EX9.怪物
「あぁ──クソッ!」
勝手に動く足に任せて、夜の住宅街を俺は走っていた。
ドロシー・フォン・ヴァルキュリアとサキュバスの戦闘の余波で、周囲一帯の明かりが落ちている。それらしい光源と言えば空に浮かぶ月ぐらいしかない。
そんな──周辺の状況すら満足に見渡せないなか俺は走る。普通の人間なら逃げ出すような状況だ。偉そうに言う俺だって逃げ出したいね。
しかしあいにく、俺という存在は、自分が思うほど薄情ではなかったようで──。
「ど、どこだっ! ──ドロシーっ!」
悪魔サキュバスの攻撃を受けて地上へと落下した戦乙女。俺はその姿を必死に探していた。
悪魔の爆発の影響か、まだ煙が濃く残っている。思わず咳き込んでしまいそうになるほどに。
恩か……情か? 俺にもそれは分からない。だが少なくとも、ドロシーのやつとは知らない仲じゃない。
あいつの顔は散々脳裏に刻まれてしまったし、長ったらしい名前だってもう覚えた。
ただ、思っただけなんだ。あいつを……ドロシーを置いて逃げ帰るなんてごめんだ──と。
「あれは……っ!」
考え事をしながらも周囲を見渡していた俺の視界に、天使らしき姿が見えた。煙のせいで白い羽根ぐらいしかここからじゃ分からんが、それで十分だ。
また──体が勝手に動く。いつの間にかドロシーの前に俺は居て、彼女を起こそうとしていた。
ふと彼女の体を見ると、おかしなことに……見た限りでは目立った外傷がないように思える。敵の爆発に巻き込まれたようにしか見えなかったのだが。
「お、おいっ! 聞こえるか!」
戦乙女へと呼びかけるが反応はない。まるで眠っているかのように目を閉じて倒れている。
天使とはいえ、見てくれはヒトに似ているんだ。もし体の内部に傷を負っているのだとしたら……下手に動かすのはよろしくないだろう。
黒居とメタトロンが居た場所からそう遠くはない。大声を出せば届くかもしれないな。
──目の前のドロシーの状態に気を取られた俺は、肝心なことを忘れていた。
「──くろ……い」
振り向いて黒居を呼ぼうとする俺。もっと早く、気づくべきだったんだ。
いつの間にか──自分の足下に影が差していることに。俺の影は前に居るドロシーへかかっている。つまり、俺以外のヤツの影だ。
「──っ! ……お前、は」
その姿を目にして背筋が凍る。息がしづらい。喉を押さえつけられたような錯覚さえ覚える。それに起因して……声もかろうじて出るような状況だ。
月明かりを背景にして、その姿が影となって映し出された。ヒトのシルエットから生える……翼と角と、長い尻尾。
「あーらら。随分と度胸のある“ニンゲン”ねぇ」
「サキュ……バス」
未だ──煙は晴れない。それはつまり、黒居達がこの状況を知る術が無い……ということだ。
悪魔の俺を見る目。暗いせいか、赤く光った瞳が余計に目立つ。
「ふふ、どいてくれると助かるのだけど?」
顔を近づけてきたサキュバスは俺にそう言った。あぁ、そう来るだろうよ。だが、どけと言われて素直にどくような性分でもなくてね。悪いな。
「……あーらら。まぁ、度胸のあるオトコは好きだけれど……」
悪魔がそう言うと──彼女の持つ長い尻尾が俺の首を撫で始めた。いや、“撫でる”というとかわいいもんだが、力強く押しつけられているために、首を絞められているような感覚に近い。
唾を飲むことすらできない。首を少しでも動かせば……“斬れる”。
「度胸もやりすぎれば──命取り、ってねぇ?」
尻尾が動いてるのが分かる。最悪だ。このまま動き続けると──先端の部分が首に当たる。そうなりゃ俺は……自分の胴体とおさらばすることになってしまう。
ドロシーと出会ってからというもの、死にそうな状況には何度かなった。いや、別になりたくてなったわけじゃないが……だからこそ分かる。
この状況は、死ぬ。倒れたドロシーに連絡の取れない黒居。頼れるヤツらが全員居ない。
あぁ、クソ。なんだってこんなことになっちまったんだ。
そんなことを思う俺に構うこともなく、サキュバスは面白がって尻尾を動かす。
……なんだこれ。首に嫌な感触がある。どうやら、悪魔の尻尾が少しづつ動いているらしい。一気に殺すことだってできるはずなのだが、どうも悪魔というヤツは例に漏れなく性格が悪いようだな。
その証拠に、目の前に居るサキュバスは満面の笑みを浮かべていた。
「このまま続けてもいいけれど……早くヴァルキリーを殺したいの。ふふっ。物わかりのいいニンゲンのようだし……分かるでしょ?」
分かってたまるか悪魔野郎。あぁ、死ぬ。死んでしまう。格好つけて出てきたはいいものの、どこまで行っても俺は人間だ。
ドロシーのように悪魔に対抗できる技を持っているわけではないし、黒居のように策を講じているわけでもない。
そうして俺が悲嘆にくれていた時──尻尾が突然止まった。俺の首を切り落とそうとしていた直前。何者かの──“手”が尻尾を掴んでいるのが視界の端に見える。
頭を上げている状態なのでそれが誰かは分からない……が。
それを見ている悪魔の様子は分かる。彼女の視線は俺ではなく、俺を助けた存在へと向けられていたようだ。
「──ッ!」
そして──サキュバスが退いた。解放された俺は首をさする。傷はなかったが、尻尾を押しつけられた“痕”がついているようだ……と。
そうして普通の体勢に戻った俺。息をしつつ、助けてくれたのは誰だと思い、周囲を見渡すがそれらしき存在は見当たらない。
ある意味で当然だ。その存在は……ちょうど俺の前でサキュバスと対峙していたのだから。黒い装束に剣と盾。見覚えのある姿、ドロシーだ。
しかし、あいつは悪魔の攻撃に晒されて倒れていたはず。
「──な」
ドロシーがこちらへ顔を向けたとき、俺は言葉を失った。そこに居たのは確かにドロシーだったはずだ。見覚えのある風貌のヴァルキリー。
けれども、見知ったはずの顔は──紅い瞳に……目から流れる血。おまけに黒い影のようになっている瞼。
俺の知っている戦乙女とは似ても似つかない顔がそこにはあった。それこそまるで──悪魔のように恐ろしい──。
「──キヒッ」
深紅の瞳と垂れる血でぐちゃぐちゃになった顔の彼女は笑う。首だけを俺に向けていたドロシーだったが──動く。俺が瞬きをする一瞬の間に“敵”へと間合いを詰める。
「あーらら、死人が蘇るとはねぇ。けれど? 何度倒れても倒せばい──いっ」
余裕を見せるサキュバスの言葉は途切れた。悪魔は……斬りかかってきたヴァルキリーの剣を防げなかった。受け止めようとしたその尻尾が真っ二つに両断されたからだ。
だが──そこでドロシーの剣は止まらない。尻尾を斬ったまま……その刃は振り下ろされる。悪魔の体は──肩から足にかけてぶった斬られた。
血だ。鮮血の雨。青色の血が傷跡から吹き出る。稚拙な例えかもしれないが……まるで噴水のように。勢いよく吹き出すそれは、周囲に“青色の雨”となって降り注ぐ。
対して、ドロシーは──笑っていた。腕を大きく広げ、剣も盾も放り出し、空に向かって甲高い笑い声を上げるヴァルキリー。
俺の瞳に映る彼女の姿は──怪物そのものだった。




