揺れる瞳、休息
隣に誰かいる?
思わず回りを見回してみるも、紫がかる夕暮れの少しずつ重たくなる空気がよどんでいるだけだった。
ふわっと甘い香りが舞う。
クチナシ か。
ベンジルアセテート、リナロール、リナリルアセテート、ターピネオールのフルボディの香り。
花の気配だったのか。
違う。
自分のまわりの空気がかすかに揺らめいている。
突然、浮かんでくる 大きな 大きな 樹。
そこにかぶる翠色と瑠璃色の吸い込まれそうで澄んだ瞳。
少し紫色の混じる銀色の色の長い髪と深い柘榴色の瞳。
瞳は揺れている。
しかし、それは一瞬で消えた。
こういうことは前にもあったので、それほど気にもしなかった。
きっと、このじっとりとしたこの時期特有の気候と少しうまくいかない仕事のせいだ。
扶桑桐子は食材の入ったエコバッグを右手から左手に持ち替えて、家路への歩みを急いだ。
久しぶりに定時で帰宅できたのだ。少し手のこんだ夕食を作り、ビル・エバンスのピアノを聴きながら、先月、手に入れた「きよか」の新茶をじっくり楽しみたい。
(1)六月 イングリッシュガーデン
立派な門をくぐる。
和風の庭の奥にレンガ塀で仕切られた庭がある。
レンガ塀の小さな鉄門の両脇には紫、赤紫、青色の大きな紫陽花と真っ白なカシワバアジサイが咲いている。
花の間に紫陽花の鮮やかな緑色とカシワバアジサイの黄土色の葉がのぞき、レンガ塀を背景に浮き上がるように目に印象を残す。
ぎぃーと音をたてる鉄門を押して中に入ると、レンガ塀の中にはイングリッシュガーデンがある。
イギリスでも特別美しい庭とされるシシングハースト・カースル・ガーデンにあるような造りの庭に様々な花々が咲く。
敷石の左右に花々。
その奥に小さなサンクガーデンのようになった休憩所があり、ストーンスツールがぽつんと置かれている。そしてその奥には丸い形をした直径80cmほどの石が置かれていた。色々な色の鉱物が混ざった石で表面は見事に磨き上げられている。そこだけ光って見えるような不思議な石だった。
リアトリスの紫。ミントの白。揺れる星のようなアリウム・クリストフィ。
ローズガーデンには、パパ・メイアン、ビバリー、ノヴァーリス、ホリデー・アイライド・ピオニー、ゴスペル、バタースコッチ、芳純など香り高い食用品種。ローズーデンの奥にはトネリコが白い花をたわわに付けている。
家の向こう側にあるローズガーデンの手前の薬用植物のエリアには、ウラルカンゾウ、シャクヤク、コガネバナ、ショウガ、ミシマサイコ、クズ、キキョウ、イカリソウ、キク、ベニバナ、ヘリクリサム、ムラサキ、アマチャなどが育っている。
たまに近所から遊びにきているのか、小さなウサギ、ネザーランドドワーフが花の間から顔をのぞかせる。
この庭園の花々は少々変わっている。
四季がなく、いつでも花は散らずにいる。桐子がガーデンに足を踏み入れると花々がちりちりと小さく震え葉がほのかに光る。
いつものことなので特別驚いたりはしない。
桐子が特に好きなのが、紅梅色のヘリクリサム(ムギワラギク)。シルバーリーフが何とも言えない可憐さを醸し出す。ドライにしたりハーバリウムにしたりと楽しんでいる。
「おかえりなさい」
美しいテナーボイスで手を振りながら向こうからやってきたのは、庭の手入れを手伝ってくれている三条ラネルさん。
長身ですらっとしていてとても整った顔立ちをしている。お父さんがイギリス人だという彼の瞳は松の葉のような深みのある渋い青緑色である翠色で、長めの金色の髪が長い金色の睫にさらさらとかかっていた。髪は肩より少し長く首の後ろで1つになり、きらきらと光る緑色の宝石が編み込まれたゴムでまとめられている。
「今日は早かったのですね。」上から見下ろすような形で聞く。
「はい。今日は仕事で少しつまずいてしまって早めに帰ってきました。」ほぼ真上に見上げながら答える。
「そうですか。休養も必要ですよ。今日はローズガーデンに新しい品種を植えてみました。これも食用の薫乃です。また、明日の朝にでも見て下さいね。それでは、今日はこれで失礼します。」
そう言うと三条は軽く頭を下げて、今来た小さな鉄門を押し、音をたてて帰って行った。
「遅くまで有り難うございます。お疲れ様でした。」桐子は丁寧に頭を下げて見送った。
そして、ガーデン内の桑染色の敷石を敷き詰めた小径を進み、サンルームから家の中に入った。家はイギリスの田舎にあるような平屋のかわいらしい造りである。
ひとたび鉄門から入ってくると、ここが日本であるとはとても信じられない、そういう空間だった。
桐子は高校1年のときからこの大きな屋敷に一人で住んでいる。両親は事故で亡くなり、親戚とも疎遠だ。
そのため、早いうちから、身の回りのことは何でも一人でできるようになった。
薬学系の大学院を卒業後、医薬部外品や化粧品を開発・製造する会社に入り、研究室で植物エキスの効能を研究する毎日である。
今年で入社して4年になり、同僚とは仕事の話はするものの、それほど親しいわけでもない。
何よりもこのガーデンがとても気に入っているので、同僚とどこかに出かけるよりはここでゆっくりする時間をとても大切にしていた。
桐子の身長は160cmで普通の体型、ごく普通の容姿の女性だった。
肩の下まで伸ばした真っ黒な髪はいつもひとまとめにくくられ、チタンフレームの眼鏡がトレードマークである。少し茶色がかった黒い瞳はどこまでも透きとおりきらきらと輝いていて意思の強さを表しているようだ。
喜怒哀楽が表情に出にくく、研究室で研究は一生懸命やって成果は淡々と出すが、何を考えているのかわからない人と回りに評価されていたが上司の受けは良かった。
まっすぐキッチンに向かうと、エコバッグをカウンターに下ろしてふーっと息をつき、長袖のブラウスをたくし上げて、調理を始めた。まずは電気ポットを再沸騰設定して熱湯にしておく。
