スミレの刻印(1)
グリードとニースを見送ったヴァイオレットは、カンナと共に作業に戻った。
手の平に傷を付けると、溢れる血を地面に落とす。ヴァイオレットは見慣れた銀色の液体を見つめながら、先程グリードが言った言葉を思い出していた。
平素であれば、森が完成するまで他の人達が地上に上がってくることは、まずない。
ずっと地下で暮らしている者達だ。日の光を苦手とする種族も多い。
これまでは塔が立つと、まず樹人が地上にあがる。光が差し込まないよう、塔の周辺に鬱蒼とした森を作り、それが完成したところで他の者達が地上へとやってくる。塔のメンテナンスや警護をするためだ。
しかし、今回、地上の人が暮らす場所に塔を立ててしまったため、いつもとは流れが変わってしまったらしい。地下との連絡役にグリードがやってきたのも、その辺が理由と思われた。
(これから来る人達が、カリムのことを知ったらどう思うかな……)
ヴァイオレットは地面に血を撒きながら、近くの木陰に腰を下ろしているカリムを見た。
カリムは今日もメモを片手に、ヴァイオレット達の作業を見ている。目が合うと手を振られたので、振り返した。
カンナとニースが受け入れているようだったから、今まで大して気にも留めていなかったが、昨日のヴァインのことがある。彼はこれまでの行動から、明らかにカリムのことを良くは思っていない。もしかしたら口や態度に出していないだけで、ヴァインのように、不満に思っている者が他にもいるのかもしれない。
(私達だけなら、そんなに心配ないんだけど……)
ヴァイオレット達のように、争いを好まない者達だけならそれほど問題はない。ヴァインのように絡むことはあっても、直接、傷付けるようなことはしないと思えるからだ。
しかし、塔の警護を任されるような者達となると話は別だ。彼らの中には気性の荒い者達も多い。
カリムが地上の人であることを理由に、危害を加えないとも限らないのだ。
(それに――……)
懸念は他にもある。
地上の者たちがここを取り返しに来た場合、戦闘になるのは避けられない。そうなれば、地下から来た者たちが、間違えてカリムを傷付けるかもしれないし、目障りと感じた者達が、これ幸いと危害を加えるかもしれない。
いずれにせよ、遅かれ早かれ地上にヴァイオレット達以外の者達がやってくることは避けられない。そうなったとき、果たしてカリムは今まで通り、無事でいられるだろうか。
ヴァイオレットの胸に不安がよぎる。
「――名前か」
ヴァイオレットは浅緋色の髪の少年を視界の隅に入れると、そのスミレ色の瞳を揺らめかせた。
* * * * * *
本日の作業も無事終了し、皆が塔の中へと戻って行く頃――。
村が夕暮れに染まる中、ヴァイオレット達は畑に囲まれた道を、お馴染みとなった地上の家に向かって歩いていた。
今日はカリムも一緒である。
カリムは昨日と同様、夕飯の準備をするべく、ひと足先に家に戻ろうとしたのだが、ヴァイオレットが離れるのを拒んだ為、ヴァイオレット達の作業が終わるのを待ってから、一緒に帰ることになった。
カンナはそんなヴァイオレットに、表情には出さないものの、内心で呆れの色を濃くしていた。
(なんだか、ますます酷くなってるような……)
朝も大概だったが、グリード達と別れてから更に酷くなったように思う。作業する間もどこかぼーっとしていて、ふと我に返ったかと思うと、じーっとカリムのことを見ているのだ。
(いつもはもっとしゃべるのに、今日はずーっと黙ってるし)
隣で地面を見つめながら歩いているヴィオレットに目をやる。普段、どちらかと言えば穏やかな顔で笑っている彼女だが、今日はその笑みはなりをひそめ、どこかしんみりしてしまっている。
カリムも、いつもと違うヴァイオレットの様子に気付いているのか、ヴァイオレットに手を引かれながら気遣わしげな表情を浮かべている。
(ヴィオレがこうだと、なんか調子狂うのよね……)
普段と様子の違う友人にどうしたものかと思案していると、ヴァイオレットと目が合った。
ヴァイオレットは視線をさまよわせると、言いにくいのか、ためらいがちに口を開いた。
「やっぱり必要だと思うの」
ヴァイオレットが立ち止まる。
つられてカリムとカンナも足を止めた。
三人のあいだを乾いた冷たい風が通り抜ける。道に生えた草が夕陽の色を映してさわさわと揺れた。
「カリムは物じゃないし、どうかとも思うんだけど……」
ヴァイオレットが少年の前にしゃがみ込む。
傾いた太陽がヴァイオレットを後方から照らしているため、カンナからはその表情が見えない。
ヴァイオレットの陽に透けた白い手が、そっとカリムの頬に添えられた。
「でも、無くしてからじゃ遅いと思うんだ」
ヴァイオレットの囁きは、小さいながらも二人の耳にはっきりと届く。カンナはヴァイオレットの意図を測り兼ね、じっとその様子を見守る。
「少し痛いかもしれないけど……」
そう言うが早いか、ヴァイオレットはその柔らかな唇をカリムの頬に押し当てた。
カリムは左の頬に僅かな痛みを感じたはずであったが、そんなことよりも別の事が気になって、その痛みには気付かなかった。
「なっ……!」
カンナが短く声を上げる。カリムはオリーブ色の瞳を大きく見開き、その場に固まってしまった。可哀相に、その顔がみるみるうちに赤くなる。
時間にして短いはずのそれは、カンナとカリムの二人には、ひどく長い時間のように思えた。
ヴァイオレットがゆっくりと唇を離し、そこに浮かんだものを確かめると、満足そうに微笑んだ。
「うん、きれいについたー」
「何やってんのよ、アンタはっ!?」
間髪入れずに突っ込んだカンナは、ヴァイオレットから引き離すべく、地面に膝を付くと、カリムを腕の中へと抱き寄せた。