木になりたい
私はその日、ただ闇雲に歩いていた。
冷たい風が吹く、冬の夕方だ。
こんな風の日の吹く寒い日に歩いたのは、実は初めてではない。
私が小学生……確か五年生の頃も、こうして歩いていた。
遠いその日、私の頭の中ではグルグルと同じ言葉が回っていた。
(気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……)
気持ち悪いんだ、私。
私は集団になじめない子供だった。
どうやって他人と仲良くなればいいのかよくわからなかったし、仲良くならなければならない、切実な欲求もなかった気がする。
『学校』という場所へ行き、机の前に座って勉強をする。
体育の授業の時は体操服に着替えて運動し、給食の時間には給食を食べる。
別に楽しくはなかったが、嫌でたまらないほど苦痛でもなかった。
子供というのはそんな風に暮らすものなのだろうと漠然と思っていて、それ以外の選択肢など、私にはそもそも思い付かなかった。
だから漫然と学校へ行き、漫然とクラスにいて、終わると家に帰る生活を私は続けた。
疑問らしい疑問も特に感じなかった。
もしかしなくても馬鹿な子だったのだろう、成績の問題ではなく。
しかしそんな馬鹿な子も馬鹿なりに、十歳を過ぎる頃には自分が他人とは違っていることを自覚し始める。
きゃらきゃらと笑い合っているクラスメートの誰彼が、ようやく私の視界・私の意識へ入ってくるようになった。
本来ならあんな風に過ごすのが『子供』なのだと私は気付く。
でも、どうやって『あんな風』に付き合えばいいのかわからなかったし……もっと言えば、無理して付き合いたいとも思わなかった。
休み時間はお気に入りの本を読んで過ごすことがその頃には定着していて、それで特に不満はなかった。
むしろ、休み時間は外で遊びましょうなどと担任の先生に教室から追い出される方が、私にとっては迷惑だった。
五年生になった。
私は相変わらず、机の前で本を読んで休み時間を過ごしていた。
クラスメートたちはそれぞれ、仲良しとおしゃべりをして盛り上がっていた。
きゃらきゃら笑い合っている彼ら彼女らをただ見ているだけで、私は十分面白かった。
なんというのか、動物園や水族館で檻や水槽越しに綺麗な生き物を眺めているような、そんな気分だった。
読みかけの本から目をあげ、私は彼女たちを見た。
いつもしていることだ。
だが、その『いつもしていること』が気に障る子がいたらしい。
「ねえ」
尖った声で呼びかけられ、私は意味もわからず目をしばたたいて彼女を見た。
「あんた、いつもそうやってニヤニヤしながらこっち見るよね?何?何か言いたい事でもあるの?」
「……え?」
本気で言われたことの意味がわからず、私はぼんやりと問う。それがさらに彼女の怒りを煽ったらしい、彼女は更に目を吊り上げる。
「え?じゃないよ!とぼけちゃって!あんた気持ち悪いんだよ、ろくにしゃべらず本ばっかり読んで、時々ニヤニヤしながら人のこと見てさあ」
ニヤニヤ……していたのだろうか、私は。
楽しそうな彼女たちを見ているのはほほ笑ましく、見ているとほっこりするとでもいうのだろうか?そんな気分だったのは確かだが……『ニヤニヤしている』つもりはなかった。
「とにかくこっち見ないでよ!気持ち悪い!」
吐き捨てるような口調で彼女は言った。
その時にチャイムが鳴り、後はうやむやになった。
出来事としてはうやむやになったけど、私の中ではうやむやにならなかった。
『気持ち悪い!』という叫びが、鋭いナイフのように胸に突き刺さって消えることはなかった。
気持ち悪い。気持ち悪い。
私は気持ち悪い。
怒りではなく不思議な納得感があり、更に私はうろたえた。
自分でもわからない、自分でも持て余す普通ではなさそうな自分の感覚。
『気持ち悪い』と言う形容があまりにも当たっていて、当たっていることに絶望に近い納得感があり、途方に暮れるしかなかった。
学校が終わる。
いつも通りランドセルを背負って校門を出た。