今日は、丁寧に出汁をとって、具材を煮含めて汁ごと冷蔵庫でしっかり冷やした「冷やしおでん」を作ろうと彩りの良い野菜を帰宅途中のスーパーマーケットでいくつか選んできた。
中玉のフルティカトマト、丸オクラ、山形県産の小茄子、万願寺とうがらし、紫玉ねぎ、日本かぼちゃ。
卵は半分に切った油揚げの中に落として巾着にし、とりむね肉をたたいてみじん切りの九条ネギとみじん切りショウガと合わせてつくねにしたものも具材にする。
冷蔵庫で味をなじませている間、香りのとても良いフルーツローズの花びらを木かごの中で乾燥していたものをサンルームに取りに行き、ローズウォーターも作る。
乾燥花びらはガーゼの袋につつみ、銅製蒸留装置の釜に入れて、抽出用の水や冷却用の水をセットして電源を入れた。
オーディオセットのスイッチを入れて、ビル・エバンスのアルバムAloneを室内に流す。本当に透明で柔らかい音。音はどこまでいっても濁らない。
どうして今日に限って手順を間違えてしまったのだろう。今日の実験プロトコルを頭の中で追いかけてみる。ぴんと張っていた心の線が1つ1つ緩められていく。
やっと落ち着いてきたので緑茶を淹れる。台北永康街の宜龍[EILONG]で購入した一人用の茶器を客家花布の巾着袋から取り出して、お盆の上にセットした。青みがかった厚めのぼってりとした白磁気が手になじむ。
熱湯を茶碗に注いで手で包めるくらいまで冷ます。
茶葉をティースプーンで山盛り1杯急須に入れて65度くらいまで冷めたお湯を茶碗から急須に一気に注ぎ入れ、ふたをして60秒ほど待つ。
茶碗に一気に注ぎ入れる、最後の一滴まで。素晴らしく冴えた緑色の水色とふわっと立ち上る花香。そのあとに来る滋味、うま味がとても好ましい。
「萎凋したときとは違う金属的な花の香り・・・」
花様の香りを嗅ぐと少し立ちくらみのようになる。何かひっかかっている記憶。すぐにその感覚はなくなり、蒸留の様子を見ながら、冷蔵庫から冷やしおでんを出して、サンルームに運び、花をながめながら食べ始めた。
(2)七月 納涼会と心の揺れ
勤務先の上司の研究室長は四宮という男性だった。
見上げるほどの偉丈夫で素晴らしく整った顔立ちで、母親が東欧の方だという。
濃いブロンズヘアで吸い込まれそうな少し紫がかった冴えた瑠璃色の瞳を一度見たら忘れられない。ラピスラズリのように金色も少し混じっているようにも見える。
会社の中でも大変信頼されており、穏やかで手際よく正確に仕事をする姿はとても好感がもてる。仕事に真摯に向き合い、そのことでは結構上司や部下と熱い議論を戦わせる一面も持っていた。
仕事には一切妥協はなかったが、部下には大変優しかった。
そのような四宮から、桐子はよく、もう少し同僚とも交流したらどうか、とかもう少し肩の力を抜いて笑うことも必要だよ、と言われていた。同僚は優しかったが、その交流の少なさから誤解されやすく、単調、面白みがない、根暗などと言われることがあり、そういったほんの少し棘のある言葉も感情の感じにくい桐子の心に刺さることはなかった。
高校生のときに両親を亡くしたこともあり、そのまじめすぎる性格からも同僚たちとどう親しんだら良いのか正直わからない部分も多かった。
その日も帰ろうとする桐子に四宮はこれからみんなで納涼会をするので一緒に行かないかと誘った。
「せっかくの機会なのだから、もう少しみんなと話すことも桐子には必要だと思うよ」といつもにまして強く誘うのだった。桐子はそれならば、とトートバッグを持ち直して四宮にしたがった。夕方になってもじりじりとした暑さで、皆、汗だくだった。
研究室の研究者や事務員は、めずらしく飲み会に参加した桐子に興味を持っていた。桐子の趣味、好きな食べ物、住んでいる家の間取り、あげくには四宮がいつも桐子にばかり目をかけていることのちょっとした不満。
桐子はこんなに私はみんなと交流していなかったのか、と改めて気づかされた。一人で花を眺めながらお茶を楽しむことはとても落ちつく。
薬草や花の手入れ、バラの摘み取りもとても好きな時間。でも同僚や上司と踏み込んだ話をすることも、心にさざ波が立つような新しい感情がわき上がってくることを知った。
全て1人でこなし、過ごすことに慣れすぎていたのかも、そのようなことを始めて思ったのだった。
ざわざわした落ち着かない気持ちだがいやなものではない。一滴大きな水滴が心の中に落とされて、それが静かな水面に同心円状波紋を形成した。
ぽつ、ん。さわさわさわさわさわ。
水滴の落ちる中心には自分がいる。
私は黙って膝を抱えたいのか。笑いたいのか。泣きたいのか。
このような私を仲間はどう思うのか。なぜわたしはいつも一人なのか。
「扶桑さん、ほとんど何も食べてないし、飲んでないじゃない。せっかく会費払っているのにもったいない。」向こうから威勢良くやってきた先輩の山名から突然声をかけられてびっくりした。
それほどに、みんなと話をすることに夢中になっていた。少し暗い感じでとっつきにくい人だと思っていたがそんなことはなく、単におとなしく、恐ろしくきまじめで、話せば話題の豊富さに驚かされる人だと仲間たちはそれぞれに思っていた。
そんな桐子を四宮は優しい目で眺めながらビールを飲んでいる。
「四宮室長って本当に桐子さんをいつも気にかけていますよね。」庶務係の栗田夢が四宮に話しかけた。「桐子は何でも1人で抱え込んでいるから心配なんだ。家族もいないしね。」
栗田は桐子に家族がいないこと、高校のときから1人で暮らしていることは知っていた。
「本当にそれだけですか?」
独身の四宮は会社の中でも異質なほど美男だった。モデルか俳優と間違えられることも多く、これで、頭脳明晰ってあり得ないだろう、そんな人から気にかけてもらえるなんて、と栗田は桐子に少し嫉む気持ちをもって言った。
