出会い
少年の朝は早い。
その日も、太陽が昇るか昇らないかくらいの時間から起きて動き出していた。
年は数えて八つを迎えたばかり。
だぼだぼのシャツを腰のところでベルトで押さえ、丈の合っていないズボンを履いている。浅緋色の髪は自分でハサミを入れているのか、とりあえず邪魔にならなければそれでいいと言わんばかりにぼさぼさだ。
少し肌寒くなってきた外気に、そろそろ冬物を用意しなくてはいけないなと、ぼんやりと思う。
家の側にある井戸から水を汲み、玄関の前に置いてあるたらいへと運ぶ。それがいっぱいになったところで、家の裏手側にある鶏小屋へと向かった。
与える餌が少ないからか、ここにいる鶏はあまり卵を産まない。
(せめて1個くらい産んでくれてるといいんだけど……。)
少年の母親はすでに亡く、今は父親と二人暮らしだ。
父親は些細な事ですぐに機嫌が悪くなる。
もし、少年が用意した朝食に卵がなかったら、
「お前が一人で全部食っちまったんだろう!」
と難癖を付けてきて、殴られるに違いない。
あまり嬉しくはない想像に、少年は無意識に胃のある辺りに手を当てつつ、重い溜め息を吐きながら鶏小屋の扉を開けた。
小屋の外。入り口の脇に置いてある飼料を適当に床に撒き、小屋にいる鶏がこちらに寄って来るのを確認してから、鶏達の巣箱に卵があるか確認する。
良かった。1つだけあった。これで殴られる事もないだろう。
鶏にあげる水だけ新しいものに換えて、産みたての卵を持って急いで家に戻る。父親が起きて来る前に朝食の準備をしてしまわなくては。せっかく卵があったのに、朝食の準備が遅いからといって、殴られてはたまらない。
そうして空に昇った太陽が中天を過ぎ、大分西へと傾いた頃――。
結論から言うと、今日は殴られずにすんだ。
怒鳴られるのはいつもの事なので、それだけですんだのは少年にとって幸いだった。
今日の分の畑仕事も手伝い終わり、そろそろ夕食の準備を始めようかという時間。
――異変が起きたのは正にその時だった。
地面が大きな唸りを上げて、激しく揺れた。
あまりの揺れに立っていられず、少年はその場に尻餅をつく。
しばらくすると揺れは収まり、何が起こったのか把握するため、少年は辺りを見回した。
すると、すぐにそれは目に飛び込んできた。
元々そんなに大きくはない村の西側。
目と鼻の先に巨大な塔が出現していた。
あまりの事に目を見開く。
少し息苦しく感じるのは、うまく呼吸が出来ていないからかもしれない。
程なくして、少年からそう遠くない位置で、これまた地面に這いつくばっていた父親が、大きな声でわめきだした。
――そして今――……。
目の前で起きている事に頭が付いていかず、少年はただただ、その様子を両の目に映すことしか出来ないでいた。
おそらく塔から出てきたのであろう、人……と言っていいのか。
少年とは明らかに異なる風貌の存在が、村を朱に染めていた。
塔から出てきたその人達は、その手に武器を持たない。その代わり、その腕を鞭、あるいは棍、あるいは先端を鋭く尖らせた棒の様なものに変えて、村に住む、そう多くはない人達を順に血祭りに上げていった。
まるで何かの悪い冗談としか思えないその光景を、ただただ見守ることしか出来ない少年の前に、ついにというか、とうとうというか、赤い炎の揺らめきにも似た、若い女性が静かに立った。
一瞬、少年を見たその女性の顔が、嫌そうに歪んだのは気のせいだろうか。
早鐘を打つ心臓の音が、耳にまで聞こえてきて、うるさい。
目が、あったように思う。
ほんの束の間、少年の事を見下ろしていた真っ赤な女性は、鞭へと変えたその右手を少年めがけてしならせた。
* * * * *
赤い髪をした女性――カンナは、内心で盛大に舌打ちをした。そんなに広くはない村落。子供はいないように見えた。
(こっちに来るんじゃなかったわ。)
つい今し方、耳障りなわめき声を上げていた村の男を、文字通り黙らせた彼女の目の前では、小さな子供が尻餅をついたままの姿勢で固まっている。それが大人であれば良かったのかと問われれば、もちろん良くはない。例えどんな理由であれ、殺生は好まない。
本来、カンナ達のような植物の性質を持つ人達は、育て、育む事をよしとしている。中には血を好む者もいるが、そうした者は本当に稀であり、だからこそ、今回の件は相当腹に据えかねていた。
(これも全部、使えない奥の連中のせいね。)
今頃は地中深くで安穏としているであろう人達の事を思い浮かべると、腸が煮えくり返る。もし、今、その御仁どもがカンナの目の前にいたら、この村の人々ではなく、そいつらにこそ、この鞭を振るってやりたい。
そんな内心の怒りを抑え、カンナは目の前の年端も行かない子供に視線を向けると、その赤とも橙ともつかない琥珀色の両目でひたと見据えた。
(可哀想だけど……。)
一度、大きく息を吸い込み、呼吸を整える。
(せめて苦しまないようにっ!)
