13話・弱気な所に付け込まれて
「…佐保さま」
落胆する佐保が、自分の名を呼ぶ声に気がついたのは、しばらくたってからのことだった。いつの間にか一緒にいたはずのお萩が退出していた。優しい声音に、声の主を確かめようと、縁の方をうかがうと、見目形が良い男性が庭先に立っていた。
「佐保さま。少し外においでになりませんか?」
お萩が気を利かせたのだろうか? 庭には佐保が好意を抱く幸平がそこにいた。断わる理由もないので、うなずいて縁から外に降り立とうと、縁石においてあった履物に、足を通そうとする。目の前に手が差し出された。
「ありがとう」
優しい気遣いに心が揺れる。佐保は幸平と目があって、目元を慌てて袖口で押さえた。
いままで泣きそうになっていたのを見られただろうか?
「佐保さま。広瀬川の土手にいってみませんか?今はちょうどススキが見ごろですが、一部、撫子の群生が見れる場所があるんですよ」
「まぁ。ほんと? 見てみたいわ」
「では決まりですね」
佐保は幸平が、自分の元気がない理由にはふれずに、外に連れ出そうとしてくれる事に胸の内で感謝した。武家屋敷から町人街を抜けて土手の方まで来ると、辺りの人もまばらで静かだ。
空高く青く澄んだ空のもと、土手沿いにススキが生い茂り、実りに合わせて頭を垂れる稲穂のように、頭を垂れている。風が軽くススキの背を押すように、佐保の肌をも、さらっていく。
いつもなら好きな人とこうして肩を並べて歩いているだけで、至福の時のように感じられるのに、伊波のことが心に引っかかっているせいか素直に喜べなかった。
「佐保さま。その簪、素敵ですね。お気に入りなのですか? いつもしているのをお見かけますが」
「あら、これについて幸平さまに話していなかったかしら?」
「いいえ。何も」
「そう。いつも幸平さまには母の話をしてたものだからつい、話をしたものと思っていたわ。この簪はね、母の形見なの。柄も気に入ってるけど、唯一母と絆を繋ぐ物のように感じられて大事にしているの」
「そうでしたか。母君さまの…。 七三の桐の柄が素敵ですね。よくお似合いですよ」
「ありがとう」
何か思案するような素振りを見せたものの、幸平はすぐに佐保へ笑いかけた。
「ここからはちょっと下におりなければいけませんが、歩けますか?」
「ええ」
「危ないですから、足元に気をつけて」
幸平が佐保の手をとって、土手のなだらかな斜面を下りていく。佐保もゆっくりと後に続いたが、下に降り切るころに足を滑らせた。
「きゃあ」
「佐保さま」
幸平がしっかり佐保を抱きとめる。佐保の腰に腕が回された時、伊波と違ってそういうことがしなれている感じを受けた。伊波の場合よりも、幸平の吐息を頬の近くに感じて身動ぎしたが、彼の腕の中がゆるむ気配はなかった。そればかりか促される形になる。
「ご覧ください。佐保さま」
「まぁ。撫子があんなに」
二人が立つ河原には目前に薄紅色の愛らしい小花の群生が広がっていた。大地をおおっているのは河原撫子。視界が明るい薄紅色に開けて、佐保は幸平の腕の中から逃れることを忘れ、見惚れた。
「なんて見事なの。綺麗…」
「綺麗なのは佐保さまですよ」
「幸平さま?」
「ここを見つけたとき、佐保さまにぜひ、見せて差し上げたくなったのです。佐保さまは、私にとって、この撫子のように愛らしいお方ですから。気に入っていただけましたか?」
「ええ。嬉しいわ。ありがとう幸平さま」
「佐保さま」
佐保は幸平にいっそう強く抱きしめられていた。
「放して下さい。幸平さま」
「私の気持ちはご存知でしょう? 佐保さま。あなたが私以外の男性のことで悩んでいるのは見るに見かねます」
「幸平さま…」
「あなたさまが綱宗公から望まれている話は伺いました。私はあなたのその憂いを晴らして差し上げたいのです。どうか私の想いにこたえては頂けませんか?」
「いけませんわ。幸平さま。この手を放して!」
幸平の瞳が鋭さを帯びていた。佐保は幸平のただならぬ様子に、身の危険を感じて逃れようとするが、腕を捕られている為に逃げられない。怖い。
幸平は未だかつて見たこともない、危険な色を、切れ長の瞳に宿していた。日が傾く川原に佐保を押し倒す。
「好きです。佐保さま」
「駄目よ。こんなこといけないわ。やめてぇ。幸平さま」
「佐保さま。悪いようにはいたしませんから。私の妻になっていただきたいのです」
「止めてぇ。お願いよぉ」
「こんなに震えて。脅えないで。大丈夫。私にまかせて…」
幸平は耳元で囁き、首筋に唇を這わせた。佐保は身動きとれない情けなさに泣けてきた。