だけど今日だけは何故か、真っ直ぐ家に帰る気になれなかった。
いつもの四つ角で、私は入学以来初めて反対側へ曲がり、ひたすら道なりに進んでいった。
ふと気付くと、私は知らない場所にいた。
川沿いに作られた小さな公園。
そこは、取りあえずはそうとでも呼ぶしかない場所だった。
桜並木のある河川敷を公園っぽくした……が正しいような、どこか投げやりな感じがある。当時子供だった私でもそんな雰囲気を感じたくらい、寒々しい場所だ。
意味もなく空を見上げる。
冬の夕方だ、日没は早い。
空はもはや宵と呼びたくなるような暗い色だ。
疲れた。急に身体が重くなった気がした。
辺りを見回し、のろのろとベンチへ向かう。ランドセルを置き、座り込んだ。そして私は薄闇の中で風にゆれる、葉を落とした桜の木々を私はぼんやりと見上げた。
「いいなあ、木は」
ほろっと口から出てきた言葉に、私自身が驚いた。驚いたが、それが本音だとすぐわかった。
そうだ。
私はきっと人間として生まれてくるべきじゃなかったんだ。
大地に根を張り、枝を伸ばし、ただまっすぐ生きる存在。
何故とかどうしてとか考えず、生きる為に生きる存在。
そんな生き方の方が、私のような者にはきっとずっと似合っている。
何故か涙が出てきた。うつむき、滴り落ちる塩辛い涙を手の甲でぬぐう。
「本当にいいと思うのなら。木になればいいわ」
聞き覚えのない静かな女の人の声が、不意に斜め向かいから響いてきた。
涙を呑み込み、私は顔を上げた。
斜め向かいのベンチに、いつの間にか女の人が座っていた。
焦げ茶色の、あたたかそうな起毛の毛糸で編まれたジャケットとロングスカート。
同じ色の糸で編まれたベレー帽。
首元を覆うほんのりピンクの入った柔らかそうな白いマフラー。
地味で垢ぬけない装いの人だ。
その人はどういう訳か、とんでもなく年寄りのように見える反面、私より少しだけおねえさんの少女のようにも見える、不思議な雰囲気があった。
手元には繊細な銀の編針があり、更に繊細な白い糸で涙型に見える小さなモチーフを編んでいた。
傍らに置かれている、ピクニック用のお弁当を入れるような大きめの藤のバスケットに、編み上げたモチーフがこんもりと盛り上がっていた。
こんな小さなモチーフを、こんなに大きなバスケットからあふれるくらいの数を編むなんて気が遠くなりそう、と、私は腫れぼったい目でぼんやり思った。
時々風がモチーフをひとひらふたひら、ひらひら飛ばしてしまっていたけれど、彼女はまったく気にしていなかった。
「なりたいのならなればいいのよ、誰も止めないわ。あなたさえ本気なら、なろうと思えば何にでもなれるものよ」
当たり前の事のようにそう言うと、彼女は薄くほほ笑んだ。
邪気のない、可愛らしいとさえ言えそうなほほ笑みだったが、その白っぽい顔に浮かぶ薄いほほ笑みに、私は背筋が冷えた。
「な、なればいいって……む、無理。無理無理、絶対無理!」
なんとなく追い詰められたような気分で私は叫ぶ、叫ぶ必要などないのに。
「無理じゃないわよ。無理だと思うあなた自身が、自分で自分を縛っているだけ」
彼女は歌うようにそう言うと、ゆうらりと立ち上がった。思っていたより背の高い人で、少し驚いた。何故か、瞬間的に彼女が覆いかぶさってきそうな恐怖を感じ、私は竦む。
「あなたの思いが本物ならば」
軽く腰をかがめ、彼女はバスケットから一掴み、モチーフを掬い上げた。
「力を貸してあげる。私と同じものになりましょう」
笑みを含んだ茶色っぽい瞳が、途轍もなく恐ろしい。私は訳のわからない声を上げ、一目散に来た道を駆け戻った。
彼女は追いかけてこなかった。
別に、その日から何かが劇的に変わった訳じゃないけれど。
私は『人間』である努力をすることにした。
私と同じものになりましょうと笑う彼女が、私は心の底から恐ろしかった。
誘いに乗った方がもしかすると良かったのかもしれないと、時折思わなくもなかったが、決まって次の瞬間、生理的な恐怖が湧き上がった。
