プロローグ
伽藍と、吹き抜けた空間。進む2人の足音だけが、辺りに反響している。黒に近い茶のレンガ壁は、幽幽たる雰囲気を助長させていた。
まぁもちろん、こんなことでは怯まない。構わず歩いて行くと、等間隔に設けられた右手壁面の隙間から、一筋の光が差し込んでいる。覗き込むや、遙かに望む山峰の絶景と蟻のような人間たちが目に映る。自分の居る場所がどこなのか、改めて思い知らされる。
「ここは、何階何でしたっけ?」
40階。看守曰く、この塔の最上階に位置する。また、階を重ねるごとに、重大な罪人や要人を収容するらしい。
確かに、この圧倒的な高さなら、脱走する気も失せるだろうな。飛び降り自殺は頻発しそうだけど。
広い廊下に似つかない、木材で造られた小さな格子状の扉の前で、看守は足を止めた。ここが目的の居房のようだ。
房内人にまみえる前に今一度、身体調査を要求された。「入塔時に行ったはずですが、念には念をと言われていて」と何だか気まずそうにしていた。
面会の際に必要となる物を詰めた鞄の中を一通り見て、俺自身手ぶらであることを確認すると、看守はゴソゴソと自身の袖をまさぐり始めた。
袖も裾も広く仕立てられた看守の服は、この国特有の装束で、武に通ずる者たちがこぞって着用している。確か、“野袴”と言ったか。
ガサガサと探す動きにつられ、腰にぶら下げた警棒が揺れる。思わず俺は目を移してしまった。鍵を取り出した看守は錠に差し込み、俺は遂に房内へ通された。
1人の女性がひっそりと椅子に座っている。
あぁ、このヒトが。
余所者かつ他人の俺に、彼女は見向きもしない。それどころか、一切の雑音も立てることが無かった。ただ息をするだけのために、そこに座しているようで、この凛とした面構えは、不思議と絵になると感じた。
ふーっ。…そろそろか?
突然、鼓膜を貫く爆音とともに、足下を取られるような強震を感じた。
「地震か?」と看守は疑っていたが、この揺れはこの塔のみを襲っている。
少し様子を見てきますと、看守はあっさり席を外した。どうやら、俺はかなり信用されているらしい。まぁ、御上が信頼を置く従属国の人間に、余計な心配なんてすることはないか。
それにしても、このヒトは本当に、人形みたいだ。
無垢とも言える面構えに、真白の肌。薄みがかった深紅の髪。
そして、この騒ぎにも、ウンともスンとも言わない無機質な精神。それもそのはず。
手荷物検査を通過した鞄から、俺は“とある物体”を取り出した。
“これ”は弾薬と同じような見た目をしているが、全くの別物。痛みを与えるものではない。
弾薬で言う薬莢部分に取り付けられた輪に指を通す。
俺も実際に”これ”を扱うのは初めてだから、火急の事態に似合わず、高揚している。
無抵抗の彼女の赤髪を恐る恐るかき分けると、側頭部に3カ所、縦に並んで空いた穴を発見した。ちなみに、反対側には、穴が2カ所あった。
その穴の1つに、指に通した物体の弾頭を、丁寧に差し込んだ。
寸刻待ってみたが、どことなく怯えた表情の彼女は、一向に口を割ろうとしない。
これで、いいはずだが…?
