12話・梅の願い
このような場に佐保は花魁姿で現れた。それが意味するところは客を取っているのかも知れない。花魁になるには教養も求められるが、閨での指導も受けると聞いていた。彼女に閨の指導をしたのは誰なのか?
ここは陰間茶屋とは聞いたが、男娼だけではないのか? それとも若菜は佐保に良く似た男なのか?
勧められる酒を勢いで空ける。次から次へと疑惑という名の真実が見えない靄が、心の中を覆い尽くしていくような気すらする。
若菜が横でお酌をしてくれたが、酒の味など良く分からなかった。
花魁姿の佐保は初々しく、直視するには眩し過ぎた。自分が欲求を満たすだけに抱いてきた遊女とは全然違った。同じ装いをしていても佐保は特別だった。
それまで忘れようとしていた想いが胸の中からせせり出してきて、家綱らの前で思わず抱きしめてしまいそうになる。本来なら自分の妻になるはずだった存在。恋女房として誰の目にも触れない場所に閉じ込めておきたいほど愛おしかった。こんな形での再会なんて望んでなかった。
────佐保!
おまえは遊女なのか? すでに誰か男の手が付いたのか? 佐保が自分以外の男を受け入れた? と、思うとやるせない思いで占められた。
もし、そうなら相手は誰なのか? 征四郎か? まさか彼は佐保を連れ出し、逃走資金が尽きて佐保を廓に売ったのか?
それをたまたま客として会った家綱が同情して、このような形で自分と佐保を引き合わせようとしたのか? 憤然たる思いは尽きなかった。
第一、再会したのに佐保はどうして名乗りを上げようとしない? 仙台藩から抜け出したことを自分に咎められるのを恐れてでもいるのか?
一言、佐保だと教えてくれたなら、江戸屋敷にでも匿おう。酔った頭ではそれが無難に思えた。彼女を誰の目にも触れないよう奥座敷に隠してしまうのだ。頭巾を被せて自分以外の誰にも会わせないようにして囲ってしまえばいい。
佐保はひな壇に上げて飾っていたいほど愛おしかった。例え、徳川将軍とも言えど、このような遊びにつき合わせていいような女ではない。
彼女を保護しなくては。と、義務感に湧き立った綱宗は若菜の舞いを見ながら、藩主として一歩を踏み出した晩に、梅が会いに来た時のことを思い出した。
人払いを求めた梅は、思いつめた様子で孫娘の秘密を打ち明けてきた。佐保の母親は梅の養女で、実の母親は別にいた。その母親の名前を知り、まさかと信じられなかった。あのお方に娘がいた? と、耳を疑った。梅の話では大阪城炎上の際、千姫は身篭っていたのだという。それをいち早く気が付いた母親のお江さまの計らいで、静養の名目で梅たちのいる隠れ里に送られて密かに産み落とした子が佐保の母親なのだと言った。
当時、真田家は一族がそれぞれ各地に散らばっていた。忍びの一族が戦国の世を生き延びる為には、ひとところに留まらない方がいい。と、言うのが本家当主の意向で、真田の忍びの者達は時として敵味方に別れ、生き延びて来た。
しかし、梅は父が仕官先を次々に変えるせいで、年々放浪の民のような生活に飽き飽きしていた。出来れば地に足がついた生活を送りたかった。
そこに預けられた高貴な姫の存在。千姫と年が近いこともあり、梅が世話役を買って出ていた。そこへ千姫が赤子を産み落として数日後のこと、約束も無しに伊達政宗の臣下の片倉重長が現れて、自分達の生活が一転することになった。
梅の亡き父は合戦の最中、伊達隊と激しく戦った。その時にお互いの戦いぶりを認め合い、自分の死後、残される真田の者を頼むと言い残していたらしい。
それを律儀にも守って彼は真田の里にやってきた。皆を伊達藩で召し抱えるという、藩主の約束状を持参して。
その時に千姫の子の存在もばれてしまったが、重長は何食わぬ顔で梅たち共々伊達藩に連れ帰り、政宗には乱捕りしたと言ってのけた。
乱捕りとは生け捕りのことだ。戦場で拾った赤子だ。自分は男で子供には慣れてないから、ちょうどそこによい年頃の少女がいる。その子に世話をさせましょう。と、梅を養育係りとして斡旋し、数年経ってから彼は梅を後妻に迎えた。
その赤子は成人して水沢将信と出会い、結ばれた。そして生まれたのが佐保だ。梅はこの事を明かすつもりはなかったと言ったが、伊波が藩主となったことで、隠し通せるものでもなくなってきたと言った。
ご公儀が伊達藩を嗅ぎまわっている。そうでなくとも綱宗は今上天皇の従兄弟に当たる。そのことで幕府から警戒されているというのに、そこに豊臣と徳川の両家の血を受け継ぐ者を妻に迎えたなどと知れたなら、伊達藩に騒動が起こりかねないと。梅は佐保の幸せを願っていた。
「貴方さまの妻になると言う事は、参勤交代で江戸屋敷にも赴くことになります。もし江戸に行き、隠密にでも知れたならあの子の立場は微妙なものになる。島原の乱のことは聞いたことがおありでしょう?」
綱宗は頷いた。島原の乱とは、綱宗が生まれる三年前に起きた大きな一揆だ。島原藩の肥前島原半島と、唐津藩の飛地で肥後天草諸島の領民達が、重税や、飢饉、切支丹弾圧や、過酷な拷問に苦しめられ決起した。
その領民達の大半がキリスト教信者だった事と、その一揆の指導者として十六歳のある少年が立ち上がったことなどから、藩主は自分の失政を隠し、これは切支丹の暴動だと主張した。薄々事情を察していたはずの江戸幕府もそれを認め、島原の乱をキリシタンの弾圧の口実に利用し討伐軍を送った。
それというのもその一揆の指導者とされた少年は、今は亡き豊臣秀頼公の遺児ではないかと疑いがあったのだという。彼らの末路は悲惨だったと聞く。三万七百人の反乱軍に対し、十万を超える反乱制圧軍が押し寄せ、完膚なきまでに叩き潰された。指導だった少年の首は打ち取られた。
そんなに昔の事ではない。まだ徳川幕府が豊臣家という血筋を容認するようになるまでには、時間がかかるかも知れない。と、梅はため息を漏らした。
「あなたさまのお気持ちは分かりますが、どうか諦めて下さいませ。あの子の存在を幕府に嗅ぎつけられるわけには参りません」
あの子はわたくしの一生を投じて守りきると決めているのです。と、梅は畳みに額をこすりつけるようにして平伏した。
「どうかお願いでございます。あの子の為にも。末代の仙台藩の為にもあの子は諦めて下さりませ」
そこまでされてしまっては、さすがに綱宗も自分の気持ちを押し通すことが出来なかった。梅は気高い人物だ。その彼女が仙台藩の行く末の為にも藩主として選択を間違えないでほしいと言って来た。