「そうだよ。とても心配なんだ。もう少しみんなと交流して、1人で抱えているものが軽くなってくれないかといつも思っている。」そう言いながら、四宮はまた優しい目で桐子を見る。愛おしくて仕方ない慈愛に満ちた目で。
納涼会も終わり、それほどの距離でもないが、同じ方向なので乗りなさい、と四宮に言われて、桐子はタクシーに乗り込んだ。四宮はビールの影響か、白い肌が少し上気し、瑠璃色の目の奥も少し赤っぽく見えた。赤の部分は光の加減で古代の文字のように見えるのが不思議だった。
その瞳をじっと桐子の瞳に合わせるようにのぞき込んで
「桐子は何か悩んでいるの?」そう切り出された。
「いいえ。少し自分の中に閉じこもり過ぎたかなと思いました。研究以外のことで皆さんと話して、本当に私のことを知っている人がいないんだな、とびっくりしたところです。穏やかに暮らすのに慣れていて、それもとても好きなのですが、それだけで良いのだろうか、もう少し沢山のことを皆さんと話して、皆さんがどんなことを考えているのかを知る必要があるのではないかと思いました。」
「良い変化だね。」
「先日、蒸留したローズウォーターを小瓶に詰めて、今日の記念に皆さんに差し上げようと思いますがいかがでしょうか」
「それは素晴らしい。桐子が作ったものだったら研究室のみんなはとても喜ぶと思う。是非配ってほしいな」
「はい」ちょうど桐子の家の前にタクシーが到着し、桐子は四宮に丁寧にお礼を言ってタクシーを降りた。
「少しは刺激になってきたようだ。次はどう仕掛けるか。」ぼんやりと外を眺めながら四宮はつぶやいた。
(3)九月 自宅での重陽の節句
今日は9月9日、重陽の節句。
夜には美しい月が見られるという夕方。
桐子は重陽の設えと食事を楽しむ。
菊の模様の着物を着た陶器の高砂人形を出窓に飾り、菊の文様の皿を重ねて使う。
室内に流すのはマッコイ・タイナーのSatin Doll。
土曜日ということもあり、桐子は研究室の人に重陽の節句に来ないかと声をかけていた。
都合がついたのは四宮室長と女性の研究者2人、山名純と大崎春。
四宮は鍵善良房の練り切り「着せ綿」をお土産に持ってきてくれた。
お食事は、栗ごはん、菊花をあしらった葛椀、秋茄子の含め煮鶏そぼろのせ、食用菊のおひたしを菊の文様の皿に盛り付ける。
日本酒は静岡の雄町開運と奈良の風の森。赤磐の雄町米を55%に削った純米酒と奈良の秋津穂を極限まで磨いた純米大吟醸。
開運はどこまでも柔らかく水のよう。ふくよかで重たくもない。
風の森は口に含むと次々と沸き立つ炭酸ガスの泡と果実香が軽い酔いをもたらす。森の中というより森から出た草原が目に浮かぶ。どこの草原なのか。古い時代の装束の女性がこちらを背にして静かに立っている。大袖の衣が風にあおられてひらひらと舞う。何を見ているのか。泣いているのか。静かに 静かに泣いているようだった。
桐子の思惑通り、四宮は開運が、山名と大﨑は風の森が大変気に入ったという。
器や盛り付けを楽しむ料理と割り切って、沢山の種類は用意していなかったのだが、酒も進み、十分に楽しんでもらえているようで、桐子はほっとした。
着せ綿を味わうために、今日のお茶は「いなぐち」。
深くて清涼感のある若葉の香りと強い旨味があるのに爽快感もある。
低温、高温を使い分けて2煎しっかりと味わう。
青い若葉の香りはどこまでも爽快だ。
山名と大﨑は、イングリッシュガーデン、この家の雰囲気、そして重陽の設えが大層気に入ったようで、
「表門からのギャップがすごい。
和洋入り乱れているのに全く違和感がない。
こんな都会の真ん中にこんなに素敵なイングリッシュガーデンがあるなんてびっくり。
料理も日本酒もお茶もお菓子も半端なく美味しい、お料理とお茶だけでお店出せるよ。」などと騒いでいる。
四宮はそのような様子をながめて「桐子。研究室になじんできたね」と嬉しそうに話しかけた。
「みなさんと一体感をもって研究ができるようになってきました」
心は、自分で育てるものでもあるが、人とのふれあいでもめまぐるしく変化していく。今日感じた気持ちは確実に心に影響を与えている。
桐子はとても開放的な気持ちになって、ローズガーデンを案内するのだった。
(4)十月 神在月
「天土の初の時 ひさかたの天の河原に八百万 千万神の神集ひ 集ひ座して神分ち 分らちし時に 天照らす 日女の命 天をば知らしめすと」
出雲の神議。旧暦の十月に八百万の神々が出雲にあつまって縁結びなどの“神議り”を行うという。
桐子はめずらしく出張を命じられて、10月の終わりに出雲空港に降り立った。
大根島の雲州人参の栽培現場を視察する。
四宮室長からは出雲大社は少し遠いので行くのはお薦めしないよ。と言われていたのだが、こんな機会は滅多にないので、神迎の神事にまつわるものに触れてみたいと強く思っていた。
タクシーを1日借り切って回れば充分行ける距離だ。ただし、実際の神事は11月なので、神事を直接見るわけではないが。
大根島では栽培年数の異なる雲州人参を見せてもらい、成分の抽出用に少し送ってもらえないか頼み込んで交渉は成立した。相対取引なのでほとんど売り先が決まっているのだが、今年は少し余裕があるという。
その足で出雲大社に急いだ。神在月に神々が訪れるという稲佐の浜から大社への道を見てみたい。4つの鳥居をくぐって、神様のお宿という十九社を見てみたい。夕方の時間になり黒々とした大社の森がしんと静まりかえっていた。
「ひさかたの天の河原に八百万 千万神の神集ひ」万葉集の柿本人麿長歌を口にすると、がやがやとうるさい声が響いてきた。
人の影はないが、ゆらゆらとした影が漂っている。さーっと暖かい風が吹いてきて桐子の周りをくるくると回る。だれかが話しかけるかすかな声も聞こえる。
人はだれもいないのだが、人外がそこにいるような、不思議な空間。
ゆらゆらした影は桐子の回りをくるくると回る。
