EX14.ドロシー・フォン・ヴァルキュリア
夜。既に町の明かりは消え、暗闇が周囲を包んでいる。俺は──黒居の家の前に居た。
アンジュ・ド・ルミエールと別れてからというもの、ここまで走ってきたので息が上がっている。この寒さじゃ、呼吸をするだけで喉を痛めそうだから嫌になるな。
俺は質素な家の壁にもたれかかって息を整える。吐く息が白い霧となって空気中に溶けていく……と。
「おや、誰かと思えば」
ガラガラ、という音と共に開け放たれた戸から、家の雰囲気にはとても合わさなそうな格好をした男が出てきた。
スーツを身に纏い、頭に被るのはシルクハット。おまけにその帽子のつばで表情がよく見えやしない。
そいつは包帯を巻いている腕とは逆の方で軽く手を振ってきた。……どう返したものやら、と逡巡する俺を見て……黒居は言う。
「さ、どうです? ここに来たと言うことは……心構えができた、と見ても?」
「……あぁ」
俺は黒居の顔を見て返事をする。スーツ男がどんな表情をしているのかは分からないが、向こうは俺の顔を見たようで、
「なるほど、良い目をしていますねぇ」
……目を見ただけで分かるものなのか、と口に出そうとしたところで、黒居がソロモンと呼ばれる悪魔であることを思い出した。
ドロシー・フォン・ヴァルキュリアと互角に戦ったサキュバスに一目置かれる存在。であるならば、まぁ、不思議な力を持っていてもおかしくない……のか?
「はは。それは“企業秘密”ということで」
「……またそれか。全く」
俺はため息を吐く。相も変わらずコイツの秘密癖は治っていないようだ。まぁ、それは今置いておくとして。
「……じゃ、早速始めましょう」
「始める? 何をだよ」
黒居は俺を家の中へと手招く。まるで、待ってましたと言わんばかりに。あぁ、何だか嫌な予感がしてきたぞ。
「ドロシーさんが目覚めるのに足りないのは……“あなた”です」
「……は?」
思わず困惑の声を出してしまう。何だって? 何でドロシーが目を覚ますために“俺”が要るんだよ。
命を代償に、とかそういうことか。
「いやいや、まさか。少なくとも今回は──もっと易しいやり方ですよ」
まるで“厳しいやり方”があるような言い方だな。天使だ悪魔だ、こいつらは本当に……倫理観が狂ってるヤツらだと思うね。
「おや、照れますね」
「……あー、そうかい」
いつも通りの黒居に諦めの思いすら抱きながら、俺はドロシーの眠る家へと入っていく。
黒居が気を遣ったのか定かではないが……一連のやりとりのおかげで、少しは緊張が解けたような感じがした。
ピシャ。戸が閉められ、俺はスーツ男に続いて廊下を歩く。だが──以前ドロシーが眠っていた部屋の前で彼は足を止めた。
「彼女に会う前に、一つだけ」
「……何だよ」
黒居はそう言うと、手前の部屋の戸を引いた。
「ドロシーさんの今の状態をお伝えします」
・
・
・
「……なっ」
俺は──無意識のうちに驚嘆の声を上げていた。和室のテーブル。その向かい側に座る黒居の話があまりにも……。
あまりにも、メチャクチャだったからだ。
「……以上です。聞きたいことはありますかね」
「あるに決まってんだろ! 全部だよ!」
声を荒げる俺を見る黒居が言うには──ドロシーの体は悪魔に“寄生”されたような状態らしい。この時点で常人の頭では理解できない状況なのだが……更にややこしいのが、ドロシーの体はこの悪魔を“力”として取り込もうとしている……んだとか。
本来なら、こういう場合は人間で言うところの“ワクチン”をぶち込んで体内の悪魔を消してしまう。
しかし、体の一部にまで悪魔の力が浸食しているドロシーに対してそれを行えば、何が起こるか分からない。
最悪、ドロシーの持つ本来の力を悪魔の力とみなしてしまうとか。つまりまぁ、ろくでもないことになるってわけだ。