やっぱり人間をやめるなんて無理、だと思う。
そもそも私は、今の自分が決して嫌いではなかった。
『人間』であることが止められそうにないのなら、他の『人間』たちに何とか受け入れてもらえるように努力した方がいい。
自分のやりたい事だけを自分のペースでやっていては、どうやら『人間』たちに気持ち悪いと思わせてしまうらしい。
特別彼らに好かれなくてもいいから、嫌悪されないよう努めよう。そう決めた。
『人間』らしい行動のあれこれは、やった事がないから色々と難しい部分もあったけど、今まで漫然と学校に通っていたとはいえ、彼ら彼女らの行動パターンをそれとなく見てきた。
特にやりたくなかっただけで、頑張れば出来なくはない。
努力の結果、私は、小学校を卒業する頃になんとか『気持ち悪い』とは言われない程度に『人間』らしい行動がとれるようになった……多分。
そんな私の変化に、両親も内心ほっとした様子だった。
どうやら、気付かないうちにかなり心配をかけていたらしい。
人間らしくする擬態をして正しかったし、その擬態が思いの外うまくいっているのに、私は密かに胸をなでおろした。
私のコレが擬態でしかないことはわかっていたが、それをわかっているのは自分だけだから誰にも迷惑や心配をかけていない。だからこのまま擬態を続け、ひっそり生きてゆこう。
そう思っていた……あの日までは。
中学生時代をどうにか乗り切り、高校生になった。
最近、自分が擬態していることを忘れるくらい、私の『擬態』は熟達してきていた。このまま中学時代のように、高校時代も何とかやり過ごせそうだと思い始めていた。
事の起こりは高校へ入学してすぐ、プールや部室のプレハブがある区画の隅に、シロバナタンポポが咲いているのを見つけたこと……だ。
私は元々『雑草』と呼ばれる儚くもたくましい草たちが好きで、中学生くらいから『雑草』じゃなくて名前を知りたいなと思うようになった。
文庫本サイズの小さな図鑑をお小遣いで買い、道端や公園の隅に生える草の名前を調べ始めた。
普段は引きむしって捨てられるだけの雑草にも、ちゃんと名前がある。
ひとつひとつ名前を知ってゆくと、胸がほんのりあたたかくなった。
役に立たない(としか思えない)道端の草をちゃんと調べ、分類し、名付けている人が昔からいると思うとなんとなく、私も生きていていいんだと思えた。
そこにタンポポの群生があるのは、オリエンテーションで校内を回った時に気付いた。
タンポポ自体は別に珍しくないけれど、咲きかけの蕾の中に、がくから覗いている花びらが普通よりかなり白っぽいものがまざっているのに気付いた。ひょっとするとシロバナタンポポの株が混じっているかもしれない。
今までシロバナタンポポの花を直に見たことはない。でも、図鑑の写真の可憐な姿を見て、いつか直に見たいなと思っていた。
でも、まさか入学したばかりの高校の敷地に、憧れのタンポポが生えているなんて。
この学校が好きになれそうだと私は嬉しくなった。
放課後になり、いそいそとシロバナタンポポを見に行く。
プレハブの陰から顔を出してみると、タンポポのそばでうずくまってなにやら一心にスケッチしている先客がいた。ショートカットの女の子だった。思わずくるりと回れ右をした。
「待ってよ」
声をかけられ、硬直する。
私は男の子も苦手だけど、女の子も苦手だ。
いっそうんと年の離れた子供や年配者の方が、気楽に接することが出来た。同年代の少年少女の相手をするのは、私には難しい。
声を振り切ってしまいたかったけれど、それは『人間』として非礼もしくは気味の悪い行動だとさすがに学んでいる。渋々足を止め、私はふり返った。
スケッチをしていた女の子は、A5ほどの小ぶりなスケッチブックを閉じて立ち上がる。
「やっぱりシロバナタンポポ、見に来たんだ」
ニコニコしながら彼女は言った。
「シロバナタンポポに興味がありそうな子がいるなぁって思ってたけど。速攻で見に来るくらい、ホントに興味あったんだ」