「不思議。これが神様かしら。」桐子が声をあげると、影はさらにもやもやと形をとろうとする。
ふいに砂利の音が響き、神主らしき人の影が近づいてくる。
その音が近づくにつれ、影やざわめきは次第に薄れていった。
だれかに話しかけるようにぶつぶつとつぶやきながらこちらへやってくる。それとともに、聞こえていたと思ったざわつきもうそのように静かになってしまった。
「こんばんは」近づいてきた男性が静かに声をかける。
「こんばんは」桐子も少し会釈しながら答える。
「いかがですか。神様のお社は。」「素敵なところですね。心が自然と静まって、本当に八百万の神様に見守られているような気持ちになれます。」
「それは良かったです。ただし、本殿にお参りされるのでしたら少し急がれた方が良いですよ。」
「はい。ありがとうございます。」
神在月というくらいだから、本当に八百万の神かしら、思ってみるが、なぜかとても懐かしい気持ちが満たされてきて、桐子はその場に立ち止まるのだった。
何だったのだろう。本殿を足早にお参りして帰りのタクシーに乗り込んだあとも、何か落ち着かない気持ちがした。
次の日、出張の報告をすると、四宮は、出雲大社にも行ったのか、と聞いた。桐子は少しすまなそうに、「今まで行ったことがなく、神在月の大社に興味があったので行ってみましたが、神事にはまだ早かったです、大きな静かな森と社だけがある荘厳な空間でした、無理して行かないようにと言われていたのに、守らなくすみませんでした。」と話した。
四宮は、「時間があって行かれたのは良かったね。でも神事を見ることは出来なかっただろう。残念だったね。」と静かに言った。
四宮の瑠璃色の瞳がなぜか光り輝いていた。桐子は、「神迎の神事の前でしたが、とても懐かしい感じのする雰囲気がありました。神様たちが歓迎してくれたのかもしれません。」というと、四宮は、「それはそうだろう、桐子をとても歓迎していたのだと思うよ。」と優しくつぶやいた。
桐子は、次の日の土曜日に、松江で買ってきたお菓子と特別のお茶を淹れますので、と四宮をイングリッシュガーデンに誘い、庭の手入れをしていた三条も誘った。四宮と三条はこのガーデンで数回会っただけだがとても仲が良い。昔からお互い知っているのではないかというくらい息があっている。しかも2人とも、お茶を淹れる桐子の顔を優しい瞳でじっと見つめている。
今日は口切りの茶。さえみどり、おくゆたかをブレンドしておいた。五月に詰めて低温で保存していた小さな茶壺の口封を切って茶葉を出し、70℃のお湯で丁寧に淹れる。
後熟した香りと品種特有の甘みを心ゆくまで楽しむ。
重厚でビロードを思わせる香り。
しかし、たまに感じる風景は浮かんでこない。
不昧公が愛した桂月堂の若草を食べながら滋味と香りをじっくり楽しむ。
三条が、青葉の香りが抜けて重厚な香りのお茶ですね。これがエイジング・アロマですか。
半年、低温で寝かせておくだけでこんなに素敵な変化をする。植物は素晴らしい力を持っていますね。と興奮したように一人でしゃべっている。
四宮は、独り言で八百万の神々も残念がっているだろうな、と二人には聞こえないくらいの小声でつぶやいた。
(5)十二月 クリスマスを祝う
千歳経る松だに朽つる世の中にけふとも知らで立てるわれかな
(千年の松でも燃え朽ちる無常なこの世の中に、立っている私よ)
かそふれば わが身につもる年月を 送り迎ふとなにいそぐらむ
(数えてみれば、ただわが身に積もる年月なのに、それを送り迎えると言って、人は何をそんなに急ぐのであろう)
【冬ごもり 茶をのみをれば活けて置きし 一輪薔薇の花散りにけり】(正岡子規)
人ははかない。年の瀬にはそれを特に強く感じられるようになる。
止まることのない時の流れを考えると、人の生き死にさえ単なる点になってしまう。
そんなことを深く感じさせる12月。
四宮室長から教えてもらった、ヨーロッパ、特にドイツを中心としたクリスマスの楽しみ方であるアドベント。
先日、研究室のみんなで一息いれているときに、その楽しみ方を聞いた。
桐子は、それに触発されて、アドベントクラウンとアドベントカレンダーを手作りした。
赤色のタペストリーに24個の小さなポケットを付け、そこにお菓子、小さなメダイチャームや指輪などを入れていく。
「クリスマスへの期待が高まって、12月をたっぷり楽しむことができそう」桐子は思った以上にわくわくしている自分に驚いていた。
アドベントクラウンには1週目のろうそくを灯した。
インターネットで見つけたべツレヘム聖誕教会への旅行記を読みながら、先ほど手作りした熱々のマサラチャイを啜る。
カルダモン、クローブ、シナモン、生姜を丁寧につぶして煮出した熱湯に粒状のCTC紅茶を煮立てて、牛乳を加えるだけでとても本格的な味になった。
これはしばらく続けて飲んでしまうかも、桐子はぼそっとつぶやいた。
写真の教会も一回訪れてみたいと思うほど素晴らしい。
静かな光のあたる側廊。
14芒星の上につるされた金の振り香炉。光と影が長い時を静かに告げる。
どこまでも静謐で、張り詰めた空間。
「いつか行くことはあるのかしら」桐子は深く息を吐いた。
アドベントカレンダーの最後のポケットからメダイを取り出した朝、桐子は、ルーマニアのクリスマスケーキ「コゾナック・デ・ヌチ」を焼いてみた。
イタリアのパネトーネに似たイースト発酵卵パン。
すり下ろしたクルミが入ったクリームの入っていない甘いケーキである。
ヌチを焼きながら、今まで楽しみにしていたトマトソースを1日かけて作ることにした。
みじん切りの玉ねぎ、セロリ、人参、にんにくをたっぷりのオリーブ油とともに厚手のパンでじっくりと炒めてソフリットを作る。焦がさずに濃厚な香りのする茶色の調味料を作るのに1時間以上かかった。