「……で。今の説明で、何で俺が必要になるんだよ」
「ま、当然の疑問ですよねぇ。……そうですね。単純に言うなら……」
と言って、黒居はどこからともなく、小さなホワイトボードを取り出してきた。どこにあったんだそれ。
そんな文句を意に介せず、ペンを持ったスーツ男はそのまま図を描く。
「見てください」
彼が示したホワイトボードには、丸が三つ描かれていた。悪魔、天使、人間という文字がそれぞれ割り当てられている。
「……まさか、今のドロシーの状態か?」
「ご名答です」
“天使”と書かれた丸と“悪魔”と書かれた丸は互いに重なり合っていた。これが“浸食”というやつなのだろう。
……で。
「この“人間”って丸。嫌な予感がするんだが」
「えぇ。その予想通り。これは“あなた”です。正確には、あなたの“人間の力”」
黒居は、その丸を一度消し、再び“悪魔”と“天使”に重なるように丸を描いた。その中に“神山”という文字を書いて。
丸が三つ重なった。……これだけ見るのならば、悪魔と天使が重なる部分は減っているように見えるな。
「えぇ。それが狙いです。あなたの力をなるべく押し込み……」
そのまま、スーツ男は丸を大きく描く。“悪魔”に重なるように描かれた丸は、うまく天使の領域を残しつつ、悪魔の領域を潰していく。
黒居の言うところの“人間の力”で、“悪魔”を押し出す。そういうことだろうか?
「いえ、追い出すのではなく、中和します。無理に弾き出せばドロシーさんの力ごと消えるでしょうし」
悪魔の力だの天使の力だの、それに加えて人間の力だの。複雑すぎて俺の頭はパンクしそうだ。だが、今ので自分の役割だけはなんとなく分かった。
「要は……俺の力を使ってドロシーを助ける、ってことだろ?」
「ま、簡単に言えばそうですね」
……全く。最初からそう言ってくれよ、と思わなくもない。
「いえ──細々とした説明をしたのは別の理由です」
「別の?」
黒居はホワイトボードを横に置き、俺をまっすぐ見つめる。
「単刀直入に聞きますが──例え死ぬとしても──ドロシーさんを助けたいですか?」
「な」
男の口から出たのは……死という言葉。驚く俺を気にせず、スーツ男は続ける。
「あなたにはこれから、ドロシーさんの“中”に入り、悪魔と戦っていただきたい」
“ドロシーの中に入る”という言葉も気になるが……それよりも、だ。
俺が悪魔と……戦うだって? “人間の力で悪魔の力を中和する”と言っていたが、物理的にやるのか? “魔道”とかいう何かでどうにかこうにかするんじゃなく。
「魔道も万能ではないのでね。あいにく……これが、一番安全なんです」
……俺は目を閉じる。“死ぬとしてもドロシーを助けたいか”という問い。決まってるさ。俺の取るべき行動は一つ。
俺は何度もあいつに命を救われた。見返りもなしに、ただの人間を救うヴァルキリー。
ドロシーは“恩を返す”と言った。俺は──鞄からあのぬいぐるみを取り出す。間抜けな音と共にそれは出てきた。
恩を返すべきなのは……俺だ。ヴァルキリーだの、悪魔だの、天使だの、全部関係あるか。
一人の神山という人間として俺は──ドロシーを助ける。
「……じゃ、行きましょう。脅すようなことを言った手前申し訳ないですが……」
黒居はその場から立ち上がり、部屋の扉を開く。俺の方へ顔を向けて笑いながら。
「私だって、あなたをただ殺させるわけにはいかないんでね。ドロシーさんに顔向けできなくなりますし」
「……あぁ」
俺も、黒居に続くようにして部屋を出る。ドロシーが眠る部屋へと。手が震える。しかし怖くはない。
助けられてばかりの俺が、ようやくドロシーの力になれる。
戦乙女を助ける作戦が、月夜の元で始まろうとしていた。




