47.終局に向かう交響曲
動き出した黒い影──悪魔の力を剥き出しにしたベリアル。”影”は一瞬のうちに私の視界の彼方から眼の前に移動した。意識では理解しているが、体が反応しない。
私の手が、”蒼く光りだす”前に、先にベリアルの手刀が動く。瞬間移動によって生み出された勢いが、そのまま力となり襲いかかる。
「──わ、わわっ!」
その矛先であったアンジュが、すんでのところで攻撃を躱したのを合図に、私達は一斉にベリアルと距離をとる。幸いにも、ベリアルが生み出した”黒い霧”は身を隠すのに役立つかもしれない──と。
「──オイオイ、エインフィールド。まさかテメェ──それがただの霧だと思ってる訳じゃねェよな? ……ククッ」
霧の中。周囲が暗く、状況がわからない中で、背後からベリアルの声が聞こえた。だが、そこから攻撃が飛んでくる……ことはない。
殺そうと思えば殺せる相手を、まるで遊びのように弄ぶ。だから、コイツは嫌いなのよ。
「……”魔導霧散”──っ!」
魔導霧散。周囲に霧を生み出し、自らの身体を一時的にそこへと”隠す”魔導。その魔導を発動した瞬間だった。私の腕に、何か小さな刃に切りつけられたような傷ができていた。
魔導を用いた腕から傷がつく。となれば、それは体、そして首、いずれ頭へと到達するだろう。考えている暇はない。瞬時に”魔導霧散”を解く。
「……霧……まさか!」
「クハハッ! ”当たり”だ、羽根なし天使」
この霧は、ベリアルが姿を変える際に溢れ出した、”悪魔の力の残滓”だと思っていた。実際に、ヤツの前に立っていた私に当たっていた霧は、腕に当たると少し痛んだ。
だが。違う。
「……”悪魔涙”を……霧に変えたのね」
私達を襲っていた、小型の滴状の”光の弾”。もしあれが、そのまま霧へと姿を変えていたのだとしたら。自然と顔がこわばり、手を握る力が強くなる。
「アンジュっ! ドロシーっ!」
暗い霧の中、二人の天使へと呼びかけるが、返事は帰ってこない。代わりに返ってきたのは。
「──あァ? テメェが呼んでるのは……コイツら、か?」
ベリアルの声がしたかと思うと、その二対四枚の悪魔の羽根が一気に広がり、その余波で霧がすべて吹き飛ぶ。晴れた霧。崩壊寸前の天使長棟の屋上には、倒れた二人の天使を近くから見下ろす悪魔が居た。
「ははッ! ”いつか”の状況と同じだなァ? あァ……たまらねェな」
「……二人から、離れて」
「はッ。離れろつッて離れる馬鹿は……居ねェだろうが」
ベリアルの足元の二人を見ると、まるで気を失っているかのように、這うことすら出来ないほど倒れ込んでいるようだ。その光景を見て、私の頭の中に、かつて見た光景がフラッシュバックする。
あの時もそうだった。私は倒れているだけで、仲間が殺されていくのを見ているだけ。体は動かず、声も出ない。
「……く……あっ」
突然視界がかすんで目眩に襲われる。何をしているんだ。こんなことをしている場合じゃない。また、繰り返すのか、私は。
「テメェの体はほとんど人間のもンだが、少しは天使の部分も残ッてたらしいな。道理でこいつらより”効く”のが遅れたわけだ」
思考が回らない。体が鉛のように重く感じる。もはや、意志の力なしでは瞼を開けていることすら困難な状態。
「悪魔……涙……か」
「おォ。冴えてンじゃねェか」
霧状になった悪魔涙。強力な悪魔であるベリアルの力そのものが、実態を持った霧。……それは、空気中に漂う”毒”だった、というわけ……ね。
天使とはいえ、呼吸をしなければ死ぬ。最も脆弱な”生命としての弱点”をベリアルに突かれた。
「で……だ。まず──どっちから殺して欲しいンだ? 言ってみろ。その通りに殺してやる」
「……ふざ、けん……な」
「ははッ。まだ喋れるだけの意識があったらしい。素晴らしいねェ」