イタリアのサンマルツァーノ種のホールトマト缶を鍋にあけ、じっくりと煮詰めていく。サンマルツァーノはリコピンが多く真っ赤で、グルタミン酸も豊富に入っているのでうま味が濃い。
先ほど作ったソフリットと塩を入れてゆっくりと煮詰めていくだけでなぜこれだけ深い味になるのだろう。
今日はこのトマトソースを、片栗粉をまぶして焼いた鶏もも肉の上にたっぷりかけることにした。
アドベントクラウンに5本目の白いろうそくを立て、それに火を灯すと、四宮が嬉しそうにプレゼントを抱えてごちそうを食べにきた。
四宮はアドベントとともに、貧しい三姉妹の家に金貨を投げ入れたセント・ニコラウスの話もし始める。
貧しくてお嫁にも行かれない三姉妹の話を聞いたセント・ニコラウスは、マントと頭巾で体を隠し、三姉妹の家の窓から金貨を投げ入れたところ、暖炉脇にかけていた靴下の中に入ったというサンタクロースの起源の伝説だった。
「でも、セント・ニコウラスはたくさんいて、本当にそのようなことがあったかもわからないけれどね。」と一言添えて。
四宮は、鶏のトマトソースがけもヌチも大変気に入ったようで、緑色の瞳をきらきらとさせた。
トマトソースをすくって食べると酸味がある水っぽいソースではなく、どっしりとして甘みの強い濃厚な味わいに驚く。鶏肉に合わせているのに、ちっとも鶏肉にたどり着けず、トマトソースばかり食べているので、皿の上でカットした鶏肉がごろごろと浮き出てしまう。
桐子は慌ててソースをかけ直す。「鶏肉と一緒に食べて下さいね。」と言いながら。
四宮は、鶏肉を食べ終わって、ヌチを一口入れてまたびっくりする。やはり、コゾナックはヌチ(胡桃)が美味しいと甘いケーキをかみしめる。
「こんな美味しい料理を桐子に作ってもらって食べられるなんて、最高だ。」
四宮が桐子に持ってきたプレゼントは、オルゴールツリーだった。
白い雪の中を小さな汽車がクルクルと回りながら、クリスマスソングが賑やかに流れる。
静かな部屋が急に賑やかになって、それを置いた机の上がぱっと明るくなった。
「まあ、素敵なオルゴールですね。」桐子は目を細めて回るクリスマストレインを飽きることなく眺めていた。
はかない気持ちでいた12月が一気に華やいだ。
(6)一月 小豆の薬効
七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬ先にストトントン
正月の行事が一段落ついて、今日は人日の節句。
せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、雑穀米を使った七草粥。
桐子は、前夜叩いた若菜を土鍋にいれて水、雑穀米、ひとつまみの塩を入れてじっくりと火を通した。
七草粥と、15日にはちょっと早いけれど、と、白小豆ぜんざいを作ったので食べませんか。と、桐子は庭の手入れをしている三条に声をかけた。
白小豆をつかった白ぜんざいが突然食べたくなって、週末に食材を扱っている専門食材店で「きたほたる」を買ってきた。水に10時間浸して茹で、ゆで汁をすてて丁寧に流水で「渋切り」する。水を入れて差し水をしながら、柔らかく炊いて何回かにわけて、てん菜糖を入れる。
甘みはかなり抑えた。
三条が鏡餅を適当な大きさに割ってくれたので、これを焼いてぜんざいに沈める。
お茶は加賀棒茶を淹れる。熱湯を注ぐだけで2エチル3,5ジメチルピラジンや2エチル3,6ジメチルピラジンの焙煎香が部屋中に広がる。
その中にも甘い香りが混じっていてとても落ち着く香りだ。
七草粥、白ぜんざいをそれぞれ木腕にとりわけ、棒茶をどっしりした湯飲みに回し注ぎする。
早速食べましょう。と、それらを三条に渡した。
「七草粥は雑穀なのでプチプチとした食感がとても良いですね。それと白ぜんざいはとても上品ですね。とがったところがなく、すっと入ってしまう。焼いた餅の香りと、またほうじ茶の香りがとても良くなじみます。これはごちそうですね。」三条は目を細めて喜んだ。
「桐子さんは、本当に何でも器用に作られますね」
「レシピ通りに作るだけですよ」
小豆と言えば、と三条は話し始めた。
「古事記ではスサノオに殺された大宜都比売オオゲツヒメから生まれ出たとされるくらい古い食材ですね。世界中に神様の死体から植物や食材がうまれる話がありますよね。そういったものの1つでしょうか。」
「栄養価が高いからでしょうか。」と桐子がつなぐ。
「小豆の煮汁は漢方薬で解毒剤、利尿剤、排膿剤として使われるとか。ポリフェノール、サポニン、カリウムが多いからですね。神農本草経にも記載されていますし、日本でも薬として使われてきたようですから。水分代謝が良くなるということで。昔から小豆のような食品は身体を作るとともに身体を整えるものとして使われてきたのですよね。」
三条はそれに続けて話し始める。
「小豆は本当に古くから食べられていたのですね。この前呼んだ本に書いていました。魏志倭人伝によると、1800年前の弥生時代、卑弥呼がいた邪馬台国は80歳まで生きる長寿国だったとのこと。その頃には魚介類を発酵させた塩辛、醤ひしお、口噛み酒、なれずしなどの発酵食品がすでにあって。卑弥呼が食べていたのは、主食は玄米、粟、小麦、大麦、きび、ヒエなどを蒸した強飯、ダイコン、カブ、ゴボウ、フキ、ウリ、タデ、ノビル、みつば、せり、ヒョウタンなどの野菜・山菜、また獣肉や魚肉を一緒に煮込んだ汁物である菜茹、副食に鱠の刺身や塩焼き、干物、ワカメやアラメなどの海藻の熱汁、山菜の塩茹でや塩漬け、茹でた大豆や今日の小豆、サトイモ、桃、柿、梅、スモモ、山ぶどう、マクワウリなどの果物、クルミ、栗、栃、榧などの木の実、果実酒などだそうです。たくさんの食材を使って、とても健康的な食事だったのですね。それと、豪華な食卓の様子が想像できます。そのような食材を2000年たった今、こうして私が食べている、それはとても意味のあることだと感じます。」
