EX7.メタトロン
「うおっ……と」
顔に風が吹き付ける。そして、遅れて聞こえてくる衝撃音。二人の天使の戦闘によって、夜の住宅街はまるで戦場のように変わって──というか戦場そのものだ、これは。
“ゴエティアの少女”の魔術で地面が抉れ、ドロシー・フォン・ヴァルキュリアの攻撃で電線が真っ二つになる。とんでもなく迷惑なヤツらだな。なんて思っていると。
「──っ!」
右耳に聞こえたヒュンッという鋭い音。俺のちょうど横を“何か”がかすめた。後ろを見ると、それが地面につけたであろう、小さなクレーターが生まれている。
「いやいや、危ないですねぇ。なんとも」
「……これを“危ない”で済ませられるのが信じられん」
死と隣り合わせの状況に、嫌な汗が流れ続ける。なんだってこんなことに巻き込まれてんだ、俺は。
そんな自分とは対照的に、目の前の男──黒居は落ち着いた様子だった。
「……ドロシーさんとは互角……いや」
ぶつぶつ言っている彼の目の先には、二人の天使の姿があった。果敢に攻め込むヴァルキリーと、それに対して的確に防御を行うゴエティアの少女。
一見すると、戦乙女が押しているように見える。
「えぇ、確かに。ですがそれは──あちらさんが“本気”ならば、の話です」
黒居がそう発言した直後、耳をつんざくような大きな金属音がした。見ると……ドロシーの手に握られていたはずの剣が、離れた場所へと落ちている。
ヴァルキリーが反応する前に──謎の天使少女が動く。小さな天使は、一瞬にして手に光を収束させて、ヴァルキリーへ向けて振り下ろした。
ドロシーは盾でそれを受けるが、その衝撃までは受け流せず、俺と黒居の居る方向へと吹き飛ばされた。
「お、おい。大丈夫か?」
煙の中、自分たちの前で立ち上がるドロシーに向かって、俺は声をかけた。彼女は振り返らずに、自らの手に再び“剣”を生み出す。
「……当然だ。この程度で折れるヴァルキリーではない」
対してゴエティアの少女は、余裕たっぷりの様子で、俺たちの前へと降りてくる。あれだけ戦ったというのに、疲れてすらいないのか。
天使と戦う天使なんて、これじゃどっちが悪魔か分からんな、と。その独り言は天使へと聞こえたようで。
「……ひどいなぁ。でも、まぁ間違っちゃいないね。なぜならぼくは──」
「──メタトロン」
口を開いたのは、俺でもなければ、ドロシーでもない。黒居だった。彼は戦乙女よりも前に行き、メタトロンへと近づく。
「地獄を管理する天使。悪魔を鎮める者。確かに悪魔に近しい存在です」
「なーんだ。よく知ってるじゃん。じゃあ」
メタトロンは、黒居を指さした。
「ぼくがなんでここへ来たのか。きみなら分かるんじゃない?」
そう言われた男は黙りこくっている。分からないことだらけだ。黒居とこの天使に交流がある時点で、既に頭が理解を拒んでいるのだが。
「地獄が面倒なことになってる。もちろん、帰ってきてくれるよね?」
黒居の顔を見ながら、少女は続ける。
「三魔将軍の一人──ソロモン」
「なっ……」
ドロシーは目を見開いて口を開けている。まさに驚嘆の顔だ。俺には驚くための知識すらないが、少なくとも、ただ事ではないのは分かる。
ソロモンだって? この人の名前は黒居じゃないのか。
「……そうだよ。これは“人”じゃないし、“黒居”でもない」
「かつて地獄から消えた魔将軍の……ソロモンさ」
魔将軍か。“天使”だ“悪魔”だと、ようやく理解しつつあったのに、ここにきてまた変なヤツが出てきやがった。どいつもこいつもめちゃくちゃだ。
「不思議には思わなかったの? ただの人が、ぼくたちについて詳しすぎるって」
「……それは」
あぁ、思っていたさ。思っていないと言えば嘘になる。だが、それにしたって急すぎる。あの黒居が、元は地獄の住人で、おまけに魔将軍なる存在だって?
