28.使命
聖安街は、稀に見る豪雨に襲われていた。降水量が特別多いという訳では無いが、ただ、降っている期間が長い。この街の天気予報は、向こう一週間を”雨”の予報が占めている状態だ。
本来、雨天時の河川には近づくべきではないのだが……。天束エインは神流川の流れを見て、物思いにふけっていた。
「…………」
彼女は言葉を発さずに、ただ川の流れを見ている。その眼は、ミカエルに”手伝ってやる”と言ってのけた天使と同じ生物とは思えないほどに、覇気を失っていた。
「天使といえども、ちっぽけなものね。この光景の前では」
いつもの川底が見えるほどに透明な水とは違い、今の神流川は土砂が混じって濁流のようになっている。空は曇り、水は濁る。まるで、失翼の心を表すかのように。
「……いつも、驚かされてばかりね」
エインは、傘を肩に掛けて、灰色の空を見る。
「……アンジュ」
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ここは、名の無い場所。名すら、無い場所。名を忘れられた場所。
ここは、空間。光に満ちた空間。全てが”あり”、全てが存在している、空間。
「──以上、四大天使ガブリエルとミカエルからの報告です」
ある天使がそこに居た。彼女は虚空へと言葉を発し、跪く。光のように煌めく金色の髪と、紫色の瞳を持つ、四大天使ウリエル。
「それでは、わたくしはこれにて」
ウリエルが踵を返すと、そこには、緋色の髪を持った、別の大天使が居た。
「……あら、珍しいですね」
そう言われた四大天使ミカエルは、あからさまに不快そうな表情になる。
「……チッ」
舌打ちだけした彼女は、がしゃがしゃと背中の剣の音を立てながら、そのままウリエルの横を通り過ぎる。
「……一応、忠告しておきますが」
金髪の四大天使は、ミカエルの方を振り返り、にっこりとした笑みで言う。
「ガブリエルとあなたが何をした所で、あの天使長の座が揺るぐことはありません」
剣が揺れる音が止まる。
「……あぁ、そうかよ。オレはそうは思わンね」
ウリエルは、表情一つ変わらない。口角を上げ、笑みの状態を維持し続けている。
「”思う”必要なんてありませんよ。私達は、ただ世界を”あるべき姿”に保ち続けるだけです。この体が、神の手の中へ還るその時まで」
緋色の天使も、振り向くことはなかった。だが。
「はン。ご苦労なこったね。オレぁそこまで、使命に従順になれそうにねェや」
「……テメェがしてるような、表情にも、な」
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「……スランプ」
どこにあるとも知れない林の中に、似つかわしくない服を着た、剣を構える少女が居た。黒色の髪に赤色の瞳、ゴシック衣装。ドロシー・フォン・ヴァルキュリアだ。
彼女の周りの木には、おそらく彼女の剣で斬られたであろう痕があった。
「……一閃を超える……一閃か……」
彼女の脳内に、ミカエルの姿が浮かぶ。その長身に背負う赤色の大剣は、それを持つものがただならない者であることを示唆している。彼女の剣を抜く動作、いやその視線の動きまで、ドロシーにとっては、恐ろしかった。
「ミカエル様に……勝てるような技……」
「はぁ」
ドロシーは、息を吐くと地面へ寝転んだ。彼女の上には、生い茂った木の葉の隙間から見える、青空。それはここが、聖安街から離れた場所であるということを意味していた。
「………」
戦乙女は、寝転んだまま、開いた手を空へと突き上げる。鳥のさえずりと、どこかにあるであろう川のせせらぎと、風で葉が揺れる音しか、彼女の耳には入っていない。だからこそ、集中して修行に取り組めると、判断していたのだが。
「──おや、ドロシーさんじゃないですか。こりゃどうも」
彼女の耳に入ってきたのは、人間の……男の声だった。しかも、それは彼女にも聞き覚えのあるもので。
「……。黒居……だったか? 見ての通り、我は忙しいのだがな」
英国紳士風の装い──山奥にそぐわないタキシードを着て、深めのシルクハットのつばで目を隠す男は、笑う。
「はは、面白い冗談ですねぇ、ドロシーさん。まぁ、寝るのが仕事の生物も、人間界には居るらしいですが」
「……ふん」
戦乙女は、気にもしていなさそうな顔であったが、黒居もそれを気にせずに続ける。
「……どうやら、大変なことになったようで」
戦乙女は、上を向いたまま口を開く。
「……大変、で済めばよいほうだ。我とて事を全て把握しているわけではない。だが……」
戦乙女の傘を拾う男は、それについた埃をはらう。
「四大天使が二人。おまけに彼女たちは、新しい天使長を快く思っていないときた」
寝ていたドロシーは体を起こし、黒居に呆れた顔をする。
「……知っているではないか。趣味の悪いやつめ」
「まぁまぁ。で、そこで、なんですが」
男は、その帽子を深く被り、腰を曲げて言う。
「──どうです? エインさんと一緒に訓練、てのは」
「は……。いや……。は……?」




