4話・忍び寄る悪意
そんなある日、しばらく屋敷を訪れなくなっていた「徳さん」がいつもの供を連れて訪れた。
「大きくなったな。亀千代。僕は徳さんだよ。覚えているかな?」
「とぉくたん?」
今年で二歳になる亀千代は、初めて会ったお客人にきょとんとした顔を向けた。家綱は「もう話せるのか?」と、驚く。
「はい。この子はお話が上手なんですよ」
初子は笑いながら応える。
「さすが初子の子だな。亀千代。偉いぞ」
「徳さん。亀千代は私の子でもあるのですが」
そこまではいつもの前振りだ。家綱は綱宗の能力は認めつつも、まだ綱宗が初子に仕出かした事を、憎々しく思っているのか嫌みったらしく言う。
毎度毎度の事などで綱宗は苦笑するしなかった。そこへ大人達の様子をじっと窺っていた亀千代が口を挟んだ。
「かめはね、ととさまとかかさまのこだよ」
幼心にも父親が不利なのを見て悟ったのか、父である綱宗を庇う姿勢をみせた。それに家綱がほほ笑む。
「その通りだ。亀千代のいう通りだな」
家綱としては従姪の子である亀千代は、文句なしに可愛いのだ。最愛の従姪を横から掻っ攫って行った男の子だとしても。
「かかさま。眠い~」
亀千代は目蓋を擦り出し、初子は亀千代を抱き上げた。
「寝かしつけて参りますね」
「ああ。頼む」
初子が部屋を辞すのを見送って家綱が言う。
「乳母は付けてないのか?」
「一応、いるのですが、初子が自分で亀千代を構いたがるのですよ」
「へぇ」
家綱は不服そうだ。大名家の奥方と言うものは自分で我が子の面倒をみることはない。大体、子供の世話は乳母が見るのが当たり前なので、家綱としては奇妙に思えたようだ。
「ところで今日はどのような御用で?」
綱宗は家綱がわざわざ屋敷まで足を運んだのには、何か理由があるのだろうと思っていた。
「綱宗どの。小石川掘はどうだ?」
「今のところ順調ですよ。皆、怪我もなく作業も進んでいますからこの調子で行けばあと二月で終えるでしょうか?」
「思ったよりも早いな。もしかして毎日、現場を見に行っているのか?」
「皆に交じっていい汗をかかせて頂いております。毎朝毎晩、愛しい妻子に見送られ、笑顔で出迎えられる。いつの日か亀千代に、あれは仙台藩で作ったものなのだと胸張って言う為にも、手抜きなど出来ません」
「さようか……」
そう言って家綱は黙り込む。どうしたのかと側つきの倫を窺えば、彼は言った。
「ほら。家綱さま。やっぱり根も葉もない噂話じゃないですか」
「噂? 私のですか?」
「ああ。そなたは初子を裏切ってなどおらぬよな?」
倫の態度から、おそらく自分に関してか? と、綱宗は悟った。家綱は浮かない顔をしていた。
「とんでもありません。初子を愛おしく思っております」
綱宗は毎晩、初子と共寝していた。昨晩も深く求め合ったばかりだ。それがどうして初子を裏切ることに? 逆に問いたい気分だった。
「ある一部の者たちの間で、綱宗どのが普請工事の後で廓に毎日通っていると噂になっていたようだ。前にもそのような噂があったから信憑性は薄いが、ただ、ある花魁に入れあげて水揚げしようとしていると、聞きつけた池田光成どのから問い合わせがあったのだ」
「私が花魁を水揚げ? あり得ませんよ。作業の後はまっすぐ屋敷に帰ってきているのに、誰がそのような嘘を?」
考え込む家綱に倫が何かに気付いたかのように言った。
「あれは恐らく騙り者の仕業ですね」
「騙り? 私のですか?」
倫の確信を得たような発言に、とんでもないことになって来ているのを綱宗は感じた。誰かが自分の名を騙っているのだと倫は言ったのだ。
「ずい分と酷い話ですね。私は初子を娶ってから一度も遊郭へは行ってません。神仏に誓ってもいい」
「そう憤るな。綱宗どの。真相はこちらで探らせている」
偽物のあぶり出しはこちらに任せろと家綱は言った。
「ただ、そなたにとってこれから不利な証言が出て来るかも知れない」
「冤罪をかけられる可能性があるというのですか? ずい分と私も舐められたものです」
綱宗は目を尖らせた。誰かが自分に成りすまして廓に通っているなど許せない行為だった。普請工事の前任者は仕事の後に、遊郭に行って気を紛らわせることもあったとは聞いている。でもそれはかなり昔の話で、現在は普請工事を請け負うだけでも藩にとっては大きな出費となる。そのお金は藩の領民から取り立てた税金なのだ。それを自分の遊興に使うだなんてとんでもない事だ。
初子と別れ、江戸屋敷にやって来たばかりの頃は、確かに後ろ指さされても仕方ないような行動を取っていたことはある。
でも今は気持ちを入れ替えて、普請工事に取り掛かっている。それにはどれだけの大金が費やされているか知っているだけに、気が抜けないし、手も抜けない。
初子と結ばれ、亀千代という息子が出来てから意識が変わった。澄んだ瞳に「ととさま」と、慕われる度に「この子の為にも恥じない生き方をせねば」と、気が引き締まる。
我が子亀千代は自分の背を見て育って行くだろう。自分が父や祖父の背を追いかけてきたように。
それだけに何者かが自分を騙って遊郭に通っていたという話は、明らかに何者かが自分を嵌めようとしているように思えて仕方なかった。倫も同じ事を考えていたのだろう。
「これは綱宗さまに恨みを持つ者の仕業かも。もしかしたら────かもしれない」
倫の呟いた名に綱宗は即座に反応した。




