EX1.ボーイ・ミーツ・ヴァルキリー
ドロシー・フォン・ヴァルキュリア。天束エインと共に天界を救ったヴァルキリーは、人間界で悪魔狩りを行っていた。彼女の腕前は大天使ミカエルも認めるほどで──その性格を抜きにするのなら、模範的な戦乙女とも言える。
そう。その”ウデ”が確かならならば、悪魔の一匹など取るに足らない相手だ。だが──。
「……くッ!」
腕に傷を追って下がるドロシー。彼女の眼の前に居るのは──人間と同じ大きさ、いやそれよりも小さい、まるで動物のような姿の悪魔だ。
デゼスポワールにベリアル。そして名もなき大量の悪魔。これまで彼女が戦ってきた者と比べれば、小粒のようなもの。
「……なぜだッ!」
「なぜ──一閃が使えないんだッ!」
戦乙女は、前傾姿勢を取り鞘に収めた剣の柄を握る。そのまま溜めた力を一気に解き放ち、宙を斬る。だが。──何も出ない。天束エインを死に追い込んだ技。
それが今では、悪魔一匹殺せない技へと成り下がった。
「──っ! しまった──」
ドロシーの視界にあったのは、首を傾げた悪魔が自らへと飛び込んでくる姿。その口に生えた牙がヴァルキリーを襲う。しかしドロシーは……動かない。いや、正確には動けない。
体が重く、足が動かない。剣を振るう手も鈍くなり、反応も遅い。
「──光矢っ!」
そんなドロシーへ襲いかかる悪魔へ向かって、一筋の光が放たれた。それは矢。軌跡の元にいたのは……赤髪の天使アンジュ・ド・ルミエール。悪魔は一瞬にして消滅し、光の粒となって消えていく。
「ドロシーちゃん! 大丈夫⁉」
「……アンジュ……か」
ヴァルキリーの額には汗が浮かぶ。こんなはずではない。こんな悪魔にしてやられる自分ではない。そういったやりきれない思い。
「……すまない。少し外す」
「あっ! ま、待ってよ」
ドロシーは、アンジュの返事を待たずに、羽根を広げてその場から消えた。地面には、彼女が踏みしめていた靴の跡がくっきりと残っている。
「……ドロシーちゃん」
アンジュは心配していた。もちろん、ドロシーの体調が悪そうだ、ということ。今までとは違い、彼女が弱った姿を見せている、ということ。そして──。
ドロシー・フォン・ヴァルキュリアの瞳が、血のように赤く染まっている、ということ──。
・
・
・
寒空の下。太陽は出てるが、肌寒さを感じる。青色の空を見ていると体が震えてきそうだ。おまけに、ここ──神流川という川の近くに居る、ということもあるが。
じゃあ、なぜクソ寒いなか、わざわざ神山──俺がこんな場所にいるのか。
「……う」
眼の前に、少女が倒れている。いや少女と言っても、高校生の自分とさして変わらない身長だ。幼く見えるのは着ている服のせいだろう。真っ黒のゴスロリ衣装に白いフリルがついている。どこで売ってんだ、こんな服。
「だ、大丈夫……か?」
「……あ……う」
声は出せるようだが、体は倒れたままだ。行き倒れ……か? いずれにせよ、俺一人には荷が重そうだ。どこかで人を呼んでくる必要があるかもな。
「……起こすぞ」
倒れている少女の肩を掴み、少しづつ上体を起こしていく。まぁ、幸いにも軽かった。周りを見渡すと、ベンチを見つけた。あそこに寝かせればいいだろう。そこから先は、大人がやればいい話だ。
「歩けるか?」
「……」
返事はないが、足を動かしてはいた。体を起こす時に見たが、特に怪我をしているわけではないようだ。……怪我もしてないのになぜ地面に倒れていたのかは知らないが。
「……ここで休んでろ。すぐに他の人間を呼んで──」
ふと、右手が引っ張られたような気がした。視線を後ろへ向けると、ベンチで横になっている少女が、俺の制服の腕を掴んでいた。
「どうした」
「……それ」
少女の視線の先にあったのは……俺が左手に下げている買い物袋。買ってきたパンと飲み物が入っている。で、これがどうしたっていうんだ。
「……おなか……すいた」
「……は」
帰ってきた答えは、俺が全く想像していないものだった。お腹が空いた。……傷もついていないし、妙だとは思ったが、まさか腹が減って倒れてたのか?
