14話・またもや化かされたようです
幸平は宥めるように、佐保の後ろ髪をすく。
以前なら好意を抱いていた幸平に、愛の言葉を囁かれたなら、純粋に喜んでいただろう。だが実際には、首筋に押付けられた彼の唇や、髪をすく手が、気持ち悪く感じられて仕方ない。佐保の気持ちを無視して、こんな行動に出た幸平に対し、失望すると同時に嫌悪が生まれた。今までの自分は幸平の一体、何を見てきたのだろう?
幸平に自分の身体がいいようにされるのは、我慢がならない。逃れる術がないのが悲しかった。幸平が佐保の着物の合わせ目から、手を差し入れて足を撫でさする。このまま幸平に凌辱されるしかないのか。悔しさに唇を噛みしめていると、幸平の唇が近づいてきた。佐保の唇に、自分のそれを合わせようとしている。佐保は抵抗して噛み付いた。
「つ…」
「…‥!」
幸平は大人しく、自分に身をまかせていた佐保が、急にはむかってきたことに驚き、噛み付かれた衝撃で、佐保から離れた。佐保は幸平が離れた途端に、駆け出した。
「助けてぇ。誰か!」
「佐保さま。お待ちをっ」
土手を駆け上がろうとする佐保を、後ろから幸平が追いすがる。
「私はあなたが…」
「放してっ。これ以上、わたくしに触れないで。離れなさい!」
佐保に睨みつけられ、幸平は自嘲した。そこには、ぞっとするような笑みが浮かんでいた。
「逃げられると思っているのですか? あきらめなさい。あなたは私のことが、好きではなかったのですか? 私はあなたを、大事にしたいと想っていたのに…」
佐保に拒まれたことが、幸平の怒りを招いたらしい。彼に捕まれた腕をふり払おうと抗うが、なんなく捕まってしまう。
「だれかぁ。誰か助けてぇっ」
「助けを呼んでも無駄です。この辺りは普段から、めったに人が近寄らない場所ですから。さぁ、大人しく私の言うとおりにするんですね」
最後まで逆らうことを、あきらめようとしない佐保に、痺れをきらしたように言う。
「だれかぁ~」
「ぐっ!」
幸平が、お腹の辺りを押さえてふら付く。何が起こったのか分からない。佐保の耳もとに、風のように囁く者がいた。
「佐保さま。お逃げ下さい」
必死に助けを求める佐保の願いが、聞き届けられたかのようだ。
「さ、お早く!」
「待てっ」
逃げる佐保の後を、追おうとする幸平の前に、黒い影が立ちはだかっていた。
「お前は…!」
「嫌がる女性に無体を働くのは、いただけませんね」
刀を抜いた幸平は、楔形の忍具を構えた黒装束の男と向かい合った。二人の斬り結ぶ音を背に、土手を駆け上がろうとしていた佐保の腕を、何者かが引き上げてくれた。相手の顔を見て佐保は驚く。
「伊波さ・ま…?」
「大丈夫か?」
自分を気遣う目に、すがる様にして佐保は甘えた。
「怖かったぁ」
「遅くなって悪かった。嫌な目にあわせてしまったな。済まない」
伊波に謝られて、佐保は首を振る。
「いいえ。わたくしが悪かったのです。いくら相手が幸平さまとはいえ、二人きりになるべきではありませんでした」
伊波は黙って背中をさすってくれる。子供扱いされているような気が、しないでもなかったが、佐保はその手に安らぎを感じて、されるがままになっていた。
「征四郎。傷つけるなよ。捕らえよ」
「はっ」
伊波が黒装束の男に命じる。征四郎と呼ばれた黒装束の男は、段々と幸平との間を詰めて行く。伊波は素性は知れないが、他人を命じるのに慣れた感じを受け、伊波に仕えているらしい黒装束の男は忍びの者のように思える。伊波の指示に黒装束の男が、応じたところを見ていた佐保は思わず訊ねた。
「あなた方はいったい何者なの? お萩から聞きました。遠藤家には伊波という名の御子息はいないと。わたくしたちを謀ったのですか?」