本当だ。弥生時代の食卓の様子、そして卑弥呼たちが目の前に現れたような気がして、どうしてだろう、とても暖かい気持ちがする。
(7)三月 木之花咲耶姫(桜)古事記 桜―神話
今年も桜の開花が早まるという。はかない美しさの代名詞である木花之佐久夜毘売、そして桜。
三条に桜がもう終わりそうですよ、と言われていたので、桐子は、帰宅する途中の浅間神社にふらっと入っていった。
神社を入ったところに、柳の木が一本植えられていた。その横に1つの木碑があり、柳の精霊の物語が標されていた。
村の娘が想いを通わせたのはどこからか来た男。
夜にやってきては都のことや知らないことをたくさん話してくれる。
始めて会ってから2年たった初秋。
男は娘に別れを告げた。
自分は隣町の川縁にある柳だという。
都に送られるため川縁の木が全て切られることになった。
もう来られない。
今までの礼を言い、あなたのことは忘れないと言うとかき消えた。
娘は泣いた。
そして、柳の木のもとに向かった。
木を切る男たちは困っていた。
柳だけがなぜか切り倒せないという。
娘は柳に触れながら慟哭した。
その後は何事もなかったように柳の木は切り倒された。
娘は柳を少しもらい受け、それを小さな聖観音菩薩の彫刻にしてもらい、日々手を合わせて供養し、男を思い続けた。
妖と人のはかない出会いと思い出。桐子は、胸にずしんとした痛みが走るのを感じた。この痛みはなに。共感なのか。悲しみなのか。
その先を進むと、ご神木として見事なエドヒガンザクラが1本あり、満開の乙女色の花々がライトアップされて、闇夜の中に妖艶と浮かび上がっていた。
かなりの数の人がいて、あまりの美しさにみんなぼおっと桜を見上げているのだが、なぜかしんと静まりかえっていた。
威風堂々とした樹齢の進んだ桜の力なのか。
木花之佐久夜毘を使はさば、 木の花の栄ゆるが如栄え坐さむ、独木花之佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御寿は、木の花の阿摩比能微坐さむ 古事記の一節をつぶやく。
風も吹いていないのに、花がくるくると舞いながら散っていく。
静かに 静かに 静かに。
たまたま外に出てきた宮司が桜の下に立ち尽くした桐子を見かけてふと思う、木之花咲耶姫のようだ。
手の平に数枚の乙女色の花びら。桜ははかない。
花だけを華麗に咲かせたと思ったらあっという間に葉だけになる。
花散る姿に胸が締め付けられる。
散るために産まれてくるもの。
人間たちも同じ。100年もたてばいなくなってしまう。
桐子の両親は45年生きたところで突然の交通事故であっけなく死んでしまった。
不思議と両親を思って泣くことはなかった。
しかし、人間たちの命のはかなさを思い、妖と人の出会いを思い、散りゆく花を思ったとき、突然頬を伝う熱いものに驚かされた。
どうして涙が出てくるのかわからない。どうしようもない寂しさで人や花を思って初めて流した涙。胸を突き上げる静かな激情。
気づかないふりをしてきた。気づいたらいけないと思っていた。心の奥で気づいていた。
泣いてもいいのだと。みんなと共感していいのだと。
はかなさをほかにもいはじ 桜花咲きては散りぬ あはれ世の中
涙を落としながら立ち尽くしていた桐子の横にはいつのまにか現れたのか三条が立っており、白いハンカチでそっと涙をぬぐった。
「美しくて儚いですね。桐子さんが泣くのは初めて見ました。桜に感動しましたか」
桐子は言葉を詰まらせながら、「桜や人や生きているもののはかなさに胸が締め付けられて。
人はもろい、でも美しい。そのはかなさをどう受けとめたらいいのかわからなくて。」
「何かに心動かされて、表現できることは素晴らしいことです。良い傾向ですね。」
三条は桐子に向かって翠色の瞳をきらきらさせながら、にっこりと笑った。
そんな三条はライトアップされた光を後ろに受けて本当に美しく見えた。
その時、背中に大きな真っ白な羽が見えたような気がしたのはこの場のせいだろう。
三条の金髪に花びらがいくつもいくつも積もっていくのだった。
(8)五月 覚醒
土曜日の午前中。朝早く目覚めてしまって、イングリッシュガーデンへの水やりや洗濯が終わって一息ついたところだった。
今日は、花香と果実香が素晴らしいと台湾茶専門店で勧めてもらった阿里山烏龍茶を楽しもうと考えている。
ガーデンでは三条が新しい花の苗を植えている。
今日はこれから来客がある。
先ほど電話がかかってきて四宮室長がこちらに来るということだったのでそれは想定していたのだが、驚いたのは香坂社長と常木研究本部長が一緒に来られたこと。
イングリッシュガーデンの小径からサンルームに3人が入ってきた時にはあっと声を上げてしまった。
社長はせかせかとしゃべった。
「扶桑さん、おじゃまするよ。お休みのところ申し訳ない。扶桑さんが見つけたフラボノイドの効能が素晴らしくて、あの特許出願するといって発明審査会に出してきた物質。君が使ったその植物を実際に見てみたくて四宮くんをせかして来てしまった。とても素敵なところに住まれているんだね。この素晴らしいイングリッシュガーデンに植えられている植物なのか。今回見つけた成分を持った植物は。」
「社長、本部長、室長。このようなところまで、ようこそいらっしゃいました。今回、使ったのはイカリソウです。こちらにございます。」と言って桐子はローズガーデンの手前の畑に案内した。
ハーブとともに気になる薬草を植えているエリアだ。
薄紫色の四爪錨型の花が咲いている。
「これが成分スクリーニングに使ったイカリソウです。通常は茎葉を使うのですが、花を集めてエタノール抽出してスクリーニングに使ってみました。」
その横に咲いているシオンの薄藤色の花、キキョウの本紫色の花、クズの牡丹色の花を見て本部長が首をかしげる。五月に咲く花だったか?