……別にあげてもいいが。金だけは後で返せよな。
「……あぁ」
そう言って体を起こした少女は菓子パンの袋を開けてがっつく。こんな勢いでパンを食べるヤツ見たことねえよ。例えるならそうだな……小動物が餌を食べる時……のようだ、と言ってみる。
「……ふぅ」
ひとしきり食べ終えると……って。おかしい。おかしいぞ。俺が少女に渡したパンは一つだったはず。なのにコイツの手に握られている袋は……二つ。
俺が買ったメロンパンとカレーパンは、無惨にも食いしん坊の行き倒れの胃袋に吸収されていった。
「よし。感謝するぞ、人間」
「……はぁ。まあいいさ。元気になったんなら」
人助けをしたならパンの一つや二つぐらい……と思ったところで思い出した。財布がすっからかんだったことに。思わずため息が出る。ついてない日だな、本当。
「ならば我が──パンの借りを返してやろう」
「……我だとか人間だとか……何なんだよ全く」
どうやら俺が助けたのは──ただの少女ではなく、ヴィジュアル系に狂ったミュージシャンの追っかけだったようだ。ま、格好からして怪しかったけどな。
「ゔぃじゅ……ある? というのはよく分からん。我はヴァルキリー。断罪の乙女だ」
……いや、自分で乙女とか言うのか──。
「──うわっ」
突然地面が揺れる。地震か? しかし携帯電話の通知にはそんなことは書いていない。じゃあ何だ、事故か……? と振り向いた俺の視界に映ったのは──。
「な、何だ……コイツは」
真っ黒な何か、としか言いようがない。生きてきた中、といっても短い間だが、それでも今まで見たこともないような”何か”がそこには居た。
それはこちらを観察しているのかどうか知らないが、瞳らしき赤い部分はこちらを見ている。
「──下がっていろ、人間。死にたくなければな」
「お、おいッ!」
助けた少女が前へ出る。俺よりも前に。”何か”の眼の前に。死にたくなければな、だって? それじゃお前が死んじまうぞ!
「おい! 何だか知らんが、コイツからは離れたほうがいい!」
「いや──その必要性はない」
眼の前に居る少女は、どこから傘を取り出す。こんな時に手品か? いや──。
「なっ、なんだよそれ」
傘が光って、”剣”と”盾”に分かれた。……自分の目がイカれたとか、自分の脳みそが狂ったとかそういうわけじゃない。実際に眼の前で……それが起こった。
「な、なんなんだよ、本当……」
「……何だ? 言っただろう?」
”少女”は前かがみの姿勢になり、鞘に収めた剣に手を伸ばす。何だこれ。何なんだこれ。何が起こってんだ──と思った矢先に、”黒い何か”に口のような部分が生まれた。
鋭い歯が何十本も生えたその口。噛まれれば人間の骨なんて一瞬で粉々になるだろう。”何か”は動物のように雄叫びを上げた。
「逃げないとマズイぞ!」
「だから──その必要性はないと言っているだろう?」
「なぜ──」
少女の剣が空を裂く。黒い何かに向けて、剣が振るわれる。真っ二つになったそれを前にして──少女は俺へ向き直った。
「我が、悪魔狩りの戦乙女だからだ」
「我の名は──ドロシー・フォン・ヴァルキュリア。覚えておけよ、人間」
笑う少女に、俺は何も返せない。これはヤバい。ここはヤバい。非日常。狂った日常。ここは──普通じゃない。だが体が動かない。少女──ドロシーの視線に、俺は釘付けになる。
非日常の誘惑。後にして俺は──この時をきっと後悔するだろう。




