2.天使とおてんば学生お嬢様と
「……すごい街ね」
失翼の天使──天束エインは、ここ聖安街に流れる大きな神流川の土手を歩きながら、そう呟いた。学び舎へと向かうこのルートは、あのスーツ姿の男性が置いていた荷物の中のメモに記されていた。
その場所からは、天束エインが墜ちた場所の街並みを一望することが可能だ。川の反対側に見える景色は、高層ビル群や、大量の車。おまけに街中を走る空中電車。
街というよりは、巨大な都市と表現するほうが正しいだろう。
「“これ”にしたって、ずいぶんと進んでいるというか、なんというか……」
彼女の手に握られているのは、小型の電子デバイス。それを指で触りながら、天束エインが考え事をしていた矢先のこと。
外への意識が完全に遮断されていた彼女は、前を歩く人間に気づくことがなく、そのままぶつかってしまった。
「っ!?」
「──わ、わっ……!」
ぶつかった方、ぶつかられた方も共にその場にすっ転んだ。失翼の天使がぶつかった相手は、自分と同じデザインの制服を着る、金色の髪の美しい少女だった。
「い、いたた……」
「ごめん。大丈夫?」
「は、はい。少し擦りむいただけですから」
そう言うと、その金髪の学生は立ち上がろうとする。だが──途中でまたへたり込んでしまった。
「い、痛っ」
エインが学生の足を見ると、その膝に擦り傷ができていたようだった。生々しい傷跡からは血が溢れている。それを見た彼女は、
「そのままで。動かないでね」
「へ、へっ?」
元天使が、その傷へと手をかざす。だが、傷跡へと応急処置を行うわけではなく、ただ手をかざして目をつむっただけだ。
「あ、あの……」
「気にしないで。私が原因の怪我だから」
「いや、そうではなくて……って」
突然のことに困惑する女学生。だが──それに驚く暇も無く、彼女は非現実的な状況に置かれてしまった。
彼女の足下から──光る“魔方陣”が出現したためだ。
「な、何なのでしょう、これは……」
目の前で起こる事象に対して、ただ口を開けて見ていることしかできない学生。しかし、そんな事はお構いなしに、エインの手が──光り出した。
正確には、手に幾何学的な文様が浮かび、それが光を帯びている。
「一体、何が──」
失翼の天使が、光る文様が浮かぶ腕を女学生へと向け、口を開く。
『魔道治癒』
「──え」
天束エインが、そう小声で唱えた瞬間のことだった。女学生の足元の光の模様が輝きを増していく。そして、辺りがまばゆい光に包まれたかと思うと──。
「……あら? 傷が……」
光が消え、いつもの日常が戻ってくる。違和感を感じた女学生が、傷を負った膝を見てみると、綺麗さっぱりそれが無くなっている。跡もなく、まるで最初から怪我などしていなかったように。
「成功ね。腕が鈍っていなくて良かったわ」
元天使はその場で立ち上がって、女学生へ頭を下げた。
「迷惑をかけたわね。本当に……ごめんなさい」
そう言って、その場から立ち去ろうとする天束エインだったが──それを女学生は呼び止める。
「あ、あの! あなたは一体……」
「私? 私は……そうね」
元天使の人間は、ぶつかった女学生へ向き直ってこう言った。
「至って普通の──どこにでもいる学生よ」
・
・
・
「普通なわけないです!」
天束エインは走っていた。息が上がるほど、全力で走っていた。より正確には、ただ走っていたのではなく、執拗に引き止めようとする“学生”から逃げていた。
「ぜぇ……ぜぇ……はぁ……。ふ、普通ですけど!?」
「嘘ですよっ!」
元天使が全速力で走っているにも関わらず、息を乱すこともなく追いついてくる女学生。もはや抗う気も失せたのか、天束エインはその場で立ち止まり、ゆっくりと呼吸を整えようとする。
「だって、一瞬で傷を治すことができるなんて。お医者様でもそんなことはできませんわ」
「すぅ……。はぁ……。あなたが見たことがないだけか、あるいは目の錯覚でしょう」
「……残念だけど、私急いでるから。さっきのことは申し訳ないと思っているわ」
息を整え、すたすたと歩き出す天束エイン。だが、まだ女学生は絡んでくる。
「あ、その、あなたを引き止めたのは、それが理由ではなくて」
「よろしければ──ご一緒に登校しませんか?」
それを聞いて目を点にする天束エインと、ニコニコ笑っている金髪の女学生。その微妙な間に鳩の鳴き声が響く。
「……って。もしかしてあなたも?」
「はい。萩目学園の学生なんです」
萩目学園とは、共学の高等学校だ。普通の生徒はもちろん、学園の方針によって、天束エインのような素性の知れない者も受け入れている。
「そうだったのね。ならご一緒させてもらおうかしら。道が分かるか不安だったから」
「わかりました。では一緒に行きましょう?」
金髪の女学生は、大げさとも言える動きで喜んでいる。
「……喜びすぎじゃない? ……えーと。名前を聞いても?」
「もちろんですっ!」
その学生は、エインの前へと出て、お辞儀をした。
「萩目学園二年の萩目さくらです。仲良くしてくださいね」
それを聞いた元天使は一瞬考え込んだあと、
「……うん? 萩目? 学園の名前と一緒なのね」
「はい。お母様が理事長を務めてますから」
声には出ないものの、表情を見るだけで驚いている、そう察することが可能な表情をする元天使。
「え? そ、そんな人とぶつかっちゃったわけね……。恐れ多いというか何というか」
だが、彼女の前にいるお嬢様の反応は、特に怒るようなものではなく。
「そんなに畏まらなくてもいいですよ。なにせ、同じ学生なのですから」
「そういうものなの……?」
エインにそう問われた萩目さくらは、微笑んだ。
「そういうものなのです」
元天使も、自然と笑みがこぼれる。出会い方はアレだが、天束エインと萩目さくらは、少し打ち解けられたようだった。
「……そうね。言い忘れてたわ。私は──天束エインよ。よろしくね。萩目さん」
「はい、こちらこそ! 天束さん」
──天束エインは、孤独でなくなった。
それは、地上へ墜ちたがゆえに──。
「それで……本当に普通の学生ですの?」
「それは本当よ。……本当だからね!?」