EX8.失われた技
「ずいぶんと鈍くなったモノねぇ。……ソロモン?」
……血だ。俺──神山とドロシー・フォン・ヴァルキュリアの前に流れるのは、大量の血。
だが、人間のそれとは異なる血だ。見てくれだけは似ているが。ただ一つの大きな違いは血が赤色ではなく……青色だということだ。
「いや──今は“クロイ”と言った方が言いのかしら?」
再び上空へと舞い戻った悪魔はさぞ楽しそうに笑う。あいにく、俺はそんな気分になれそうにはない。
理由は単純。俺たちの前に倒れているのが黒居……その人だからだ。
「黒居っ!」
反応が遅れた俺は、倒れた黒居へと駆け寄る。肩を傷つけられたのか、腕に大量の青い血が伝っていた。
幸い地面に伏せるような事態にはならなかったが、立っている姿は前屈みになり呼吸も荒々しい。
「二人とも……逃げてください。コイツは……あなた方が勝てる相手じゃない」
吐息混じりで黒居は言う。あぁ、その方が良さそうだ。だが……簡単に帰してくれる悪魔でもないだろう。
周囲を見ると、メタトロンはいつのまにか姿を消していた。逃げた……とは思えない。あの少女の力量を考えると“どこかで様子見している”といったところだろうよ。
「あら、逃がすと思うの? このサキュバスが──獲物を」
空を飛ぶ悪魔を俺は見ていた。見ていたはずだ。だが──視界の中にあったはずの悪魔の姿は消えていた。
──来る。俺でも分かる。こっちへ仕掛けようとしている。
「──ッ! ……あらら」
瞬時に俺たちの目の前に姿を現し、その手から伸びる爪で襲いかかってきた悪魔。しかし、それが黒居や俺を貫くことはなかった。
爪を防いだのは剣だ。ドロシー・フォン・ヴァルキュリアによって俺はまた──命拾いをした。
対して悪魔は、まるで想定外の事に驚くように目を見開いている。
「何を驚いている? 戦乙女が黙って見ていると思ったのか?」
「……へぇ。面白いじゃない。やっぱり天使は──」
──消えた。再びサキュバスの姿が消失する。まただ。それを確認したドロシーは一気に前方の十字路へと“跳んだ”。黒い装束の影が残像を伴って移動し──。
「──活きのいいコほど壊したくなるわッ!」
その“影”の背後に悪魔が姿を現す。一瞬の事だ。俺のような凡人の動体視力では何がどうなっているのか分からない。しかし。
背後からの悪魔の不意打ちを、ドロシーが防いだのは分かる。
「ふん。悪魔に壊されるほど──」
ヴァルキリーの目が見開く。防いだ盾を振り払い、腰に納めた剣を握る。
「戦乙女は、弱くないぞ」
ドロシーの剣が──空を裂く。溜められていた力が一気に解き放たれる。衝撃と風。黒居も俺も立っているだけで精一杯だ。
剣閃。武器と武器が奏でる甲高い音。あぁ、そうだ。始まってしまったのだ。サキュバスとドロシーとの……戦いが。
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「──甘いッ!」
戦乙女とサキュバスの戦いの場は空に移っていた。ドロシーの背中からは純白の翼が生え、せわしなく羽ばたき続けている。
対して悪魔も──その赤黒い翼を用いて応戦している。
どっちが有利かも分からん。俺は人間だからな。黒居と壁の傍で身を隠すことぐらいしかできない。……と。
「──なに? どっちがつよいか知りたいの?」
声。少女の声。聞き覚えのある声が耳に入り、脳みそを全力で動かしてその主を思い出そうとする。
「もうわすれたの? 傷つくなぁ」
「……今思い出したんだよ。……メタトロン」
姿を消した天使、メタトロン。どこに隠れていたのかは知らないが、声をかけるなら姿を見せてからにしろよ。
「ごめん。ごめん。……って」
かつてゴエティアの少女と名乗った少女は、俺の横で座る黒居の前へ来た。
「お、おい! 何を……」
「べつに? 手酷くやられたなぁって思っただけだよ」
そう言われた黒居は、重そうな頭を上げてメタトロンを見る。金髪の天使はそれを見返す。いや、見下ろすと言った方がいいのだろうか。
「……てっきり、私を殺しに来たのかと思いましたがね」
おいおい、物騒な話はやめてくれ。ただでさえこんな状況なんだ。……って。何かお前ら、落ち着きすぎじゃないか。なぁ。
そんなことを独りで思う俺を無視して、メタトロンは続ける。
「半分せーかい。“アレ”が来なきゃそうしてたかもね」
そう言って、少女は空へと視線を向ける。ドロシーのことを指している可能性もあるが、まぁあの悪魔のことだろう。
相変わらず、空では戦闘が続いている。たちが悪いのは、その攻撃の流れ弾がこっちへ跳んでくることだ。
だから、近寄れないし、動けない。下手に動けばとんでもないことになる。ドロシーを信じるしかない、ということらしい。
「サキュバス……だったか? 何なんだ、あいつは」
「んー? ぼくじゃなくて、そこのソロモンに聞きなよ──あ」
“あ”って何だよ“あ”って。急に言うと驚くだろうが。そう思う俺を気にせず、メタトロンは指を指した。
その先にあるのは、ドロシーの姿だ。
「……へぇ」
興味深げにヴァルキリーを見るメタトロン。俺もつられて同じように視線を移した。──確かにそこに居たのはドロシーだった。
目をこらして見ると、鞘に収めた剣を取り出して斬り払う動作を彼女は繰り返していた。一閃と呼ばれる技の動き……だったはずだ。
しかし、ドロシーが何度剣を振るおうと何も起こらない。いや、力を込めた剣が振られているのは事実だが、以前見た“一閃”にはとても見えない。
──押されている。攻めの手を失ったドロシーに、悪魔は猛攻を仕掛けていた。最初は優勢だったはずのヴァルキリーは、いつしか盾で攻撃を受ける回数の方が多くなっている。
「ど、ドロシー!」
俺の叫びもむなしく、悪魔の手から“光球”が放たれた。ボール状の赤い光を放つそれは、ドロシーの盾へ到達し──。
「ッ!」
夜空が赤い閃光と煙で染まる。悪魔の手から放たれた光の玉は、ドロシーの盾が接触した瞬間に爆発した。どうなった。目の前の状況に頭が真っ白になる。
「──」
だが、そんなことよりも先に俺の足が動いていた。まさに体が勝手に動くという状態だ。その爆発の爆心地へと……ドロシーの姿を求めて。




