第十話 不安と心配が入り交じって、守りたくて、側にいて
午後八時に家を出ると、洋平と美咲は、タクシーでしろがねよし野に向かった。
週末の繁華街。人通りは、先週と同じく多い。眩しいくらいのネオンが、周囲を照らしている街。大きな広告用の電光掲示板。ビルに入っている店舗から漏れる光。道路を走る車のライト。
ここは、夜でも――いや、夜だからこそ、光に満ちている。人工的で、見方によっては禍々しささえ感じる光。
国道沿いの、しろがねよし野の端にあたる場所。
洋平と美咲はタクシーから降りた。
洋平は、美咲に買って貰った厚手のパーカーを着て、ジーンズを履いている。ジップアップのパーカーの中には、特殊警棒を忍ばせていた。
美咲は私服に着替えていた。ダークグレイのセーターにモスグリーンのワイドパンツ、黒いフーディーコートを羽織っている。
四月も下旬に差し掛かってきて、先週よりは暖かい。けれど、家の中と比べると、やはり寒い。
洋平は、家の中で暮らすことに馴染んでしまった自分を自覚した。ほんの少し前までは、これくらい暖かいと安心できたんだけどな。胸中でそう呟き、音のない溜め息をついた。もし美咲の家を出ることになっても、こんな季節に外で寝るなんて、もうできないかも知れない。
時刻は、午後八時十五分になっていた。
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
洋平と美咲は、しろがねよし野の中心部に向かって歩き出した。すれ違う無数の人々。集団の若者。飲み歩く中年のサラリーマン。男も女も、数え切れないほどの人がいる。
「で、どうやって客を探すんだ?」
歩きながら、洋平は素朴な疑問を口にした。美咲は、風俗店に所属しているわけではない。そんな彼女に、積極的に売春を持ちかける男がいるとは思えない。せいぜい、ナンパしてくる男くらいか。
質問をした洋平に、美咲は、自分の経験談から話し始めた。
「最初はね、SNSで相手を募ってみたの」
「ああ」
頷きつつも、洋平は、SNSとは何なのか分からなかった。
「でもね、冗談みたいにたくさんの男から返信があってね。この中から選ぶなんて無理だな、って」
「それで、どうしたんだ?」
「風俗店が密集しているあたりで、それっぽい人を探すの。風俗に入ろうか迷ってる感じの人とか、どの店にしようか迷ってる感じの人とか」
「感じの人って……そんなの、分かるのか?」
「うん」
美咲は即答した。
初めて売春をしたときは、こんな方法は使わなかった。そんなことを言って、彼女は話を続けた。
「初めてのときはね、向こうから声を掛けてきたの。今思えば、ナンパの一種だったのかも知れないけど。ただ、最初から金額を提示してきたから、やっぱり売春の誘いだよね」
「金額を提示って、どんなんだよ」
「三万でどう、って。それまで売春なんて考えもしてなかったから、最初は、何を言ってるのか分からなかった」
歩きながら話す美咲の横顔は、遠い昔のことでも思い出しているかのようだった。視線は、遠くを見つめている。
「その男の言った意味が分かったとき、驚いたな。だって私、その時、まだ中学二年だよ? まあ、私服だったから、歳なんて分からなかったんだろうけど。後で歳を聞かれたときは、咄嗟に、十九歳なんて嘘ついちゃったし」
さすがに十九歳は無理があるよね。そう言って、美咲は笑った。当時の彼女は、まだ十三歳だった。
「知らないとはいえ、中学生を金で買おうとする男がいることに、驚いちゃった。でも、それよりも――」
「何だ?」
美咲の笑みの形が変わった。どこか嬉しそうで、どこか寂しそうな笑顔。口の端が皮肉げに上がっている。
「――私なんかをお金を出してまで買おうとする人がいることに、驚いちゃった」
「……」
美咲は美人だ。言葉は蓮っ葉なところがあるが、心根は優しい。料理も上手いし、家事全般を問題なくこなせる。どう考えても「私なんか」などという卑屈な言葉が似合うタイプではない。
けれど、その言葉は、美咲の本心なのだ。歩きながら話す彼女の横顔から、それが容易に分かった。洋平が見ている彼女の表情には、嬉しさよりも寂しさが色濃く出ている。
本当は、美咲に売春などさせたくない。それが洋平の本心だった。絶対に守ると決意している。そのための努力もしている。いざとなったら、自分を犠牲にしてでも守ろうと思っている。それでも、自信がない。特殊警棒という武器を携帯していると言っても、自分はそれほど強くないのだから。
