17話(最終話)・願えば叶うもの
「伊波とはあなたさまの、本当のお名前なのですか?」
「ああ。生まれたときに付けられた名前だ。本当は稲に見るで、稲見となる予定だったとも聞いてる。結局は伊波になったけどな」
「ああ。だから縁日でお会いしたとき、お稲荷様の使いだなどど、騙ったのですね?」
「佐保は俺の生母について何か聞いてるか?」
「いいえ。何も」
「俺の母親は、伏見の稲荷大社の巫女だったんだ。稲荷社は愛法の神。藩主に見初められて、側室となった母の栄誉に預かろうと、当時玉の輿を夢見て、弁天稲荷に参る者も少なくなかったそうだ。稲荷社の眷属として白狐は知られているしな。そこから白狐面は拝借した」
「ちょっと待って。弁天稲荷に参る者も少なくなかったそうだって…」
佐保が何かに気がついて口をはさむ。
「そうだ。弁天稲荷の参拝者が多かったのは母が存命中の頃だ」
「では、最近娘たちの祈願が叶うようになったのは、もしや綱宗さまが?」
「伊波でいい。二人でいるときは伊波と呼んでくれ。結果的にはそうなるかな。本来は人目につかないここを選んで忍軍たちと、秘密文書をやり取りしてたんだが…」
佐保は先ほど伊波を追いかけてきて目撃した半紙を思い出した。彼は半紙を手にとり征四郎と何やら話していた。伊波はすんなり白状した。
「ある日、たまたまある娘の願い事の半紙が密書にまぎれていて、ほんの仏心で手助けしたら、おそらくその娘から広まったんだろう。数日後には弁天稲荷に願掛けすると、願いが成就すると噂が広まったらしく、次からつぎへと願掛けする娘の、後が断たなくなってまいった」
「じゃ、それからずっと願掛けする娘たちの願い事を、かなえて差し上げてたのですね? 弁天稲荷さまに代わって?」
「種をまいたのは俺だからな。お梅にはさんざん絞られた」
「征四郎さまたちも忙しいですわね」
しょげる伊波を見ていたら、佐保は笑いがこみ上げてきた。
「うっふっふ」
「そんなに可笑しいか?」
「だって伊波さまのそんなところが可愛いなと思って」
「可愛い? 俺はそんな程度か。あいつとは違って」
伊波のふて腐れた態度に、佐保はあることを思い出した。
「あ~。見たんですね。わたくしの願かけの半紙!」
「ああ。みた。見た。何度も。俺の名前が書かれてなかった」
「だってその頃はまだあなたのことをよく知らなかったし、あれは間違いです。いまは違いますから…」
「何が間違いだって?」
必死で言い募る佐保の頬に、伊波がわざと顔を寄せてくる。
「分かってるくせに。いじわる~」
「俺みたいなガキは、好きな娘には意地悪したくなるものらしい」
「もお」
佐保は自分に向けられてくるひたむきな視線を直視するのが耐え切れず、伊波の髪を縛っている朱色の組み紐に目をやった。束ねた髪の毛の根に、見覚えのあるものが刺さっていた。
「あ。それ、わたくしの失くした簪…」
「悪い。河原での一件の後、落ちているのを拾ったんだ。返そうと思いつつも、なかなか返せなくて。こうしていつも挿してた。会ったときにいつでも返せるようにと」
伊波は自分の髪に挿していた簪を抜いて、佐保の後ろ髪に挿した。
「ありがとう。でもおばあさまに預けて下さっても良かったのに?」
「俺から直接返したかったんだ。口実をつくってでも、お前に会いたかったから」
伊波は佐保の何気ない指摘に、照れたように踵を返すと、帰宅を促した。
「さ。帰るぞ。今回はお梅にしてやられたな。俺がおまえの簪をいつまでも返してやらないので、業を煮やしたらしい」
「はい」
隣に立つ伊波を見ると、彼の頬がほんのり赤らんでいた。耳も心なしか赤い気がする。
伊波も自分のことを好いてくれている現実が嬉しくて、佐保は彼の腕に自分の手を絡めた。
「…!」
伊波は佐保の大胆な行動に、唖然としたようだが、すぐに笑みを浮かべて、自分の腕に回された佐保の手を、脇に引き寄せた。
「願えば叶うものなんだなぁ」
ぼそっと呟くようにふってきた声に、佐保が見上げると、真摯な瞳と目があった。
「あんな不実な奴より俺にしておけよ」
「はい」
日がすっかり傾いて、空には仙台藩の初代藩主が兜飾りに用いた、爪の先ほどの三日月と、その下で大きく輝く星が一つ出ていた。
「俺の嫁になったら大変かもな。俺は張子の虎だから、いつまで藩主やれるか分からないし、贅沢はさせてやれないぞ」
「そんなのもとから望んでません。わたくしは藩主さまの奥方さまなんて、荷が重いです。わたくしは伊波さまのお傍に入られればそれで…」
「それだけでいいのか?俺はお前に何も残してやれないかも知れない」
佐保は伊波の声音に、切実なものを感じとり彼の身体に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「伊波さま。伊波さまなら何でも出来ますわ。例え藩主さまにならなくても」
「知ってたのか?」
「伊波さまの素性が分かってから、父より伺いました。奥方さまが身ごもられていらっしゃるそうですね」
「それでもいいのか?」
伊波は佐保に、自分が藩主の座を追われることになっても構わないのかと、訊ねてきた。佐保は迷いなく言った。
「伊波さまは追い出されるような、お方ではありませんわ。もしその時が来るとすれば、伊波さまが自ら引かれる時でしょう」
佐保は確信を持って言った。伊波は自分で藩の為を思い、跡継ぎ騒動が起こる前に、自分から身を引くだろうと。
「参ったな。すべてお見通しか。愛しの姫には」
伊波が佐保を惚れ直したように見る。佐保は、猫のようにくりっとした瞳を、輝かせて言った。
「そうだわ。妙案があります。伊波さまは、我が家の婿どのになられれば良いではありませんか?」
「は?」
「嫌ですか?」
「いやあ。その。それは考えてもみなかったな。数年後の対策として考えておこう。はっはっは」
佐保が伊波の顔を上目遣いで見た。伊波は婿入りした場合の、お梅や将信の態度が瞬時に思い浮かんで苦笑した。
「ま。その…なんだ。今夜の月はまるで猫の爪のようだなぁ?」
「そうですね。まるで藩祖の政宗さまが見守って、くれているようですわ」
話題を変えようと空を見上げれば、夜空に浮ぶ三日月がにやりと笑ってみせたように感じた。
ふたりはどちらともなく、肩を寄せあいゆっくりと帰途についだ。
その数年後、仙台藩でお家騒動が持ち上がる。文献によれば、三代藩主綱宗公の、藩主としての統治能力に問題ありと、幕府側が判断したとある。若くして隠退蟄居を言い渡された綱宗公は、穏やかな余生をおくったとある。その傍に愛しい姫が添っていたのかは、記されてはいない。