とりあえず、俺の仕事は十分果たしたため、大人しく独房の外へ出る。
様子を見に行った看守がいるはずだが、近くには見当たらない。事の次第を見聞きし、このフロアの最果てまで応援に出向いたのだろうか。
いずれにせよ、俺はここで待つ他無い。
と思い至った瞬間、俺が歩いてきた方向と真反対から、誰かが駆ける音がしてきた。
暗闇を抜け、徐々に見えてきたのは赤髪の男。手には、あまたの看守の血を吸うたであろう短刀が光り、頭には、アクセサリーとは思いがたい5つの輪が目に映る。
やっと、主役のご到着か。
俺は無言のまま、彼女の待つ独居房を指差した。
すると、こいつは駆ける勢いを止めようとせず、何なら多少逸りながら、俺へと突っ込んでくる。そして、手に握る短刀を一直線に振りかざした。
「ぐわはぁっ!!…てめぇっ!」
腹部に一閃。あまりに深い傷を負った俺は、その場に倒れ込み、溢れる血を懸命に抑えた。
そんな俺に見向きもせず、奴は房内へ飛び込んでいった。
「マシェリ!!…マシェリ!!」
薄れ行く意識の中でも、奴の安堵が、はっきりと伝わってくる。
「やっと。やっと、会えた。なんか、久しぶりに感じるなぁ。…って聞こえてないか」
そう。マシェリに、俺たちの声は聞こえていない。
「あっ、ちゃんと、戻してあるな、“口のO-gun”」
当たり前だろ。そういう契約だ。
「とりあえず、行かなきゃ。追っ手が来ちゃうかもしれない」
そう息巻いた奴は、きっと、思いきり彼女の腕を引っ張っていこうとしたのだろう。
思えば、牢獄に1人、何も無く、何もわからない状態だった彼女に、突然振って沸いた腕を引っ張られるという感覚は、相当恐ろしいものだったのだろう。
「ちょっ、マシェリ?」
本能が、彼女に無言の抵抗を取らせた。
だが、二人の足を廊下で転がる俺のすぐ近くに感じる。急いている奴が強引に引きずり出したのだろう。
居房から出せたはいいものの、話の通じない彼女の足は硬直を極めている。とてもじゃないが、ここから逃げ出せるような状態じゃない。
「…マシェリ。俺だよ…?…俺、なんだよ」
わかっていても、止められない言葉が、一滴の涙とともにこぼれ落ちた。
奴も彼女も、特別なヒト。この世の常識が、通じない存在。
オブリビヨンガン。通称“O-gun”という摩訶不思議な物体がある。弾薬のようなそれの中には、その人の感覚や神経の能力が閉じ込められている。
それを頭に空いた穴へ差し込めば、それぞれの機能が解放され、本来の通り使用可能になる。逆に、それが差し込まれていなければ、その身体機能が完全に失われてしまう。
穴の数は、彼女には5つ。それぞれ、口、耳、目、鼻、そして記憶の機能。
彼女に差し込まれた弾薬は、口のO-gunのみ。つまり、口の機能や感覚は存在するが、他4つの機能は失われている。記憶が無いから、言語も発せ得無い。
当然、奴のことも、覚えていない。
「…ンッ!」
ん?何だ?マシェリの声か?奴は、何をしたんだ?
「ごめんな。俺が誰かもわからないのに、こんなことして。…でもさ」
少し間を置きながら、奴は焦がれた思いのこもった柔らかい声を発した。
「久しぶりに会えるって思ったら。…キスしたかったんだ」
馬鹿が。
「…それでさ、さっき、ラズベリー食べたんだ。ほら、思い出の味だろう?…もしかしたら、俺を、思い出してくれるかもって」
…馬鹿が。だから、何にも聞こえてねぇって。
「ふーっ。よし、行こう」
駆ける足音は1人分。でも、近くには、誰の気配も感じない。
ぼやけた視界を凝らしてみれば、囚われた姫を担ぎ、颯爽と救い出していった男の姿が、遠のいていく。
「君に全部もらったんだ。君が全部教えてくれたんだ。俺がいるのは、君がいるからだ。だから、取り返すよ、全部。口も耳も目も鼻も、全部。そして、全部、君に返す。今度は俺が、返す番。そうしたら、色々話をしよう」
俺が聞いた最後の言葉は、それだった。
何が楽しくて、他所様のイチャつきを、聞かなきゃいけないんだ。
こっちは、かろうじて起きていられているだけなのに。
ん?どうしてこうなったのか?
じゃあ、時間を少し遡って、話をしようか。
俺の意識が尽きるま……。