EX12.戦いが残した傷
「……九死に一生ね、まさに」
銀髪の女学生──天束エインがそう呟く。アスタロトの目前で立ち尽くした俺だったが、彼女が後ろから俺の背中を引っ張り、フォルネウスの元へと連れて行ったらしい。
だから、本来ならば囮役だった彼女がここに居る。
黒居の家。その家主は包帯を巻く程度の傷で済んだらしい。あぁ、良かった……とは喜べなかった。
「……クソッ」
居間に置かれた簡易的なベッドに──ドロシー・フォン・ヴァルキュリアが横たわっている。彼女の目は閉じていて、それが開く様子もない。
かろうじて胸が動いていることだけが救いだった。
ドロシーを心配そうに魔道で看病するエインを見て俺は……自分でも分からず部屋から飛び出した。少なくとも彼女は生きている。だが──俺がもっと、ちゃんとしていたら。
「……神山さん、どこへ?」
「少し、外の空気を吸ってくる」
居間から廊下に出た俺は、声をかけてきたボロボロの黒居にそう返答して外へ出る。
外に明かりはほとんど無い。真夜中の風が俺を吹き付けている。
「……何なんだ、何なんだよ……何なんだよクソっ!」
倒れるドロシーを前にして俺は何もできない。俺は魔術を使えない。俺は天使じゃない。俺は悪魔でもない。俺は……ただの人間だ。
顔を知り、言葉を交わしたことのある人間が床に伏せていて……俺はそれを見ているだけ。
無力だ。俺には何の力も無い。だが、面白半分でこの世界に首を突っ込んでしまった。常に俺の前で戦うドロシーの姿が頭に浮かぶ。
「……何なんだよ……俺は」
俺は真に理解していなかったのだ。天使や悪魔といった存在に関わるうえで最も重要なこと。それは非日常の存在との関わり方とか……そういうことではなく。
自分という“人間”が無力で、何もできない存在だということだった。
そんな俺の頭の中に再びドロシーの顔が浮かぶ。彼女の顔は──笑っていた。いつもそうであったように。どんな状況にあっても……俺に対して軽口を飛ばしていたように。
「──」
足がこの場所から離れようとする。俺は、黒居に……そしてドロシーの友人である天束エインに合わせる顔がない。
俺は……逃げたんだ。
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「──っておい。聞いてんのかよ? 神山」
「……あぁ、聞こえてるよ」
あの夜の後。学校へと来た俺は、教室から出ることもなくただ外を眺めて過ごしていた。授業の内容も頭に入らない。
そんな中、名前も知らない同級生に捕まってしまった。最悪なことにな。
「でさ。オレ見ちゃったわけよ。夜の住宅街の影!」
「……そうかよ」
コイツの言ってる“噂”とやらは、おそらくドロシーとサキュバスの戦いのことを指しているのだろう。あれだけド派手にやっちまったんだ。噂になっていても不思議じゃない。
「んでよぉ! その影が似てんだよ!」
「はぁ。誰にだよ」
「うちの学生にだよ!」
噂話好きな学生から帰ってきたのは想像通りの答えで、まぁ“視力の良いヤツだな”なんて思わなくもない。
だが……一日中ドロシーのことを考えないようにしていた俺にとっては、想像通りだが驚いてしまう答えだった。
「……悪い。そろそろ帰るんでな」
「あ! おい! もっと驚けよぉ」
あぁ、驚いたよ。驚いたさ。嫌になるほどな。だから聞きたくなかったんだ。
「はぁ? お前、変なヤツだなぁ」
「……言われなくても分かってる」
怪訝な目で俺を見てくる男子学生を尻目に教室を出る。まだ陽は落ちておらず外も明るい状態だ。
ここまで来て、脳内の片隅にあったワードを思い出した。
「お悩み相談部……」
ドロシーに誘われて入った部活動だ。今の俺に行くべき場所はない。黒居の家は行きづらいし、この感情を抱えたまま家で過ごすのはかなり来るモノがある。
俺だって、このままで良いと思っているわけじゃない。まずはここからだ。ここから少しづつ進んでいく。
まずは──お悩み相談部へ行くところから。
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部室棟。萩目学園は結構新しめの学校なのだが、この部室棟だけはどこか古くさく感じる。
内装も昔からあるような感じで……どこか昔ながらというか。
ここにお悩み相談部の部室はある。部室というか、どこかの廃部した部の場所をそのまま使ってるだけなのだが。ちゃんと許可を取っているのかも分からんけどな。
「……はぁ」
寒い。屋内だというのに俺はどこか肌寒さを感じていた。階段を上る足が冷たい。もちろん気候の影響もあるが。
わざわざ“もちろん”と言ったのはそれ以外の要因があるからだ。だがもはや考えるまでのことでもないだろう。
分かっているんだ。このままではダメだと。だからここ──お悩み相談部の部室へ来た。無機質な扉が俺の前に佇んでいる。
静かな部室棟とは対照的に、外からは吹奏楽部だろうか──楽器の音が鳴っていた。
「……よし」
深呼吸して一息ついてから、俺はドアノブに手をかける。氷を触っているかのような冷たさに思わず手を離してしまいそうになるが、ぐっとこらえてノブを捻る。
「……え」
ノブを捻った瞬間──扉が勢いよく開いた。いくら立て付けが悪いといっても限度があるだろう……と開かれたドアに吸い込まれた俺だったが。
かろうじて、中に居た学生に支えられて転倒の危機を脱した。……いや待て。“中に居た学生”だと?
「──だ、大丈夫ですか? 神山」
聞いたことのない声だ。しかしドロシーが言っていたことを加味するならば彼女は──。
「……? どうされたんです?」
失念していた。その学生の姿を見ながら俺は思う。ヴァルキリーがたびたび口にしていた“友人”の存在を今になって思い出したことを後悔しながら。
俺の名前を知っていることからも“そう”なのだろう……と考えると、急に冷や汗が吹き出るような感覚を覚えた。
「……わ、悪い。部室を間違えたみたいだ」
俺は床と目を合わせながら急いで踵を返す。アイツと仲の良いヤツになんて合わせる顔がない。会うのが怖い。
そんなことを思いながら“逃げよう”とする俺に──。
「待ちなさいよ」
鋭い声が投げかけられた。さっきの学生とは違う声色。そして俺は、その声を知っていた。あの忘れたくても忘れられない夜に俺を助けてくれた女学生。
「クマで真っ黒になった目に痩せた頬。……酷い顔してるわね、君」
「……エイン、さん」
お悩み相談部の部室。その奥にある椅子から俺を見る銀髪の学生──。
「……はぁ。そんなとこまであの娘に似てるのね。アンジュ、中に入れて」
「はいっ」
「え」
天束エインにそう言われた赤色の髪の学生。そんな彼女が俺に近づいてきたかと思うと。
「動かないでくださいねっ」
俺の体の周りに……突然“縄”のようなものが生まれ、体はそれにすっぽりと収まった。そして聞こえる背後の鍵を閉める音と、腕を組みながらこちらを見て座る天束エインの姿。
……相変わらずの非日常の荒唐無稽ぶりに、俺は安心すらしていた。せめて顔の形だけは残してくれと心の中で懇願しながら。




