30.鏡面世界
「はぁ……」
鏡面世界。黒居が生み出した、現実と鏡写しの世界。原理も方法も謎の黒居の術に、失翼も戦乙女も懐疑的であったものの、目下の問題に対処するため、目を瞑っていた。
「ため息とは、らしくないな? 失翼よ」
「むしろ、私らしいと思うけれど?」
タイムリミットは、刻々と迫りつつあった。大天使ミカエルがエインに渡した鍵によって、ゲートが開かれるまで、残り三日。だが、支度や準備のことを考慮すると、もう少し残された時間は短くなるだろう。
鏡面世界の神流川に座るエインは、その鍵を握りしめ、ため息をつく。”鏡写し”とは言うものの、鏡面世界の空はあたり一面晴れ模様で、水色と少しの白が占めている。
「……アンジュは、どうしているだろうか」
座っているエインの近くで、剣の素振りをしているヴァルキリーは、問いかけか独り言かもわからない言葉を呟く。どちらの天使も──気が気でない。特にエインは、ベリアルの残虐性を理解しているため、戦乙女以上に、だ。
「それは、独り言? それとも、私に意見を求めている?」
「……ただの、独り言だ」
エインは空を見上げる。彼女たちの頭上の青空は、”いつも”と同じように、雲が流れていく。雲。空。青色。
「ミカエル様を、信じてよいのかも分からない。あの時、なぜ盟友を連れていかれたのか……」
剣が空気を裂く、ぶんっ、という音だけが、静寂の中で響いている。だが、戦乙女は、迷いを捨てきれない。彼女の頭の中で、常に最悪の展開がイメージされる。ベリアルに殺されるアンジュ。ベリアルに殺される自分。ベリアルに殺されるエイン。
そして、天界全てが敵となる、想像。
「──くッ!」
剣を持つ手に、更に力が込められる。空を裂く音が大きくなる。
「そりゃ、単純な話でしょ」
「……?」
唐突に話を切り出したエイン。彼女に意識が向き、戦乙女の手が止まる。銀髪の天使は、近くのベンチに座りながら、話し始めた。
「……私達の所にいるより、ミカエルの手の届く所に居たほうが安全なのよ。……悔しい、けどね」
「そ、それは」
エインは立ち上がり、ポケットに手を入れて前を見る。
「ミカエルはいけ好かないヤツだけど、相手の力量を見定める力は本物よ」
「だからこそ──私達は、強くならないといけないの」
彼女は、ぐっと拳を握りしめた。前を見据えるその瞳は、以前のような迷いと焦りに満ちたものではなく、”自分がやるべきこと”を正しく認識している、そんな表情だった。
「……敵わないな、貴公には」
「そりゃどうも」
エインはそう言うと、左手の手袋を脱ぎ、ドロシーへ投げた。
「きゅ、急に何だ!」
困惑するドロシーと対象的にエインは冷静だ。戦乙女は、顔に当たる寸前でそれをキャッチする。
「解決案よ。スランプの」
「……これが、か?」
不思議そうな表情のドロシーであったが、その手袋を身につける。表面に刻まれた文様が、赤色の光を帯びていく。
「私達の力だけでは頭打ちの状態。なら、異なる力を取り入れればいい」
銀髪の天使のその言葉を耳にした途端、まるで何かに気づいたかのように、何かを察したかのように、ドロシーの目が見開く。
「まさか、とは思うのだが」
と、戦乙女は前置きし、
「えぇ。その”まさか”よ。互いの技を覚えて、自分の技に取り込む。それしかない」
納得できるような理屈でもあり、強引な理屈でもある。
「……確かに、手っ取り早いは、手っ取り早いが……」
エインの言う事は、あながち間違いではない。一から”魔導砲”のような大技を考え、かつ実用に足るものとするには、期間も物も何もかもが不足している。”魔導砲”は予め下地が合ったから良かったものの、そうでないのなら、かなりの時間がかかるだろう。
「とはいえ、我の技を再現できるまで、というのなら、それこそ長い時間がかかるぞ」
いずれにせよ、短期間で習得が可能、という保証はどこにもない。だが。
「完全に学ぶ必要はないわ。あくまでも、自分の技に活かせる部分だけでいい」
戦乙女は空を見上げ、息を吐く。
「無茶を言う……とでも言いたいところだが」
黒色の傘が宙を舞う。ドロシーの投げた傘を、次はエインが前に掲げた手でキャッチした。
「我の技をヴァルキリー以外が学ぶというのも、面白いな」
エインはニヤリと笑った。
「こちらこそ。ヴァルキリーに魔術を教えるのも、面白そうだわ」
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天界には二種類の天使が居る。一つは真面目野郎。もう一つは胡散臭い野郎だ。あの天束エインとかいうのは、前者だろうな。別にそれは良い。だが、オレは胡散臭い天使が、どうにも好きになれなくてね。そう例えば。
「ミカエルだ。ウリエルに許可は取ってる」
オレは今、天使長棟に来てる。光が差し込まない暗い場所だ。”お上”の視界が潰れそうなほど光が差し込んでいる場所とは違う。天使長に与えられた”場所”。その地下に入れるのは、天使長本人か、オレのような大天使だけ。
「お通りください」
