5話・迷子のお姫さま
隣に立つ若者の存在を気にせずにはいられない佐保に、お萩が抱きつくようにして言った。
「佐保さま。あら。じゃないですよぉ。探しましたよ。ここにいらしたんですね? 一緒に歩いていると思ったら、お傍にいないんですもの。心配致しました~」
縁日の行なっている神社の境内脇の大木の前で、佐保と再会したお萩は、ぜえぜえと肩で息をした。神社内は人ごみで混んでいて、彼女は佐保を探す為に、流れに逆行してここにたどり着いたらしかった。今も佐保たちの後ろを、縁日を楽しみに来た大勢の人たちが通りすぎていく。どうやら人ごみのせいで、若者に抱きしめられていたのは、お萩には見られてなかったようだ。
「境内は混んでいるので、わたしから離れないで下さいね。と、あれほどお願いしたじゃありませんかあ?」
「ごめんなさい」
「迷子のお姫さん。無事に保護者が見つかってよかったな。今日は縁日で混んでいるから余所見なんかしていると、またはぐれるぜ」
「失礼ね。迷子なんかじゃありません。ただここで待っていただけですわ」
連れのお萩に注意されて謝っているときに、したり顔で口をはさんできた若者に、佐保はなんだか腹ただしくなって噛み付いた。お萩は若者を警戒して佐保に訊ねる。
「佐保さま。こちらの御方は?」
「そういえば名前を伺ってなかったわ。あのお名前は?」
「佐保さま。まぁ。見ず知らずの殿方と、そのように親しげに言葉を交わすなどと、警戒なさすぎです」
お萩が呆れたような顔をすると若者は苦笑いした。
「これはこれは手ごわい娘さんで。俺は別に怪しいもんじゃない。俺の名は伊波。父は‥藩主さまに仕えている遠藤政重だ。上の兄達は出来がいいんで、三男坊の俺はこうして下町見学に出向いているわけだ」
「あっ、え~。あの遠藤政重さまと言えば…もしやあの、門閥の宿老の?」
「ああ。そうだ」
お萩は遠藤という名にいきなり警戒を解いて、態度を軟化させた。
「まぁ。それはそれは…失礼致しましたぁ。遠藤家といえば名誉職の後三家のお一つじゃないですか。おっほっほ‥。そんなお方とお知り合いになられたなんて良かったですわ。ねぇ。佐保さま」
「ええ。まぁ」
お萩のわかりやすい態度に、今度は佐保が呆れる番だった。
宿老といえば、仙台藩内では名誉家老職にあたる。仙台藩は大名家のなかでも大大名家にあたり、所有している領土も広大なことは当然のこと、召し抱える藩士も直臣、陪臣を含めると相当な数となる。彼らに格の序列を与え乱すことのないように、仙台藩では藩士を門閥、大番士、組士、卒の四階級に分け、更に頂点に立つ門閥には、上から一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出の八階級が設けられ、藩士の厳しい身分制度が出来上がっていた。
一応、佐保の父親が一家として末席を与えられているとは言っても、行政面では奉行という名の他藩でいえば一家老に過ぎない。
宿老は直接政治にはかかわりを持たないが、何か問題が起こった場合に決定権を持ち、今までに何度も伊達家の危機を差配してきた、実績がある家柄だ。
佐保の父も、遠藤殿の判断により仕事を任せれることがあると聞いている。ないがしろにしていい相手ではない。
行政面では伊達藩のなかで藩主の次に重い立場にある方だ。と、いうことは佐保にも知れた。そんなお方の子息だと、聞いて驚きに目を見張る佐保に代わり、切り替わりがはやいお萩が頭を下げた。
「そうとは知らずに失礼致しましたぁ。わたしは水沢将信さまのお屋敷に仕える者で、こちらは将信さまのご息女、佐保さまと申します。当家の姫がお世話をかけたようで、後日改めてお礼に伺わせて頂きますぅ…」
浮ついた感じにも思える態度でお萩がお礼を言う。無理もない。遠藤政重さまのお屋敷にはお萩の好意を抱く男性がいるからだ。これ幸いと、屋敷に乗り込みかねない勢いだ。
「いやぁ。気持ちだけありがたく頂くよ」
「ま。そんなぁ。遠慮なさらずに。ねぇ佐保さま」
「ええ。ありがとう。助かりました」
お萩に肘で突付かれ、佐保も礼が欠けていたことに気がついて、慌ててお礼を言う。
伊波はお萩の豹変に驚いたのか、裏に何かあるのを悟ったのか、お礼を断わってきた。
