振動音が聞こえる。…僕の鞄の中からだ。
パンパンに草々を詰め込んだ鞄に、手探りで捜索すると、中から通信機器が出てきた。僕が以前作ったものだ。
…シアンスの仕業か。昨日、帰る間際で忍ばせたな?
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(ちっ、兄さんのやつ。無視してるな。)
「まぁいいや。それを見越して、俺はわざわざ兄さんの家まで足を運んでいるわけだからな。“これ”があれば、未来永劫、この国の皆を救えるんだ。絶対に説得してやる。」
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響く振動に気づかぬ振りをしながら、僕は転回のルートを進む。
やっぱり、こういうことをするのは、心苦しいな。
未知の頭脳と技術の国、ノマード。国として生まれたばかり。
僕たちの先祖は、大陸を占める巨大な山々に移り住む、ノマード族という民族だった。彼らは数ヶ月の滞在と移動を繰り返し、生きていた。国という形態はなく、民族を統べる村長を中心とした集落を、各地で形成してきた。
定住しない理由は単純。山の恵みをいただきすぎないため。この自然を壊さないため。
その移住生活は、数年前まで続いていた。
しかし、この村に、ある1人の老人が現れた。
彼は西国から来た“科学者”と呼ばれる存在で、僕たちには理解できない理論と技術の知識を持ち合わせていた。
この村の若い連中は、その未知の代物にのめり込んでいった。当然僕も、シアンスも。
翁が指揮し、統括したラボは、メキメキと成長を遂げ、それはこの村の代名詞となった。ちっぽけな山中の集落を、国に変貌させる原動力となるほどに。
だが、僕はもういいんだ。僕は僕のやり方で、余生を過ごすと決めたんだ。
たとえ、弟と道を違えることになっても。
日が沈みかけた橙の空が、青茂る森の上に浮かび始める。
僕の家は、ノマードの伝統的なツリーハウス。木の負担が少なく、伐採もなるべくしない方法が用いられている。
適当に下ろしてある梯子を登ると、戸が無いため、開放的な空間が広がっている。
「あれ。君、起きたんだ」
玄関のすぐ側に、寝ていたはずの彼が立っていた。何やら、僕の研究机の上を見つめている。
僕の声に反応するやいなや、鋭い視線を向けてきた。
眠りこくっていた時は子犬のような可愛らしい寝顔をしていた。だが、それは影を潜め、別人のように淡泊な形相だった。
「…お前が、家主か?」
「ん、あぁ。………グフッ!!」
いつの間に、手にしていたのだろうか。
腹部に刺さる僕の研究用包丁と、神経を逆撫でするような激痛。そして、じんわり熱い深紅の液体を感じながら、僕はその場に倒れ込んだ。