「こちらの花の時期は今ですか。というか全ての植物がどうしてこのように咲いているのか」本部長は不思議そうに頭をふった。
庭の手入れをしていた三条がにっこりとほほえみながら言う。
「この庭は不思議なんです。四季関係なく花が咲いているんです。私の手入れが良いのでしょうか。場所のせいなのでしょうか。」
そんなことがあるのか、とまだ不思議そうな本部長。
せっかくいらっしゃったのですから、とガーデン散策を切り上げると、桐子はサンルームに皆を案内する。
「三条さんも一区切りつけてご一緒にどうぞ。せっかく社長や本部長もお見えですので、今日は先日、台湾から送ってもらった烏龍茶を淹れますのでお休み下さい。
高山茶である嘉義縣の阿里山茶です。桃のような甘い香りが特徴的だそうですので聞香杯を使って楽しんでいただきますね」
大きなヨーロピアンアッシュ天板のダイニングテーブルに台北猫空[Taipei MaoKong]の邀月[YaoYue]茶坊で買い求めた茶器セットを置く。
茶盤に道具を並べ、茶壺には深い緑色に丸まった阿里山茶を入れる。
龍の目が沸いたやかんから熱湯をたっぷり注ぎ一煎は茶海にあける。
熱湯をさらに注いでふたをして茶海の一煎を上からかけて蒸らし、茶漉をセットした茶海に一気にあける。
暖めておいた聞香杯に八分目ほど注いで小さな茶杯をかぶせ上下をすっと反転して茶杯に浸出液を移したら、5人分の聞香杯を並べて皆に勧めた。
「どうぞ。こちらの聞香杯を左右に振った後に手でふたをして花の香りを楽しんで下さい。
その後でこちらのお茶もお飲みくださいね」
みなはそれぞれに聞香杯を手に取り、勧められた作法で香りを楽しむ。
「烏龍茶ってこんな香りなのか」
「素晴らしい香りだ」
「重厚なフルーツのような香り。危ないね。」
「この香りは覚醒させてしまうかも。そろそろ1年だ。」
桐子も聞香杯を手に取ってすーっと香りを吸い込む。
この香り。揺青をともなった萎凋で発揚するジャスミンやバラのような花の香りと若葉の香りが良く調和した優雅な佳香。ネロリドール、ジャスミンラクトン、ジャスモン酸メチル、リナロール誘導体、βイオノン、青葉アルコール(シス-3-ヘキセノール)。
このとき、ぐらっと視界が揺らいだ。
三条が倒れかけた桐子をぐっと支えて、「ツァン、だめだ。時間切れだ。少し早かった」と少し緊張したように言葉を発した。
香坂と常木は慌てている。
三条は、四宮に「この2人を」というと、四宮は香坂と常木に向かって柔らかな口調で、
「すみません。ここで見たことは忘れて頂きます。でも、特許の内容は置いていきますので、ご自由にお使い下さい。私と桐子はいなくなりますが、会社は変わらず今のままですので」というと、にっこりとほほえみながら転移の魔方陣を撒くと、2人を会社の社長室に転送させた。
桐子と三条、四宮の記憶を消して。
そのとき、四宮の瑠璃色の瞳が妖しい光を放ち、唇が血を吸ったように紅く見えた。
ああ、3000年前に西双版納の少数民族ハニ族の男性が大茶樹の若葉から作ってくれた、木陰で少し萎凋させたお茶の香りだ。これは、あるとき1人の若者が摘んだ葉を木陰に置き忘れてそれを炒った時に素晴らしい佳香をはなったものを自分用にこっそり作っていたものを受け継いだという。
男は何も言わずに、少し背を丸め、欠けた土器に炒った萎凋葉を入れ、茶に熱い湯を注ぎ、それを差し出してくれた。あのときの香りだ。
烏龍茶のような半発酵茶が誕生したのは明朝(1630年頃)と言われているので、大茶樹の茶葉で作ったお茶とは違うのかもしれない。
部屋の中の景色とぼんやりした大きな樹がゆらゆらする景色が重なっていき、桐子はすべてを思い出したのだ。
キリはデミウルゴス。デザイナー、アーキテクト、創造主ともいう。
物質世界、精神世界2つの次元を管理している。
ただし、もうどう世界を創ったのか、もしかしたらだれかが創った世界を引き継いだのかさえ忘れてしまうほど永いあいだ、世界樹ユグドラシルのそばで2人の調整者(天使長ラネルと四神である青龍ツァンロン)とともに、世界中にあふれる声を聴き、その願いをかなえ、魂の転生を行ってきた。世界の声を発するのもキリの仕事だ。
それがわかった瞬間に桐子は本来の姿に戻っていた。
青みがかった銀髪の長い髪。真っ白な陶器のような肌。透き通った金色の瞳。少女のようだが中性的な顔はきらきらと輝いていた。
ゆったりとした衣服をまとった恐ろしく整った顔立ちの二人が嬉しくて仕方ないと言った表情でキリの前に跪く。翠色の瞳のラネルと瑠璃色の瞳のツァン。2つの瞳が揺れている。
「キリさま。お久しぶりです。癒やしの時間はいかがでしたか。」
「マイマスター。おかえりなさいませ。香りの記憶があなたを呼び起こしましたね。」
期限の1年が経ったのだ。
「ラネル、ツァン。素敵な休暇でした。」キリはにっこりと2人にほほえみかける。
「我々の力ではキリさまの記憶操作するのは1年が精一杯でした。お疲れを癒やすためにもう少しと考えましたが、一瞬の癒やしになってしまいました。」
