追い付かれてはいけない逃走劇
先ほど聞こえた音声は“その唇“から発せられていた。
しかし“その唇”は、プリッと膨らみ紅に染まったラディナの紅とは程遠い、まるでずっと放って腐りきったナスように、茶色くしなびていた。
そして一番恐ろしいのが、本来唇は顔面にくっついている付属品であるはずなのに、“その唇”は単体で空中に浮かんでいるのだ。
ちらりと見えた“その唇”の裏側は、赤茶色の土のようなざらざらしたものに覆われていた。
「むっふっふっ!驚きましたか!?」
“その唇”から、ラディナの口調で図太い男性の声が放出される。
目を閉じると、ぶりっ子ぶってるがたいのいい男性というイメージが沸き上がり、正直キモい。
「あまりいい子とはいえない使い魔から剥ぎ取ってきた唇なので使い勝手が良いとはいえませんが、一応自分の唇のように動かせますね!こういう時のために持っておいて良かったです!」
その言葉を聞いて、俺は背筋が一瞬のうちに凍るのを感じた。
電気が流されたかのように一気に全身に身震いが走り、動かないはずの脚さえもガクガク震えているように思えた。
てっきり魔法かなんかで自分で造ったのだと思っていたが、つまり“その唇”は、に、人間から切り離してきたもの……?
唇の裏側に付着していた土のようなものは、乾燥してだまになり、変色した、血……?
俺は、人から唇を剥ぎ取れるようなサイコパスに養われようとしていたのか……?
人の一部だったものが宙に浮いている、その光景を見て誰が平静でいられよう。
確かにラディナは人体実験をしていると言ってはいたが、実際にその様子を見ると見ないとでは、覚える恐怖のレベルが違う。
更に、脚が棒のように動かない状況も相まって、怖いという感情が加速度的に高ぶっていく。
最早、養われたいという本来の目的は彼方へ消えた。
とにかく逃げなきゃ。
ここから離れなきゃ。
でも脚がちっとも動かない。
でも逃げなきゃ。
「あっれ~!?さっきまでの威勢はどうしたんですか~!?主従証明書を教会に出しに行くのではなかったのですか~!?」
うなり声のような低い声で発せられるラディナの煽りも俺の耳には届かない。
逃げたいという思いが先行する。
「やっぱり貴方には、もう一度私の使い魔に戻ってもらいましょう。」
抑揚をなくした彼女の声は、
まるで刑事ドラマの、ボイスチェンジャーを使って指示をだす誘拐犯のようであった。
静かな声のはずなのに、
さざ波一つ立ちそうにない落ち着いた声のはずなのに、
一回まばたきをしただけで、目を開くとそこには全てを飲み込むほど巨大な波が立ちはだかっていそうな、
確かな“恐怖“を孕む声だった。
俺は恐怖を吸い込みすぎたらしく、少し気を抜いたら胃の中身が外に出てしまいそうな状態だった。
「さてと、」
彼女は一呼吸おいてから、“その唇”を通して少し長い呪文を唱えた。
「〈行為者変更〉ラディナ」
「〈属性付加〉〈術式偽装完了〉」
「……〈召喚〉」