色々な意味で驚き、私はまじまじと彼女の顔を見た。鼻から頬にそばかすが散っている、愛嬌のあるやんちゃな少年を思わせる女の子だった。
「どうして……わかったの?」
茫然としながら訊くと、彼女は明るく笑って言った。
「興味があったからだよ。シロバナタンポポにも、シロバナタンポポに興味がある子にも」
それがミホとの出会いだ。
ミホは変わった子だった。
私がこんなことを言うのもどうかと思うけど、彼女はある意味、私とは反対方向に突出した『変わった子』だと思う。
私は周囲(の人間)にあまり関心はなかったけど、彼女は人間を含めあらゆることに関心を示すのだ。
興味ある事にグイグイ迫るから、時々、生意気だとか空気が読めないだとか言われて嫌がられ、しょんぼりすることもあったけど、彼女の貪欲な『関心』は決して衰えなかった。
「だって、きっとそのうち漫画のネタになるもん」
彼女は笑う。
そう、彼女は漫画家を目指して中学生の頃から頑張っているのだ。
シロバナタンポポをスケッチしていたように、暇をみてはスケッチをして画力を鍛えていたし、聞きかじった面白い話をメモしたりもしていた。
メモのエピソードを組み合わせてストーリーを練り、お話のストックを作っていた。
ちょくちょく聞かせてもらったけれど、ミホの作ったお話はどれも面白かった。明日にでも漫画家デビュー出来るんじゃないかと私はよく思った。
「そんな訳ないじゃん」
ミホはそばかすの散った顔を盛大にしかめた。
「私程度の画力の人も、私程度にストーリーが作れる人も、世の中にはいっぱいいるんだよ?ナニカを超えなきゃ、プロになんかなれないんだから」
「ナニカって何?」
ちょっとびっくりして私が訊くと、ミホは苦笑いをして言う。
「それがわかったら、私はもうとっくにプロになってるよ」
雑誌の公募でいつも小さく名前が載るだけの存在。いっそ完全に無視されてるんだったら、あきらめきれたかもしれないのに。
彼女はよくそう言っていた。
「クミは生まれつきナニカを超えてる気がするけど……」
『クミ』は私の名前だ。でも一瞬、それが自分の名前だとは思わなかった。『クミ』という何かがあるのだろうと、ぼんやり思っていた。
「え?わ、私?私は絵も描けないし、お話だって作れないよ?」
『クミ』が自分の名前だとようやく気付き、さっきよりもっとびっくりして言った。
そういうことじゃないよとつぶやき、ミホは苦笑いを深めた。
「現実で精霊に、私と同じものになりましょうなんて誘われる人、絶対ナニカを超えてるよ」
「え、でも。それ、だけどさ……」
私は目を伏せる。
あの日の不思議な出来事を、私はある冬の日、魔が差したみたいにふっとミホに話してしまった。
ミホなら、この話を馬鹿にしたり面白おかしく言いふらしたりしないと信じているけど、やっぱり言うべきじゃなかったと後悔していた。
「私の見た夢だとか空想だとか……嘘だとか。ミホは思わないの?」
普通の『人間』だったら絶対そう思って笑い飛ばすか、気味悪がる。だけどミホは真面目な顔になった。
「思わない。クミは絶対そんな嘘を吐かないし。もしかしたら夢とか空想かもって思わなくもないけど、夢や空想が経験じゃないって言い切れる?」
そこでミホはニヤッと、やんちゃ坊主みたいに笑った。
「大体、経験とおんなじくらい重い夢や空想が描けない漫画家なんて、漫画家じゃないでしょ?」
そこでアハハと笑うべきだったのに。
私は、泣いてしまった。
あの遠い日、私がまぎれ込んだ河川敷の公園。
もう十年は前になる。
おぼろげな記憶だから何とも言えないけど、公園は更に寂れた気配がしていた。
奥へ進む。
桜の並木は十年前とあまり変わらない。
が、ところどころに置かれたベンチは、色が剥げたり欠けたりしていた。
「あら、いらっしゃい」
声をかけられ、ぎくっとしながらそちらを見た。
彼女だ。
焦げ茶のジャケット・ロングスカート・ベレー帽。
首を覆う淡いピンクがまざった白いマフラー。