ゲートに表示されたドット状のアイコンが、電子音でオレにそう告げた。ここは、外のきらびやかな雰囲気とは違う。何かが背中に重くのしかかってくるような、そんな錯覚を覚えるほど、息苦しく、重苦しい場所だった。
ゲートから少し歩くと、下の階層へと続く螺旋階段があった。剣が引っかからないかが心配だが、まぁ大丈夫だろ。
「……」
ラファエルの情報によれば、この下にあの赤髪の天使が居るらしい。大天使にすら開示されていない情報だが、アイツの持ってきたもんなら、間違いないだろ。
カンッと、オレが階段を降りる音が、ここらの空間に反響している。底も見えない空洞だが、どんだけ広いんだよ、ここは。
「チッ。仕方ねェか」
手すりを掴んで、螺旋階段の中央の吹き抜けを落ちる。はっきり言って、時間がない。オレだって、見習い天使がぽっと出のよく分からんヤツの手中にあるのを、黙って見過ごせねぇからな。
ガンッ。地面に着地したと同時に、無機質な音がした。少し足が痛む……が、そこまででもなさそうだ。オレの目の前の空間には、ただ暗闇が広がっていた。下ってきた階段以外は、何もない。
「居ンのか? 赤髪の見習い天使」
オレの声が反響する。どこまで広いんだ、この空間は。おまけに、オレ以外の気配を感じない。どうなってやがる、一体──。
『──ミカエルッ!』
……うるせぇ。耳元で大きな声がした。ガブ達との連絡用の通信機から発せられた音らしい。ガブのヤツ、いつも異常にテンパってるな。足を止め、耳に手を当てる。広い暗闇の中に、オレの声だけが反響していた。
「ンだよ。ボリューム下げろッての」
『──み、ミカエルっ! べ、べっ、ベリアルが! ベリアルが!』
焦るガブの声の後ろからは、悲鳴が聞こえる。何かが爆発しているような音も。
「……おいガブ。目を閉じろ。息を吸え。深く呼吸しろ。胸に手を当てながらな」
「はぁっ……。はぁっ……ふぅ……」
相当慌ててるっぽいな、ガブのヤツ。聞いてる限りじゃラファエルの声は聞こえない。たくっ。こんな時にも自由行動かよ。
「落ち着いたみてーだな? ……で、ベリアルが、何、だって?」
「ベリアルが……ベリアルが……」
「ベリアルが……悪魔を……天界に……。ミ……ルもす……戻っ……き……」
「あ? オイッ! ガブッ! ガブリエルッ!」
通信が途切れやがった。広大な暗闇の空間がまた静まり返る。やはり──あの見習い天使の気配は見当たらない。オレが地下に来たタイミングで、都合よく地上には悪魔が出現。しかもベリアルが絡んでやがる、だと?
最悪だ。してやられたか。あんな野郎に出し抜かれるとは、末代までの恥だ。
「チッ!」
背中の紅の羽根を広げる。ゴウッという羽ばたく音と共に熱風を巻き起こしながら、オレは必死に上を目指して飛ぶ。天井を剣で破壊しながら。
だが、石材を砕く音よりも大きい音が、耳に入ってきた。爆発音と、何者かの悲鳴。それを聞いたオレは──更に剣に力を込めた。
瞬間。黒い風景が一瞬にして光に溢れた光景へと変わった。天界に出た。だが、その天界は──。
「なんだよ……こりゃぁ」
天使長棟から少し離れた場所に、オレは出た。剣を掲げ、勢いよく地面から飛び出したからか、空中まで飛んでしまった。
だからこそ、天界の状況を、把握”してしまった”。
「……ベリアル、か」
眼前に広がっていたのは、燃え上がる”黒色の火”に包まれる、天使街だった。オレの使う炎とは違う。全てを飲み込もうとする深淵のような火が、そこにはあった。
「──あァ、漸く来たか」
背後からの声。意識が張り詰める。男の声だ。そして、その声色をオレは知っている。いけ好かない、人を小馬鹿にしたような口調と、傲慢を体現したかのような、雰囲気。
「遅すぎて死ンじまッたのかと思ッたが。なァ? 大天使ミカエル」
「……一つ、聞きたいんだが」
眼下にある街を指差す。黒い炎と……”悪魔”に、襲われる街。そこら中に魔法陣が見える。天使のものか、あるいは悪魔のもの、か。
「アレをしたのは、お前、か?」
「さァね。だがまァ……。悪魔に喰われる天使の悲鳴は──素晴らしいもンだね」
咄嗟に手が動く。剣を振るう。その”男”にめがけて。天界を侵す不届き者にめがけて。ベリアルに、めがけて。
緋色の炎が空間を焼き尽くす。だが、ソイツは、傷一つ付けずに、その空間から出てきやがった。
「はッ。いやはや、面白ェ力だ。お前と戦うのも悪くねェ。だがな」
眼の前にいるヤツは、さっきのオレと同じように街を指差す。
「民衆を護るか、あるいは俺と殺し合いをするか。……俺としては、どっちでも良いがなァ?」
「……っ!」
ガブリエルの連絡が途絶えてる。多分アイツは、そこらの悪魔に負けるようなヤツじゃない。……オレは。いや、そうだ。オレは賭けた。
ベリアルの指。それが指した場所へ急降下していく。全力で。緋色の翼を広げながら。
「はン。街と共に死ぬ事を選ぶか。せいぜい悪魔に殺されねェようにな」
うるせぇ。分かってるっつーの。テメェを殺すのは緋色の大天使じゃねェ。オレよりも向いてるヤツが居る。そいつに賭けたんだよ、オレは。
「──失翼の使い」
翼を失った天使、エインフィールドに、な。