「そうか。ばれていたのか。おそらくお萩は新之助あたりから聞いたんだな?」
「お願い。ほんとのことを教えて。お稲荷さまのお使いなんて、下手な嘘は止めて」
「俺はあんたを騙す気はなかったんだ。いろいろと俺には事情があって…」
佐保に必死な目を向けられて、伊波は言いにくそうに顔を背ける。彼の行動に不審なものを感じて絶望しかけた佐保の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
「佐保!。佐保~」
「不届き者はどこじゃ~。覚悟しいや!」
「まずいっ。片岡の…!」
こちらに向かって、もうもうと土煙を上げて駆けつけてくる集団を見て、伊波はぎょっとした。集団は怒涛の勢いで土手を駆け下りていく。佐保は目をこらして見たがこの煙ではよく分からなかった。
「やあやあ。見つけたぞ。にっくき不届き者! わらわの孫に手をかけようとは。その首即刻、切り落としてくれるわっ」
「ひっいいいい」
佐保の祖母お梅の声が、無情にも河原に響き渡る。土煙がおさまると、遠目にもお梅に薙刀を突きつけられた幸平が、顔を引きつらせているのが分かった。祖母の殺気がみなぎっている。このままでは本気で、首を切り落とされかねない。佐保は少し幸平に同情した。
「おばばさま?」
「おお。その声は佐保。無事でありましたか?」
佐保が慌てて声をかけると、お梅は態度を一転させて、土手を駆け上がってくると泣き出しそうな顔をして、抱きしめてきた。
「よかった。佐保。心配しました」
「我が娘をかどわかすとは。許せん。あやつを捕らえよ!」
河原では激昂している将信の指示のもと、供の藩士らが幸平を捕り囲んだ。
「縄をうて!」
征四郎をはじめ、大勢の藩士に囲まれて抵抗をあきらめた幸平は大人しく縛に就いた。佐保は祖母に付き添われて、それを見送り安堵した。
「佐保よ、悪かった。わしが相手の素性もよく調べずに、封書のみを信じて奴を採用してしまったばかりに、お前にも迷惑をかけた。怖い目にあわせてしまって、すまなかった」
父将信は佐保の両手を握って、何度も何度も謝罪した。佐保は嫌な目にあったが、父や祖母がかけつけてくれたことが、大変嬉しかった。
「お父さま。顔を上げてください。何もなかったのですから。わたくしはもう大丈夫です。それよりお父さまやおばばさまはどうしてここがお分かりに?」
父は母方の祖母と、ふたりで顔を見合わせた後、気まずそうに告げた。
「その…教えてくれた者がいたんでな。お前を屋敷から連れ出した者が、河原に向かったようだと」
「そうですか。どなたかは存知あげませんが、助かりましたわ。それよりお父さま。いまわたくしその危ないところをこちらのお方に…」
佐保は自分の危ないところを助けてくれた伊波を、父や祖母に紹介しようと、振り返るとその場にいたはずの彼はいなくなっていた。
「そんな…」
「どうした?」
「わたくしの危ないところを助けてくれたお方がいるのです。お父さま達に紹介しようと思ったのに。また逃げられましたわ。何だか化かされたみたい」
「おやまあ。化かされたなんて、まるでお稲荷さまのようだこと。おっほっほ」
佐保ががっかりした様子で告げると、祖母のお梅が笑った。
「佐保の気になる御仁だったのかえ?」
「おばばさま…」
落胆して帰途につく佐保に、寄り添いながらお梅は耳元で囁いた。三歩先を大股で行く父に聞かれないように、小声にしたようだ。
「今度はこのばばにも紹介してくれるかの?」
「はい。逃げられなかったら」
祖母との間に小さな秘密が出来たようで、佐保は祖母と目を合わせてクスリと笑った。




