食事は大事です(2)
ヴァイオレットは少年の手をつないだまま、奥にある扉を開けた。どうやら台所のようだ。
ヴァイオレットは葉脈のような血管が浮いた、その白い肌に喜色を浮かべると、少年の手を放していそいそと室内を物色し始める。
程なくして、台所に置かれた調理台には室内にしまってあった食材が所狭しと並べられた。
ヴァイオレットは見たこともない食材に、少々どころではなく浮かれていた。
未知の物を前にしたときの興奮というものは、いつ味わってもいいものである。
「地上って、地下にはないものが色々とあるのねぇ。」
馴染みのある物も幾つかあるが、初めて見る物も多かった。見知った食材と一緒に保管されていたことを思えば、目の前に並んだ初めて目にする物達も食べられるに違いない。
期待に胸を膨らませたまま、ふと少年を振り返ると、その蒼白な顔が目に飛び込んできた。
少年は、二人が入ってきた開け放したままの扉の前で、微動だにせず固まっている。その顔は俯きがちで、どこを見ているのか定かではない。
「……うん、まぁ、そうだよね。」
ヴァイオレットは興奮から一気に冷めると、少年に近寄り、その背中に優しく手を添えた。その感触に、少年はビクリと身を震わせたが、俯いたままの視線が動くことはなかった。
この村に起こった惨状を思えば無理もない。
それを引き起こしたのが自分であり、共に地上に上がった者達なのだと思うと、なんとも言い様のない気持ちになる。
そんな自分と一緒にいるのは――。
「生きた心地がしない、かな?」
ぽつりと呟いた自分の言葉に、自然と眉尻が下がる。
もしヴァイオレットが少年の立場だったら、同じように感じるだろう。
共に育った友人や、育ててくれた親が訳もわからず居なくなったら、今の少年のようになるに違いない。
それでも、この少年にはそんな顔をしていて欲しくないと思った。酷く身勝手な願望であることは重々承知している。
ヴァイオレットは軽く頭を振って、少年の背中を優しくなでると、食材が並んだ調理台の前へと促した。何か口にしたら少しは気分も変わるかもしれない。
そう思い、ヴァイオレットは数ある食材の中からひとつをつまむと、そっと少年に差し出した。
そう、調理されていない手羽先肉を。
それを選んだ理由は、形状的に、なんとなく食べやすそうだったからだ。
さて、ヴァイオレットが調理もせずに生肉を差し出したのには少し事情がある。ヴァイオレット達の住む地下世界――モルタヴォールトには、「火」を使った「調理」というものが存在しない。地下世界はそれなりに広さがあり、換気も一応なされているとはいえ、完全な密閉空間だ。個人宅に至っては、更に区切られた狭い空間である。そんな場所で、そこに暮らす人達が勝手気ままに火を使ったらどうなるか。あっという間に酸欠か、一酸化炭素中毒で、ばたばた倒れてしまうだろう。
そんなわけで、ヴァイオレットがなんの躊躇いもなく、生のお肉を少年に差し出したのは当然のことだった。
ヴァイオレットは手にしたお肉を差し出したまま、少年のことをじっと見つめていると、その目に色が戻ってくる。まだ青ざめているものの、ヴァイオレットと差し出されたお肉を視線だけ動かして交互に見つめ、困ったように見上げてくる少年の様子に、少しだけ気持ちが軽くなった。
差し出した手をほんの少しだけ少年の方に近付けると、少年は困った顔のまま、何かを言おうとして口をつぐみ、思案げに顔を伏せる。――そして、少年は一度腹に力を入れると、おもむろに食材のある調理台の後ろ側、調理器具の置いてある方へと身体を向けた。
気持ちが暗く沈んで身体が固まってしまっているとき、指ひとつ動かし始めるのには大変な勇気がいる。少しでも動いたら、何か酷いことが起こるのではないかという錯覚が身を包んでいるからだ。
少年は、自分の身体が金縛りにでもあったかのように、うまく動かせないでいることに気付いた。
意識して大きく息を吸い込み、長く息を吐く。これを三度繰り返した。すると、その身を包む緊張が和らいだことを自覚する。
少年は少女の顔を見た。
長いこと固まっていたように思うが、目の前にいる少女はせかしたり、怒鳴ったりすることもなく、ただただ少年のことを見ているだけだった。その顔には優しそうな笑みが浮かんでいる。少年にしてみれば、それだけが救いだった。
一歩、足を踏み出せば、あとは簡単だった。
普段の習慣が少年の身体を勝手に動かしてくれた。
かまどに火をいれる。
他所の家なので多少勝手は違うが、やることはいつもと変わらない。戸惑うのもわずかな時間ですんだ。
半刻と経たず、台所から続く部屋のテーブルの上には、綺麗に盛られた皿が湯気を立てて並んでいた。
野菜のスープにサラダ、それと、少女が最初に差し出してきた手羽先肉である。
手羽先肉は、そのまま焼くと火が通りにくいので、骨に沿って包丁を入れ、左右に開いた形にしてある。塩コショウで味付けし、こんがり色付いたそれは、ほどよく脂も乗っていて、見るからに美味しそうだった。
料理が乗ったお皿を運ぶのを手伝ってくれた少女にフォークとスプーンを渡すと、テーブルを挟んで置いてある椅子に、それぞれ腰を下ろす。丁度、向かい合うような形だ。
少年はそのままスープに手を伸ばそうとしたが、少女が手を組み、目を閉じるのを見て、その手を止める。少しの間、そうしていた少女が手をほどき、食事を始めたので、少年も今度は迷うことなくスープに手を伸ばした。
少年はスプーンを動かしながら、そっと少女の様子を窺った。
少女が最初に手にしたのは、彼女が少年に差し出してきた例のお肉である。両手で持つと、その熱さに驚いたのか一旦手を放し、その熱を逃がすように左右に振っていたが、すぐに、今度は慎重に、その両端を持っておそるおそるかじりつく。
すると、少女は片方の手を頬に当て、目をキラキラさせながら、味わうように口をもぐもぐさせていた。
少年は、なんだか見てはいけないものを見てしまった気持ちになって、慌てて目をそらす。
しかし、その顔をもう一度見たくなって、そろそろと少女の顔へと視線を戻した。
「****~~っ!」
その口から漏れた言葉が何であったのか。
少年には分からなかったが、そのことが非常に残念に思えた。
父親に食事を出していた時、父親は常に仏頂面で、「おいしい」とか「うまい」とか言われたことはなかった。
代わりに聞こえてくるのは文句ばかりで、酷いときには殴ってくるのだ。
目の前の少女は、少年が作ったものを順に口へと運んでは、にこにことしている。それを見ていると、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
自然と緩む頬に気付いて、慌てて食事に集中する。
食事の間中、少女はずっと何かをしゃべっていた。
残念ながら少年にはその内容はさっぱりわからなかったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
次回の更新は、明日12/12(水)の予定です。