27.アンジュ・ド・ルミエール
「えっ」
地面に残る焦げ跡と、炎に焼かれた”何か”の匂い。迷路と化した住宅街。いつの間にか、小雨から大雨へと変わっていた雨が、その場に立つ二人の天使に降り注ぐ。
一方は剣を突きつけ、片方は、突きつけられ。
血のように紅い羽根は、一瞬にして、アンジュ・ド・ルミエールの視界から消失した。それもそのはず──。
アンジュが、自分の後ろにミカエルが移動したのだと気づいた時には、既に見習い天使の視界は暗い闇に閉ざされていた。
「……ったく。神サマさんよ、アンタが何をしようとしてンのかは知らねェが……」
気絶した天使と同じ色の髪を持つ、剣を背負った天使が、地面に伏せる見習い天使を担ぐ。
「……間違ってるぜ、とだけ言ってやる。あのベリアルとかいういけ好かねェヤツも、もしかしたら……アンタもな」
その顔は、抱く疑問を無理に噛み潰したような表情をしていた。
「──ミカエルッ!」
見習い天使を抱えたミカエルが、ある十字路へと差し掛かると、別の方角から彼女を呼ぶ声がした。ザーッという、雨のふる音。赤色の四大天使は、声の方へ顔を向ける。ゆっくりと。雨に濡れ、ほんの少し眼にかかる前髪の隙間から、眼を覗かせながら。
「天束……エインフィールドか」
「……意外なものね。あなたが私の名前を覚えている、なんて」
会話を交わす二人の口は、笑っていない。頬は固まり、その瞳は、冷たい目で真っ直ぐに正面の相手を見つめていた。互い、に。
「アンジュを……離して」
大天使は、言葉を返さない。無言のまま正面へ向き直ったミカエルは、その手を虚空にかざす。すると、シュウゥという擬音とともに、”何もなかった”空間に、羽根の意匠が施された、石造りの扉が現れた。
「……」
ミカエルは口を開かないまま、まばゆい光を放って開け放たれる扉へ、歩いてく。
「くっ!」
天束エインは、咄嗟に右手を前へと突き出す。左手でその手を支えながら、小声で何かを唱えると、彼女の足元と前方に巨大な蒼色の魔法陣が出現した。
「魔導砲ッ!」
「……」
失翼の魔導砲は、大天使へと放たれる。──が。
「なっ……!」
ミカエルは、自分の身に迫る”それ”を、左手で”はらって”みせた。まるで、衣服に付着した埃をはらうかのように。
「──失翼よ! 伏せろッ!」
刹那。瞬時。一瞬。天束エインの後方から、少女の叫び声がした。ミカエルは呆れた顔で、再びエインの方へ体を向けると、そこに居たのは。
地面に伏せるエインの後ろで、腰に下げた鞘の剣の柄を握り、前傾姿勢で構える、ゴシック衣装の少女の姿がそこにはあった。
「──一閃ッ!」
刹那。瞬時。一瞬。戦乙女、ドロシー・フォン・ヴァルキュリアの振るった剣から、光を帯びた剣の軌跡が放たれる。光を帯びたその剣閃は、ミカエルへ向かっていくが──。
「ちッ」
舌打ちだけした大天使は、見習い天使を抱えている腕とは逆の手で、背の緋色の剣を抜き、ドロシーの放った”閃”へ向けて振るう。
「な……。あ、ありえ……ない」
それは、天束エインの魔導砲同様に、赤子をひねるように、打ち消されるのみだった。
「……」
ミカエルは何も言わない。そのまま扉へと入り、天界へ帰還しようと……という所で、片方の膝を立てた中腰の状態のエインが、大天使へ問う。
「……アンジュを、どうするつもりなの」
雨の中。雨の降る音。それ以外の音が存在していない。雨に濡れたミカエルの真紅の髪が、動く。
「……知らねェよ。聞くンなら、オレじゃなくてベリアルとかいうヤツに聞きな」
「あなたは……大天使なんでしょう。なのに……天使を、……まるで、まるで……」
「ベリアルと、同じ、じゃない……」
エインが俯いて、悲しげに言う。深い悲しみ。聞いている戦乙女ですら、顔を伏せたくなるほどの、悲しみ。
「……あーあァ。怒られても知ーらねッと」
ミカエルは、立ち上がったエインへと、”ある物”を投げた。
「か……鍵?」
彼女の手の中にあるのは、極めて一般的な形の、金属製の鍵だった。持ち手の部分には、ミカエルが出現させた扉と、同じような模様が描かれている。
「五日後。天界のゲートを開けてやるよ。ベリアルを倒そうが、この見習い天使を救おうが、勝手にしやがれ」
失翼は、鍵を握りしめる。
「それをして……あなたの得になるはずがない。信用なんてできるはずが……」
そう言われたミカエルは、空の雨雲を見上げて、
「はン。悲しいねェ。四大天使が利益のためにしか動かないとでも?」
「どういう……意味?」
エインの顔は、未だ疑いの表情が強い。
「勘だ。オレの勘が言ってるンだよ。あのベリアルとかいうヤツは、いけ好かねェ上に、何かヤベェことを隠してやがる、ってな」
エインの横に来ていた、戦乙女が口を挟む。
「それで……我らに託そうというわけか」
ミカエルは、片方の手で”お手上げ”といったジェスチャーをしてみせた。
「バカ言ってんじゃねェ。お前らを信用したわけじゃねェよ。ただ……」
「ただ……何よ」
エインがそう言うと、ミカエルは、どこか深刻な面持ちで答える。
「引きこもりのラファエルも、ウリエルのお嬢も、ベリアルを天使長だと認めてる。オレと新米のガブだけじゃ、どうにも動けねェ。大天使が身内でやり合うってのも、現実的じゃねェ」
「オレ達の使命は、天使界の守護だ。たとえ、羽根無しの天使に頼ろうが、な」
ミカエルの嘆きを聞いたエインは、ため息をつき、
「それが物を頼む態度なの? まぁ、そういう奴だとは分かってるけどね」
エインは、大天使に、先程受け取った鍵を見せる。
「いいわ。五日後。アンジュを助けて、ベリアルを倒して、天界を救ってあげる。必ず、ね」
「……うむ」
隣の戦乙女も、同意する。
「ふン。気に入らねェ奴らだ」
とだけ言ったミカエルは、扉へ入って消えていく。
「──あァ。そう言えば、コイツを探してたのはベリアルだったっけなァ。ベリアルのヤツ、見習い天使を捕らえるなら、自分の手の届く場所に置くだろうなァ」
そう、言い残して。
「……全く」
エインは少しだけ口角を上げ、しっかりと前を見る。
雨は未だ、止まない。