ダメだ。死ぬ。糸が切れた人形のように、足に力が入らない。地面に倒れ込んでしまった。かろうじて見えるアンジュとドロシーは、目を瞑った状態で、まるで眠っているようだった。
「──いいねェ! その顔だッ! その顔なんだよッ! テメェの絶望したその顔だッ!」
「なに……を」
「天使の力は絶望の中でこそ輝くもンだ。テメェから奪っただけの借り物の力でも、俺は天界のゲートを開けたんだからな」
「感謝しろよ。あの”地獄”の再現のためにここまで役者を用意したやったンだからな」
……アンジュやドロシー、そして私が、この瞬間、この場所に居ることすら、自分の手のひらの上だって? 嫌なものね。……反吐が出る。」
「クソ……ッタレね……あんた」
「はッ! もっと絶望しろ! そして俺にその力を──寄越しやがれ」
もう私の視界はほとんど何も見えていない。かろうじて開いている瞼からは、”悪魔”がこちらへ近づいてきているのが分かる。足音が聞こえる。
「クハハハッ! これで俺は──地獄と天界を統べる”神”になるッ!」
悪魔が大声で叫ぶ。嫌でも聞こえる。最悪なものだ。聞きたくもない──と。また”かつて”と同じように、私は首元をベリアルに掴まれ、持ち上げられた。
「──貰うぜ? テメェの力」
ベリアルの足元に魔法陣が生まれ。手首にも同じように魔法陣が──。
「──くたばれ、……クソッタレな悪魔」
ベリアルの手首に魔法陣が生まれた瞬間。私は全身の力という力を腕に込めて、石のように重い手でヤツの腕を掴んだ。
「あァ? ……何のつもり……だッ⁉」
ベリアルの腕に展開されていた魔法陣が”消えて”いく。それどころか、ベリアルの腕は、私が魔導を使う際と同じように青白く発光していく。違うのは、それによってベリアルが、苦しんでいる、という点。
「何だ……ッ! 何だこれはあァッ!」
「……さぞ痛いでしょうね。身体の内側から身を焦がされるのは」
「ンだとッ……! グ……ッ!」
ベリアルの皮膚の表面がボロボロと剥げて、中から”白い光”が漏れ出していく。その箇所が増えるたび、ベリアルの叫びは大きくなる。
痛みに耐えられなくなったのか、悪魔は私を拘束する手をほどいた。それと同時に、拘束用の魔法陣も消える。
「……ずっと、不思議だった。悪魔は光の力に弱い。でもアンタは……”天使の力”という純粋な光の力を取り込んでも、平気だった」
アンジュとドロシーの下へ歩いていき、二人を揺さぶって起こそうとする。痛みに悶える悪魔を背にして。
「私の出した結論は単純。あなたは、私の力を魔導で無害化して、自らの力へと”変換”した。おそらく、さっきの魔法陣がそう」
「だったら……はァ……何だ……。分かったからと言って……どうにかできるもンじゃねェ──」
「できるわよ」
私は、ベリアルへと背を向けながら、言葉を紡ぐ。
「単純な話よ。魔導によってあなたの中の私の天使の力が無害化されている。なら、それを壊してやれば良い。そうでしょ?」
ベリアルは……まるで、光りに包まれているかのごとく、”自らの中の光”に滅ぼされようとしていた。
「ざけるな……ふざけるなッふざけるなッふざけるなァッ! そんなモンでこの俺が、このベリアル様が、”羽根なし”ごときにやられる訳が──」
もはや、ベリアルの体に腕はなく、足もボロボロ。翼はすべて消えていた。
「──さようなら。最悪で、クソッタレな、地獄から来た天使もどき」
「クソ──」
最後の断末魔。ベリアルが光りに包まれて消えていく。これで終わった。仲間の仇は討った。私は──やるべきことをしたのだ。
「……エイン……さん?」
ベリアルの死によって、周囲が光に包まれようとしていた瞬間。アンジュが私の頬を、手で拭った。




