呼び出し
南の村から北の村へと続く街道を、一頭の馬が駆け抜けていた。
カリムはその背に揺られながら、少年が落ちないようにと、後ろから支えてくれているデフェルの顔を見る。
少年の住む村から大分、離れたからだろうか。デフェルの険しかった顔も、今では随分と和らいでいる。カリムは馬上で支えてくれているデフェルの身体越しに、そっと背後を覗き見る。
遠のく村の方角をじっと見つめた。
* * * * *
ロペスにある役所から程近い場所に、二階建てのアパートがある。その二階部分の一角に、ジェイダ・ベネディクトの住まいはあった。
ジェイダは日中、引っ詰めてまとめていた髪を下ろし、自ら淹れた紅茶を飲んで、一息ついている所だった。
静かな部屋に、時折、どこかの家の笑い声が漏れ聞こえる。ふっと息を吐いた。
(家庭かぁ……)
ジェイダは今年で三十八になる。出会いもなく、仕事仕事で気付けばこの歳になっていた。どこからか漏れ聞こえる喧騒が、暖かさをはらんで耳朶に響く。
(さ……っ、寂しくなんか、ないんだからっ)
誰にともなく心の中でささやくと、紅茶をひとくち、口に含んだ。
正直なところ、独り身にはその音が結構こたえる。
(独り身と言えば……)
夕方、役所を閉める頃になると、毎度の如く顔を出す、イエーガーのことを思い出す。
(あの人も、私に声をかけてくる暇があるなら、お見合いの一つでもしてくればいいのに)
冷えた手を、紅茶の入ったカップに添えて温める。イエーガーもなんだかんだと理由を付けては、舞い込む縁談をのらりくらりと躱して来たのだ。
しかし、このところ、「いい加減、嫁さん貰って後継作れ」と急かされているらしい。
イエーガーは確か四十二ではなかったか。歳を考えれば、周りが急かすのも頷ける。今頃、彼の住む邸には、いくつか釣書が届いているはずだ。
(贅沢言ってないで会えばいいのに)
こんな辺鄙な場所にある、元を正せば一地方の豪族であった男爵家に嫁ごうとしてくる奇特な方々である。イエーガーの年齢を加味しても、嫁に来たいと言ってもらえるだけで有難いことのはずだった。
しかし、彼が見合いをしたという話はとんと聞いたことがない。娯楽の少ないこの村で、そんな事が起これば、翌日には村中の噂になっていてもおかしくはないのだ。
そこまで考えて、首を振った。
(人の心配より、まずは自分の心配よね)
紅茶に映った自分の顔を見る。家族を持ちたいという願望は、ジェイダにも人並くらいにはあるのだ。
ジェイダは一つ息を吐くと、残りの紅茶を一気に飲み干した。
リリンリィーン――……。
思考を遮るように、突然鳴った呼び鈴の音に驚いて、ジェイダはビクリと身を竦ませた。こんな夜分に呼び鈴を鳴らすとは――。一体誰かと玄関扉に目をやると、近隣に配慮してか、幾分抑えた声が扉の外からかけられる。
「ベネディクトさん、すみません。ドレフ家の者ですけど――」
ドレフ家と言えば、この村には一つだけだ。「いらっしゃいますか」との声掛けに、ジェイダは慌ててティーカップをテーブルに置いた。
「今、開けますっ!」
素早く髪をまとめ上げると、テーブルに置いてあった眼鏡をかけ直し、急いで玄関の扉を開ける。そこには予想した通り、イエーガーの家でよく見かける使用人の姿があった。
「お休みのところ、申し訳ありません」
年若い青年は、軽く礼を取る。
「いえ……どうしました?」
ジェイダが尋ねると、青年は口早に用件を告げた。
「サウロに行っていたデフェルさんが、戻ってきたんです。それで、ベネディクトさんを呼んで来いと。イエーガー様が」
にこりと微笑みながら、後半を強調してくる。
いつも忙しくしている彼が、早く休みたいだろうに、こんな夜分に使いにまで出されて、少々機嫌が悪そうだ。
サウロと言えば、先日、役所に一人の男が駆け込んできたばかりで記憶に新しい。デフェルが戻ってきたというなら、話を聞くのに自分もその場にいた方が、都合がいいという判断だろう。
「すぐに準備します!」
ジェイダは一旦扉を閉めると、五分で準備を済ませ、使用人が乗ってきた馬車に勢いよく飛び乗った。
次回の更新は、明日1/11㈮の予定です。