スーツ姿の男はうつむいて黙りこくったままだ。……と。
「黒居。お前……なぜ、我らに隠していたのだ」
「……すみません。ドロシーさん」
ドロシーから問われても、黒居は低い声色で謝るだけだ。メタトロンが、そんな黒居の手を掴もうとするが──。
「ま、待てっ!」
俺の口が開く。声帯が勝手に音を出す。ああくそったれ。何やってるんだ俺は。
「まだなにかあるの? “人間”?」
あぁあるさ。お前に聞きたいことはたくさんある。そのイラつく呼び方だってやめてもらいたいね。だが、それよりも、言わなければならないことがある。
「その人には恩があるんだ。悪いが、無理矢理連れて行くのなら……見過ごすことはできない」
「へぇ」
メタトロンは、掴んでいた黒居の腕を離した。そして……今度は俺へと近寄ってくる。
神流川で出会ったときとは違い、彼女の振る舞いからは、言い知れない威圧感を感じる。
目の前に来たメタトロン。その気になれば、俺のような人間など一瞬で殺せるだろう。額からは冷や汗が吹き出し、動悸がどんどん速くなり、自然と息が荒くなる。
「“人間”一人で何をするつもり? きみひとりじゃなにも──」
少女がそう言った直後。彼女が……後ろへと退いた。俺の前に──“剣閃”が放たれたからだ。俺の前をかすめるように放たれたそれは、器用にもメタトロンを避けて壁に当たる。
威嚇だ。そして、この場でそんなものを使えるのは。
「──ふっ。一人ではないさ。我がいる。これで二人だ」
「……ドロシー。あぁ、そうだな」
俺の前に、戦乙女が出てきた。剣と盾を構える彼女は、夜の光に照らされている。
「ふーん。きみのことを騙していた存在をかばうんだ?」
「……あぁ」
彼女は、先ほどと同様に、再び剣の鋒をメタトロンへ向ける。
「騙されたのは事実だ。だが──我が助けられたのもまた、事実だ」
「受けた恩は返す。ヴァルキリーとして当然だろう?」
それを聞いたメタトロンは、上を向いてため息を吐く。
「はぁ。意外とめんどうだね、きみたち」
そう言った天使の少女は……突然足で地面を蹴った。強い衝撃と音。一瞬で彼女の足下が抉れる。メチャクチャなヤツだな、コイツも。
「……もういいよ。ぼくも本気を──」
直後。先ほどよりも強い轟音。耳が割れそうだ。頭が痛い。顔をしかめて側頭部を押さえる。
空気が揺れているような感覚。これは、そうだ。以前にも似たようなものを味わったことがある。これほど強いものではなかったが……これは。
「……ゲートか?」
そう言ったヴァルキリーも、顔に当たる風を手で遮るようにしている。この感覚は、ゲートが開くときの感覚だ。天使の争いだけで十分だってのに、また何かが来るのかよ。
「これは……ドロシーさん! 神山さんっ!」
体が震えるほどの衝撃波に晒されていた俺とドロシーは、後方に居た黒居に抱えられて、彼の生み出した“壁”の内側へと移動させられた。
そして──閃光。目を覆いたくなるような光が周囲を包む。そして暗がりが戻ってきたとき、開いた目の前。空中に浮かんでいたのは。
「──あらら。これまた随分と辛気くさい場所ね」
杖のようなものに座って、宙に浮かぶ何か。いや、“何か”という不確かな存在ではない。背中からは巨大な赤黒い翼が生えている。天使のそれとも異なる羽根。……悪魔だ。
メタトロンはさっき、“地獄が面倒なことになっている”と言った。仮にあのゲートの先が地獄だとするならば、あの悪魔は……面倒ごとを運んできたのだろう。
見上げる黒居。珍しく、空に浮かぶ“悪魔”の姿を見て、驚いた表情を見せている。
「──サキュ……バスっ!」
サキュバス。そう呼ばれた悪魔は……黒居の方へと向いて、妖艶な笑みを浮かべて見せた。
「あら、ソロモンじゃない? 元気そうで何よりだわ」
「──ッ! 二人とも! 今すぐこの場から──」
黒居が俺たちへ叫ぶ。だが、その後ろには既に──。
「もう遅いわよ? く、ろ、い?」
「……くッ!」
突如現れたサキュバスと呼ばれる悪魔によって、また争いが起きようとしていた。




