53.エピローグ
ベリアルは倒れた。世界を脅かそうとしている巨悪は潰えた。だが──”悪魔”が世界に残した爪痕は、未だ癒えていない……というのが現状だ。
天界は復興に追われ、多くの天使が人間界へと駆り出され、悪魔の残党の処理をしている。
だが、どうやら天界にとって”非常事態”ではなくなったらしい。平時ならば力が強すぎて、人間界へ出向くことが禁止されている大天使。
その一角であるミカエルが姿を見せていないことからも、天界はいつも通りに戻った、ということだろう──と。
「えひんはん、ほれおいひいでふね」
「だーかーら。食べながら喋るのやめなさいっての」
神流川の前にあるベンチ。そこで小動物のようにメロンパンを頬張る見習い天使、アンジュ・ド・ルミエール。喉詰まらせても知らないわよ。っていうか天使はみんな悪魔を血眼で探してるんじゃないの。
「ん……んぐ。えへへ……ほらっ! 見てくださいこれ!」
赤髪の天使は、私へまっすぐに一枚の紙を差し出した。手のひらに収まるほどの大きさの紙だ。
「なになに……って」
そこに書いてあったのは、アンジュの名前と──”派遣天使”の文字。
「えっへん! わたし、昇格したんですよ!」
手を腰にあてて鼻を高くしているアンジュ。なるほど、良かったわね。で、”これ”とあなたが今メロンパンを食べていること、何か関連があるのかしらね?
「……え、エインさん、いじわるですよ……」
……悪かったわね。派遣天使の派遣は、”人間界への派遣”という意味だ。言ってしまえば伝令とか観測とかの役割で、人間界に異常が発生した時には、まっさきに天界へと報告する、という役職。
まぁ、つまることろ言ってしまえば、”人間界で暮らせ”ということだ。
アンジュの正当な頑張りの結果か、あるいはガブリエルやらウリエルあたりが気を利かして根回ししたのかはわからないが、まぁ、悪い気分はしない。……で。
「なんだ、細かいことを気にするのだなぁ、貴公は」
アンジュの数倍の量のメロンパンを食べている戦乙女がすぐ横にいる。百歩譲ってアンジュがここで菓子パンを食べてる理由があるとしても、あなたがここに居る理由はないでしょ。
人間界へ戻って来る時に、天界でミカエルが──。
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「あー? しばらく戦乙女どもは俺の所に居ると思うが?」
「いや、ドロシーが来てないのが気になっているだけよ」
「はン。ま、ああ見えてヴァルキリーだからな、アイツも」
天界……の中心。ベリアルによって壊された広場がある。壊されたからこそ、他の天使は寄り付かない。だからこそ、私のような存在を人間界へ返すのにはうってつけの場所だった。
「長いお別れになりそうね。……この景色とも」
「……あァ」
天界上での私の扱いは──未だ天使だった。ウリエルによるものだ。彼女なりの恩の返し方だったようだ。だが、そんな彼女にも、失った天使の力を取り戻す方法は分からなかった。
「どいつもこいつもテメェの名を出したら大騒ぎだ。大天使のくせに情けねえったらあらしねぇ」
「……まぁ、良いんじゃない。別れを惜しむ余裕が生まれたのなら」
「……はッ」
私は、ミカエルの持つ”鍵”が指し示す先、広場の真ん中へと立つ。すると、足元に魔法陣が生まれた。天使ならばみな、このようにゲートを開くことができる。
だが私は、体に残った”天使の力”が少ない。そのせいで上手く天界と他の場所をつなぐことができなくなってしまった。
魔法陣が淡い光を放ち始める。何百回も見た景色も、これで見納めかと思うと少し寂しい。ミカエルの持つ鍵が光り、そこから魔法陣へ向かって”軌跡”が放たれる。
「おい」
「な、何よ……突然」
緋色の大天使は、バツの悪そうな顔で頭をかいている。と、目を閉じ息を吐いてこちらへ向いた。
「──テメェが居なきゃ、何もかも終わってた。だからなんだ、ほら……ありがとよ」
頬を照れくさそうに指でかく大天使。私が人間界へと転送される直前に見たのは、その光景だった。
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「だから、ドロシーがここにいるのはおかしいって話よ」
「我には我の任務があるのだよ。言えるのは、ミカエルの許可は取ってるということだ……んむ。何とも美味だな、これは」
……極秘の任務を受け持ってる天使がこんなところで油を売っていていいのかどうかは分からないけど。にしても、まさかこんな会話を私がするようになるとは思っていなかった。
眼の前にある神流川。ここの前に来るのは、いつも悪い事があった時だった。それを忘れるために、ただ川の流れを見ていた。
上を見る。青い空がどこまでも広がっている。点々とある白い雲。今日も空は青い。
「エインさんは、これからどうするんですか?」
「……そうね、ま、学生生活も悪くは──」
背後から何かが近づいてきた。そして、声。人間の声だろうか? 音は高いが子どものような声と、それに続いて低い唸り声のようなもの。
アンジュとドロシーも耳を済ませる。そしてどうやら……こちらへ近づいているようだ。
「──だ、誰か助けてー!」
背後の土手の上から走ってきたのは……半透明の子供、いつか見た幽霊のような存在。そしてその後ろから迫るのは──。
「美味そうな童めッ! 妾に食われることを名誉に思うがいいッ!」
どこか高貴な喋り方で、上半身が人間、下半身がヘビのような姿の悪魔。隣に居る天使たちも私も──立ち上がる。
「ど、どうしましょう⁉」
おそらく……あの少年は霊体であるがゆえに、人間には気づかれず、運悪く巡回中の天使にも気づかれることがなかった、ということだろう。
さて……”どうするか”なんて、決まっている。
「アンジュ。さっきの撤回。これからどうするって問いにはこう答えるわ」
ドロシー・フォン・ヴァルキュリアの傘が光りに包まれ、剣と盾に分離した。アンジュは手に小型の弓を生み出す。私も──手にぐっと力を込め、腕に”魔導の力を巡らせる”
「しばらくは──悪魔を倒すのも悪くない、ってね」
羽根を失えど、誇りは失わず。羽根を失えど、心は失わず。羽根を失えど──友を得て、命は巡り、運命は再び廻りだす──。
──見習い天使と、失翼の使い。