繊細な銀の編針と、もっと繊細な白い糸。大きめのバスケットからあふれ出ている、何千枚になるであろう小さなモチーフの山。
十年の年月など、彼女にとっては昨日のような感覚なのかもしれない。
「やっぱり木はいいなって思うの?」
私へ視線を向けながら、手を止めずに彼女は言う。
白い指は器用に編針を動かす。
瞬きのうちに糸は、儚いモチーフになる。
涙型かと思っていたそのモチーフが、桜の花びらを象ったものだと不意に気付き、すべてがストンと私の中で納得出来た。
「……ええ」
私は声を絞り出す。
「木は、いいなと思います。木に……」
もう一度大きく息をつき、私は言った。
「木になりたいって、思います」
高校卒業後。
私は進学し、ミホはアルバイトをしながら漫画の投稿を続けた。
世間的にいうのなら、彼女はフリーターだ。
進路についてミホは、ご両親と少しもめたみたいだけど、最終的に渋々、夢を応援してくれることになった。
ミホはがむしゃらに頑張った。
寝る間も惜しんで描き続け、投稿し続けた。
片隅に申し訳程度に小さく載るだけだった名前が、少し大きめの活字で『あと一歩』とか『もう一息』の欄に載るようになった。
その頃から彼女が、だるいとか吐き気がするとかちょいちょい言うようになっていたけれど、投稿作品を描く為に無理をしているからだと本人も周りも、そして私も思っていた。
過労だけのせいじゃないと知った時には、すべてが手遅れだった。
その日、私は開店したばかりの書店で今日発売の少女漫画雑誌を買った。
そしてそのまま、市で一番大きな病院へ向かった。
何度も訪れたその病室には、痩せて小さくなったミホがいる。
「ありがとう、クミ。載ってた?『それでもルキナスはゆく』は」
小さな声でそう問う彼女へ私はうなずき、紙袋を破って、痛いくらいに角の尖った新刊の雑誌を見せる。
華やいだ表紙に小さく【漫画コンクール・佳作受賞作品『それでもルキナスはゆく』公開!】とあり……ミホは大きく息をついた。
「編集さんから連絡はあったけど……ホントに載ってるんだ」
「載ってるよ。見てみる?」
ページを繰り、『それでもルキナスはゆく』のページで折り目を付け、ミホに渡す。
ミホは何だか茫然とした顔で、印刷された自分の作品を眺めていた。
「夢みたい……」
ミホらしくもない気弱な言葉に、私は絶句してしまった。
私があまりに絶望的な顔をしていたのか、ミホは弱々しく苦笑いした。ちょっと考えごとをした後、彼女はふと表情を改めた。
「『たとえ運命が、どれほど私を翻弄しても』」
芝居がかった口調でミホは言う。
「『朝陽が美しいと思える限り、私はあきらめない』」
「ミホ……」
『それでもルキナスはゆく』のラストのセリフだ。ミホはやんちゃ坊主の笑みを、痩せた頬に浮かべた。
「これは私の夢のはじまり。そうだよね?」
もちろんそうだよ。
そう言うつもりだったのに、私の涙腺は勝手に崩壊した。
「泣き虫だなあ、クミは」
あきれたようにミホは言ったが、急に彼女は唇をかみ、顔を背けて窓の外を見るふりをした。
奇跡は起こらなかった。
ミホは召された。
あんなに夢に向かって一生懸命だった彼女が、その夢にようやく指が届いた途端、召された。
彼女の作品のヒロインのように、残酷な運命に翻弄されたとしか言えない。
彼女の病を知って以来、私は、死にたくないからという理由でぼんやり生きているだけの私の寿命とやりたいことがいっぱいある彼女の寿命とを、入れ替えて下さいと祈った。
本気で祈った。何度も何度も祈った。
神でも悪魔でも何でもいいから、奇跡を起こして下さいと祈った。
魂だろうがなんだろうが、欲しければ全部くれてやると。
だけど奇跡は起こらなかった。
彼女が召されて一か月ほど経ったある日。
私は不意に、小学生の頃の不思議な体験を思い出した。
彼女がこの世からいなくなって以来、私は、これ以上『人間の擬態』を続けるのが虚しくなっていた。
ただぼんやり、死にたくないから生きているだけの自分。
だったら……『人間』である必要などあるのだろうか?