「マスターの代わりは他にはだれもいないのです。マスターに笑顔が戻ってきたことは本当に本当に嬉しい。」
魔物や人間、エルフ、天使、妖などの、存在しているものすべてを大事にしたいキリ、願いを叶え、祝福をし、自分を残して次々と転生していく魂、心核、根源。
人間は100年、小さな魔物は500年。
あるとき、この世界に形のない黒紫色のかげろうのような邪悪な物体が現れ、沢山の魔物たちを塵にした。
多くの魔物が塵になり、キリはそれを別のものに転生させ続けた。
そのとき、幼なじみのような魔王ユウリを失った。
記憶をつなげれば良いのだが、よほど魔力や心の輝きが強大なものでなければ記憶は引き継がれない。
たくさんのことを語り合った記憶はキリの中だけにどんどん貯まっていった。
そしてどんどんと表情は失われていった。
いつまでも終わることのない「務め」、替わることのできない「務め」。
魔物と人間が争ったときも、今回の異形のものがおそってきたときも、手を下せる力を持っているのに手を出せない。
きっとそんな状態に疲れ切ってしまったのだ。
遠い昔はもっと皆の言葉を聞いていたはずなのに、語りあうことも止めてしまった。
怖いのかもしれない。
せっかくつないだ記憶も引き継がれないから。
創造主と呼ばれる者なのにおかしなことだ。
そもそも私はどうしてここにいてどうしてこんな「務め」をしているのだろう。
存在意義もわからなくなったキリはラネルとツァンの呼びかけにも応えなくなった。
他の魔王である竜種のバロルやドライアドも心配して顔を見に来てもぼんやりして「務め」を続けているだけだった。
ラネルとツァンは、他の魔王たちとも相談してキリを休ませることにした。
期限は1年。
キリの代わりはいないので1年間の「お務め」はそのまま貯めておくことにした。
休暇先は魔素の少ない人間だけが住む世界にした。
人間たちの住む町に架空の記憶を紛れこませた。
キリには桐子としての架空の記憶と今までのことを期限付きで忘れる簡単な記憶操作を行った。ツァンとラネル、1人1人ではキリの力にはとうてい及ばなかったが、調整者としての2人が同時に力を使うことで操作ができた。
会社も桐子の家も実在している。
ラネルがこだわったのがイングリッシュガーデンとイギリス式のサンルームとキッチン。
最初の1ヶ月は穏やかに過ごさせていたが、ただ単に1年を過ごさせてはいけないと、2ヶ月目から積極的に人間たちに関わらせようと画策したのだ。
桐子はだんだんと表情を取り戻した。
人間たちは終わりを知っていて自分たちの思い通りを生きている。
人々の想いを聞くことを心から好ましいとまで思い、そのはかなさに共感して涙するようにまでなったのだ。これは大きな変化だった。
キリ、ラネル、ツァンは関係する人たちの記憶を操作して、世界樹ユグドラシルのそばに戻ってきた。
どこにいてもキリにとっては関係ないので、あの屋敷だけはそのままいつでも行かれるようにした。ゲートはイングリッシュガーデンの中に置いた。
キリの世界では、時間、空間、次元は関係ない。
ツァンたち魔物が魔力、霊力とよぶような力も制限はない。
宇宙、無限が自分の中にあるのだから当然のこと。
短い休暇は終わってしまったが、心にできた波紋はずっと共鳴していた。
「マイマスター、あなたの行っていることは私たちがずっと見てきました。
あなたが魔物も人間も存在するものみなを本当に愛していることを知っている者がここにいます。」
ツァンが瑠璃色の瞳をきらきらさせながら、静かに言う。
「マイマスター、まじめすぎるのも考えものですよ。
胸の奥がどくんと波打って一瞬苦しくなった。目の奥が熱くなった。
私には「永遠の思い出」がある、私を過ぎ去っていったすべての思い出が。
無理する必要はなかったのだ。もっと自然に思うままに過ごしてくれば良かったのだ。
異形のものを無に変えてしまっても良かったのだ。
みなのために怒っても泣いても良かったのだ。
感情を放つことを止める必要はなかったのだ。
無理をして思いを閉じ込めて孤高である必要はない。
仲間たちに相談し、仲間たちと楽しく過ごせばいいだけだったのだ。
私はたまたまここにいるだけ。
ああ、どれだけみんなを愛していたんだろう。
しっかりと自分の務めを果たさないと。
待っている者たちがいる。
キリは1年分貯まった願いと転生のお務めに手を付けると息もつかぬ早さで進めていくのだった。
この世界に存在しているすべてが、それぞれに輝いてその時を過ごせる環境を作るのがキリの役目。
日本での休息はキリの自信と信じる心を取り戻してくれた。
「キリさまからの宝物」ラネルはそうつぶやくと、白いハンカチをしっかり握りしめた。
ただし、彼がいない。転生魔王であるユウリがここにはいない。
キリはそのことだけ、考えると何とも言えぬ心持ちになった。
あの深い柘榴色の瞳を持った彼を早く探しださないと。