空気を切り裂く音と共に必中必殺の一撃を放つ。
しかし、その攻撃は、少年に届くことはなかった。
少年が寸秒前まで居たはずの地面を、カンナの振るった鞭がえぐった。その手に伝わる想像とは違う感触に、カンナは一瞬驚いたものの、すぐさま状況を理解する。
「ヴィオレ!!」
「スミレ」を意味する花の名前を持つ、その名を呼ばれた少女の姿はすぐ側にあった。
地面にぺたりと座り込み、こちらに背を向けている少女の腕の中には、たった今、カンナが一撃をお見舞いしようとした小さな子供が収まっている。
「片付けろって話でしょ?」
非難の色を多分に含ませた声でイライラと吐き捨てる。
カンナとしてはあまり長引かせたくはないのだ。
いくら命令であったとしても、小さな子供の命を散らすのは忍びない。
とっとと終わらせてしまいたいのに、それを邪魔するヴァイオレットに、ついつい苛立ちが募るのも、無理のない話だ。
「んー……。」
だというのに、当のヴァイオレットと言えば、カンナの苛立ちにも気付かない様子で、間延びした声を出しながら、その腕に抱えた少年の事をしげしげと見つめている。
「ちょっと……。」
さらに非難の声を上げようとしたカンナの声を遮るように、ヴァイオレットがその口を開いた。
「カンナぁ。」
その甘えるような声音に、カンナは嫌な予感を覚えた。
ヴァイオレットが抱え込んでいる少年を改めて見てみる。
少年の髪の色は浅緋色。瞳の色は、ここからではヴァイオレットが邪魔で見えないが、確か緑っぽかったように思う。
そして、そんな少年が身に付けている服の色。
全体的な印象が、なんというか……、ある人物を彷彿とさせるのだ。
ヴァイオレットが少年から目を離さずに言う。
「この子、私が貰ってもいいかなぁ。」
その言葉に、カンナは思わず天を仰ぎ、鞭に変形させた腕とは反対側の手で顔を覆った。
(このブラコンがっ!!!!)
そう、少年の色彩はヴァイオレットの兄を嫌というほど思い出させた。3年ほど前、こことは別の場所に塔が地上に突き立った際、その周辺に森を作る要員として駆り出された彼女の兄は、オリーブの実を想わせる色彩を持つ人だった。
ちょうど今、ヴァイオレットが抱き抱えている少年のように。
彼女の兄が地上に上がるまでの間、一緒に過ごしたカンナでさえそう思うのだ。実の妹で、兄のことが大好きだったヴァイオレットが、少年のその姿を実兄に重ねたとしても、なんら不思議はない。
カンナは諦めの意を込めて、深くため息をついた。
これはもう、何を言っても無駄というやつだろう。
元々、気乗りしない気持ちであったことも手伝って、カンナは鞭へと変えていた腕を軽く振り、本来あるべき形へと戻した。
「好きにすればいいわ。他のヤツらが何て言うかは知らないけど。」
そう言って、肩を竦めてみせる。
ヴァイオレットはその言葉に、腕の中で硬直している少年の頭を優しく撫でて、嬉しそうに微笑んだ。