『人間』のふりをし続ける意味などないではないかと、霊柩車で運ばれる彼女を見送って以来、心の隅でじくじく思い続けていた。
ならば、あの優しくも恐ろしい誘いのまま『人間』をやめてしまえばいい。
唐突にそう思い至った。
もしかすると私には、もうその資格はないのかもしれない。
だったら、本気で呼吸を止めることを考えればいい。
ミホのいないこの世に、もはや未練などないから。
十年も一日も同じ重さしかないらしい彼女……桜の精であろうその人は、にっこりと笑う。
「間に合って良かったわ。来年だったら私はいなかったでしょうから」
歌うように楽し気に彼女は言った。銀の編針は止まらない。
「私の身体は病んでいて、幹の中は空洞なの。放っておいたら崩れてしまうから、春が来る前に伐採する予定だそうよ」
痛みも悲しみもなさそうな、無残なまでの明るい口調。
「伐採されるとわかっていても、春の備えはやめられないのよね。年に一度の生命の宴ですもの、無駄だとわかっていても生きている限りは」
ふと手を止め、彼女は、編み上げたモチーフをそっとバスケットの上の小山へ重ねた。
「生き続ける努力をする。それが我々木の生き方。あなたがなりたい生命の形」
彼女はバスケットを抱えるようにして、ゆうらりと立ち上がった。
「でも無駄にならないならそれに越したことはないから、やっぱり嬉しいわ」
彼女はそう言うと、思い切りよくバスケットを逆さにして振り、モチーフをばらまいた。
「舞え舞え、春の宴を作りし生命の花。迷える若木の願いを叶えたまえ」
突然ごうと風が吹き、花びら型のモチーフは桜の花びらに変わった。
「迷える若木が、心の底から望む形の生命を与えたまえ!」
目の前が真っ白になった。
ごく薄い紅をはいた白の花びらが踊り狂い、私の身体を厚く包み込んだ。鼻も口も花びらがまとわりつき、急激に呼吸が詰まった。
「迷える若木が、心の底から望む形の生命を与えたまえ!」
彼女の言葉を、もう一度聞いたのまでは覚えている。
白い視界の中で、私の意識は曖昧になった。
次に我に返った時、私は自室の、自分の部屋の布団の中にいた。はっとして起き上がると、疲れたような感じにしおれた、端が茶色くなった白い花びらが舞った。
「……え?」
混乱しながら、布団の中の花びらを掬う。手を触れた途端、花びらは溶けるように消えてなくなった。
「どうして……」
私は『人間』のままなのだろう?
結局桜の精は、私を木にしてくれなかったのだろうか?
それとも、もはや私は木になれないくらい罪深い存在なのだろうか?
様々な疑問が浮かぶ。
私はのろのろと身体を起こし、習慣的に身支度をして布団を畳んだ。
布団は少し桜の葉の香りがしたけど、すぐに消えてしまいそうなかすかで儚い香りだった。
何も考えずに部屋を出た辺りで、私は突然、あの桜の精が言っていた言葉を思い出した。
『私の身体は病んでいて、幹の中は空洞なの。放っておいたら崩れてしまうから、春が来る前に伐採する予定だそうよ』
『伐採されるとわかっていても、春の備えはやめられないのよね。無駄だとわかっていても生きている限りは』
『でも無駄にならないのならそれに越したことはないから、やっぱり嬉しいわ』
窓の外を見る。
ようやく白々と夜が明け始めていた。
上着をはおり、私は小走りで例の河川敷公園へ急いだ。
公園の奥へと急ぐ。
しかし、半分もいかないうちに私は、ぎくりと足を止めた。
桜並木はそこになかった。
ボロボロに朽ちた老木の残骸が、遊歩道の端にごろごろと転がっているだけだった。
『迷える若木が、心の底から望む形の生命を与えたまえ!』
桜の精は最期の命のひとかけらまで使い、私の望みを叶えようとしてくれたのだ。
でも私は……それを、無駄にしてしまった。
きびすを返し、のろのろと公園を後にする。
しばらくぼんやり歩いていると、不意に眩しくなったので立ち止まった。
建物の間から朝陽が見える。
朝焼けを切り裂き、朝陽は輝いていた。
ああすごく綺麗だなと、こんな時なのにそう思った。
「『たとえ、運命がどれほど私を翻弄しても』」
自分でも無意識のうちに、私はつぶやいていた。
「『朝陽が美しいと思える限り、私はあきらめない』」
(朝陽が綺麗だよ……ミホ)
軽く目を閉じ、私は心の中でミホへ話しかける。
(迷える若木が、心の底から望む、生命の形……)
まぶたを開き、冴えた冬の朝の空気をゆるませる太陽の輝きを見る。
なんとなく、生きてゆけそうな気がした。