でも、止められない。やめろなんて言えない。美咲が自分の価値を見い出す方法は、現在のところ、これしかないから。やめてしまったら、彼女には何もなくなってしまう。
美咲自身が、売春以外で自分の価値を見い出すまで。彼女自身の口から「売春をやめる」という言葉が出るまで、止めることはできない。
しろがねよし野の中心部に着いた。周囲には、風俗店が多数入っているビルや、単独の建物で営業している風俗店もある。
「じゃあ、私、客探しするから」
「ああ」
心に痛みを感じながら、洋平は頷いた。美咲を止めることはできない。それなら、守るしかない。守り切らなければならない。
「ここからは、俺は一緒に行動しない方がいいよな?」
「そうだね。少し離れて見張ってて」
「ああ」
「じゃあ、よろしくね」
周辺には、やはり多くの人が行き交っている。だが、ここに来る前に比べて、周囲にいる人の割合は圧倒的に男が多い。風俗店密集地だからだろう。
体力の温存も考えて、洋平は、まだレーダーを使っていなかった。周囲の人の動きが完全に見渡せるうちは、肉眼だけで警戒する。
美咲は車道を横切った。風俗店の看板を見ている男がいた。声を掛けた。少し太った、中年の男。声は、洋平のところまでは聞こえない。
美咲は男と話しながら、自分の指を三本立てて見せた。値段交渉だろうか。指が三本――三万。そんなところだろう。
驚くほどあっさりと、男は頷いた。美咲に向かって、コクコクと首を縦に振っている。
洋平は、毎晩美咲とセックスをしている。自分の情欲を抑えることもなく。それこそ、獣のように彼女の体を貪っている。言ってしまえば、彼女の前で興奮しているあの男と、自分は同じなのだ。
それなのに、何故か苛立ちを覚えた。美咲の交渉を一分も考えずに受け入れた、あの男に。つい、懐に忍ばせた特殊警棒に手を添えてしまう。胸が、攻撃的な感情に満たされた。このまま走って道路を横切り、特殊警棒を振りかぶって、あの男の頭に振り下ろしてやりたい。そんな衝動に満ちた。
洋平は大きく深呼吸をした。自分を落ち着かせるために。自分は、そんなことをしに来たんじゃない。美咲の邪魔をしに来たんじゃない。彼女を守るために来たんだ。彼女を守るために、ここにいるんだ。
男を連れて、美咲は歩き出した。向かっているのは、しろがねよし野のラブホテル密集地だった。
彼女達とは反対の歩道で、見失わないようにしつつも一定の距離を空けて、洋平は後をつけた。
風俗店密集地から抜けた。周囲にいる人達の男女比が、ほぼ半々になった。変わったのは、そこにいる人達のペアリング。この辺りでは、男女が一対一のペアで歩いていることが多い。
美咲が、男を連れて、立ち並ぶホテルのひとつに消えていった。
ホテルの料金表の表示は「休憩三時間:3500円~、宿泊:7500円~」となっている。
三時間か。長いな。洋平は軽く溜息をついた。
この周辺はホテルが密集している。別の言い方をすれば、建物と建物の間に隠れやすい。つまり、どこかに誰かが潜んでこちらを狙っていたとしても、気付くことは難しい。
肉眼では、だが。
洋平はレーダーを広げた。半径十五メートルほどの探知器官。自分の触覚。昆虫が触角で周囲を探るように、辺りの様子を探る。
三時間もの間、待ちながら警戒する。相当疲れることが予想された。この仕事が終わった後の疲労を考えると、気が滅入った。
洋平の頭には「美咲が宿泊でホテルに入るかも知れない」という発想はなかった。彼女が、待っている洋平を気遣うこともなく宿泊を選択するなんて、考えもしなかった。
すでに洋平は、美咲を信頼し切っていた。そういった自覚もないうちに。
少しでも体力を温存させるために、洋平は、近くのラブホテルの壁に寄りかかった。その場に座り込む。目を閉じる。視界が真っ暗になっても、レーダーで周囲の動きは分かる。
美咲達が入ったホテルに、一組の男女が入った。その隣のホテルからは、腕を組んだ男女が出てきた。洋平が寄りかかっているホテルに入る男女。男の方は、抑え切れない情欲を隠すこともなく、女の肩を抱きながら胸に触れている。
レーダーの長時間維持は、想像以上に体力を消耗させた。使用し始めてから三十分ほどで、驚くほどの空腹感に襲われた。
まだ、たったの三十分だ。休憩時間の六分の一程度。