「気にしないでくれ。お礼なんかはいいから。俺も屋敷の者には黙って出てきたからあまり大げさにしたくないしな」
「それでは当家の面目が立ちませんわ」
まだ食い下がろうとしているお萩の背にぶつかってきた者がいた。今しがたお団子屋に群がっていた男の一人だ。ぶつかりかたがわざとらしい気がする。
「痛…!」
「おっと。ごめんよ。わりぃ。わりぃ」
「ちょっと、お待ちなさいな」
「佐保さま?」
謝るにしては軽い口調だ。佐保は眉をひそめた。それと立ち去ろうとした、着流しの男の袖に藤色の巾着袋が、吸い込まれるのを目撃しては、黙っていられなかった。男の袖をつかんで引き寄せる。お萩が傍で二人の様子を見てハラハラしていた。
「何だ? 何か用かい? 娘さん」
「ええ。その、あなたがいま彼女の懐から盗んだ物を返してくれないかしら?」
「なんのことかな? なんかの間違いじゃないかい?」
「佐保さま」
佐保はきぜんとした態度をとり、男は迷惑そうに振り返った。お萩は佐保の袖を引いておろおろする。
「俺は何もやってない。言いがかりはよしてもらおうか。俺がそこのお嬢さんから何か取ったという証拠でもあんのかい?」
「そうね。残念だけどわたくしはこの目で見たのよ。このたもとに入っている物が、藤色の巾着袋でないならね」
「俺‥俺じゃねぇ・よ…」
と、言いながら佐保は相手の男から、藤色の巾着袋を取り出した。大事になる前にしらを切って踵を返そうとした男の腕を、佐保は捕まえて捻り上げた。
お萩は心配そうに見守り、伊波はやるねぇ。とでも言うようにひゅーと、口笛を吹く。
「痛ててて~」
「この人、スリよ~」
「スリだって?」
「どこだ?皆で捕まえろっ」
佐保が声を張り上げると、周囲が慌ただしくなってきた。佐保と男のやり取りを見ていた露店の者たちは、先ほどのうっ憤が晴らせるとばかりに、男に群がってきた。男は腕を振り払いその場から、悔しそうに言い捨てると走り去った。
「畜生。覚えてろっ」
「佐保さま。ありがとうございました。でも、気が気じゃなかったです~。もうあのように危険な真似は止めて下さいね」
「大丈夫よ。そうそう、あんな輩には行き当たらないでしょうよ」
「でも…」
「お萩は心配性なんだから」
お萩はまだ不服そうな顔をしている。護身術の心得がある佐保には、たいしたことではなかったが、それでも自分の仕える主に何かあってはと、心配らしい。伊波は感嘆の声をあげた。佐保は照れくさそうに告げた。
「いやあ。やるねぇ。お嬢さん。気骨がある。いったいどこであんな技を?」
「護身術の一つです。お祖母さまに女性の嗜みとして教わったのですわ」
「へぇ。あんたの祖母というと片倉の?」
「ええ。祖母のことをご存知なのですか?」
「ああ。知ってるも何も…。それよりお連れさんに心配かけたらいけないな。ああいった奴は、たいてい群れてやがるから、目をつけられたら大変だ。日が沈む前に早く帰ったほうがいいぜ」
佐保の祖母を知ってるらしい伊波は、佐保の追及に言葉を濁したが、この場から早く立去るように助言した。佐保も引っかかりを感じたものの、それ以上の追及をするのは止めた。お萩も連れているので、彼らが戻って来て仕返しをされたら厄介だ。と、いう思いがよぎった。
「そのほうがいいですわ。佐保さま。こちらの伊波さまのおっしゃるとおりですわ。何かあっては大変です。早く祈願して帰りましょう」
「祈願?」
「ちょっとこの先に用があって…」
「伊波さま。お父上さまによろしくお伝えくださいませ。では佐保さま、参りましょう」
お萩が目的のお稲荷さまのことを持ち出して、佐保はここに来た目的を思い出した。伊波と話していたらそのことをすっかり忘れていた。今日という日をあんなに楽しみにしていたのに。これはどうしたことだろう。伊波という今日会ったばかりの若者に興味が惹かれていた。
伊波に祈願について聞かれて、彼の前で詳しい事情は話したくなかった。彼に他に気になる男性の存在について語るのは憚れた。
伊波が深く追及してこようとしなかったので、なぜか佐保は心の中でほっとすらしていた。
「気をつけて帰れよ。寄り道なんかするなよ」
気持ちのいい人だ。初対面の相手だというのに、妙に親しみを向けてくる伊波に、好感がわく。軽くお辞儀して佐保はお萩と目的の場所へと向かった。佐保の手元では朱色の風車が回っていた。