こんなことなら、カロリーの高い食べ物を持ってこればよかった。レーダーを広げながら周囲を警戒する洋平の脳裏に、チョコレートなどの高カロリー食が思い浮かぶ。空腹を訴えるように、腹がグゥと鳴った。
今のところ、気になるような者の気配はない。それならば、体力温存のために、一旦レーダーを解いてもいいんじゃないのか。そんな考えが洋平の頭に浮かんだ。
苦しいことから逃げ出し、楽な道に走る誘惑。後で後悔すると分かっていても、その道に進みたくなる。
駄目だ!――自分を叱責し、洋平は首を横に振った。少しの油断が、美咲を破滅に導く可能性だってある。誓ったのだ。彼女を守り抜くと。だから、絶対に手は抜かない。
集中し、レーダーで周囲を監視し続ける。気を抜かず、手も抜かない。
そんな体力を奪う時間が、どれだけ流れただろうか。
洋平が寄りかかっているホテルと、隣り合わせのホテル。その、建物と建物の間。
そこに、一人の男の気配を察知した。
ホテル周辺で、建物と建物の間に入る必要がある者など、いるだろうか。いるとすれば、どんなケースだろうか。
建物の隙間に隠れて、立ち小便か? いや、レーダーで男の動きを探ったが、小便をする気配などない。では、覗きか? いや、違う。
男の視線は、こちらを向いている。洋平を観察している。
緊張で、体に汗が浮き出てきた。ホテルの隙間の男は、こちらを見ている。何のために? 考えるまでもない。
洋平は、ゆっくりと立ち上がった。座ったままでは、いざというときに咄嗟に動けない。できるだけ体力を失わないように壁に寄りかかりつつも、動きやすいように、足を肩幅ほどに開いた。
右手を懐に入れる。パーカーの中に忍ばせた特殊警棒を握った。ヌルリとした感触。手の平が、汗ばんでいる。全身が緊張していた。
洋平は、決して男の方に視線を向けなかった。自分が男の存在に気付いていると、悟られたくなかった。もし、向こうが不意打ちのつもりで襲いかかってきたら、逆にカウンターを食らわせてやる。そんなことを目論んでいた。
美咲がホテルに入ってから、おそらくは一時間半ほど。たっぷり休憩時間を使うつもりなら、あと一時間半は出てこないはずだ。
どうせなら、俺ひとりのときに襲いかかってこい。それなら、万が一負けても、やられるのは自分ひとりで済む。
来るなら来い。早く来い。
襲いかかってきたら、すかさず警棒を懐から抜いて、居合いのように叩き込んでやる。剣道などやったこともないのに、洋平はそんなことを考えていた。
男は襲いかかってこない。襲ってくる気配すらない。こちらを、ただじっと観察している。
そんな時間が、どれだけ続いただろうか。男は洋平から視線を外し、建物と建物の隙間から出てきた。洋平がいる方向とは逆方向に進んでゆく。
男が、レーダーの範囲から出た。肉眼でしか追えなくなった。彼の、後ろ姿。五分刈りの坊主頭。スーツを着込んだ、ガッシリとした体つき。
男の方に初めて視線を向けて、洋平は考え込んだ。
どういうことだ? どうして襲ってこなかった? あれだけ俺を観察していたのに。
ふと、洋平の頭に、ひとつの仮説が浮かんだ。
――あの男は、美咲を助けたのが俺だと確信していないんじゃないか?
あのとき洋平は、男達を一発ずつだけ殴り、すぐに逃走した。顔を見られないように。逃げながら何度か振り返って、彼等の様子を観察した。だが、顔を明確に判別できるほど近い距離ではなかった気がする。
だとすると、今の男の行動も、去って行った理由も想像できた。
今の男は、美咲と、彼女を助けた男を捜していた。そこで、怪しい動きをする洋平を見つけた。だから、しばらく見張っていた。しかし、洋平はずっとひとりだった。美咲と合流する気配はない。そのため、人違いだと判断した。人違いなら、当然見張る必要もない。だからこの場を去った。
筋が通っている気がした。むしろ、これ以外に、今の男が去る理由などないとすら思えた。
自分の仮説に確信を持った洋平は、大きく息を吐いた。安心して、力が抜けた。ようやく、懐に忍ばせた特殊警棒から手を離した。
手は、汗でビッショリになっていた。
壁に寄りかかったまま、ズルズルと背中を擦らせてその場に座り込んだ。それでも、レーダーは解かない。ひと山越えたからと言って、それが気を抜いていい理由にはならない。
しかし、結局、その日は何も起こらなかった。
美咲がホテルから出てきたのは、さらに一時間ほど経った頃だった。