Since14
放課後、いつものように桂香と合流して生徒会室に行くと麒麟と薫はまだ来ていなかった。
「今日はちょっとお手伝いを頼んでもいい?」
「もちろん」
総会資料の誤字脱字のチェックを頼まれて、部屋の隅で作業を進める。
「あれ、今日、安曇先輩来ないんですね?」
生徒会室に入っていた執行部の生徒が、時計を見ながら言うのに
「総会が近いから、こちらを優先させてもらっているのよ」
桂花が答える。
奈江はもちろん仕事に集中しているふりをした。
蓮に身代わりのことがバレてしまったので、引継ぎはもちろん中断したのだが、まさかそういって説明するわけにはいかない。
そうこうしている間に、薫と麒麟も生徒会室に来て、黙々と自分の仕事を始めた。
さすがに今週末は総会本番なので、慌ただしい。
でも、そんな中でも時折、麒麟の物言いたげな視線を感じる。
だが、あえて奈江は気づかないふりをした。
「紗枝、これお願い」
「……うん」
桂花に渡された書類にハンコを押す。
その隣でパソコンから出力した文書を、薫がずいっと麒麟の前に出しだす。
「衣笠先輩、これ確認して」
「んー。……あ、これ、OK。ファイリングして」
淡々と作業をこなしていると、いつの間にか人の出入りが途切れ、生徒会室は水を打ったように静かだった。
誰も入ってこないのを確認して、桂花が奈江を見る。
「奈江さん、なんか疲れてませんか?」
「え」
「今日は元気がないみたい。先週からの疲れが出たんじゃないの?」
「そんなことないです、……大丈夫」
「衣笠先輩が、なにかしたのかも」
それまで聞いていないような顔をしていた薫が、突然そんなことを言いだすのに、奈江はぎくりとしたが、表情に出ないように取り繕った。
「本当になんでもないの。ただ、今日こそ自分の方に登校できるかなって思っていたし……なんか調子狂っちゃった感じで」
「んー」
桂花が顔をしかめる。
「大分、無理してもらっているし、もしかしたら紗枝のがうつったとか」
「本当に、そんなことないの。これでも移らないように気をつけているし、私も病気しない方だから」
「そう?」
心配されれば、さらに落ち込む。
いつも通りに振舞わなくてはと思えば思うほど、気持ちが沈んでしまってうまく笑えない。
自分でもおかしいんじゃないかと思うくらい。
「……ちょっと、外の空気吸ってきます」
ここにいたら、どこまでも落ち込んでしまいそうだった。
「すぐに戻りますから」
少し気分転換をして、頭の中を整理した方がいい。
そう思って外に出た。
***
生徒会室を出ると、肩の力が抜けた。
窓から眺める空が晴れ渡っていて、誘われるように中庭に向かう。
すごく気を使ってもらっているのも、勿論わかっている。
でもその気遣いが今の奈江には重く、さらに麒麟の何か言いたげな様子は、プレッシャーすら感じた。
こんなことならいっそ、お昼休みに話を聞けばよかったかもしれない。
「……でも、聞きたくないし」
嫌というより、怖い。
めったに隠し事をしない紗枝ちゃんが、奈江に隠し事をしていた。
その内容が何であれ、奈江には少なからずショックだった。
お互いに小さい頃と違って、ずっと一緒にいるわけじゃないのだから、知らないことがあるのは当たり前。
そうやって割り切れらなきゃいけないと、昨日からずっと自分に言い聞かせている。
それなのに全然ダメだった。
気持ちが晴れない。
中学生の頃、紗枝が同級生と付き合い始めた時にも、すぐに教えてもらえなかったけど、こんな気持ちにはならなかった。
何がこんなに自分を暗い気持ちにさせるのか、全然わからない。
「あぁ、もう……ダメだ、これじゃ」
こんな理由もわからないことで、拗ねて暗い顔をしているなんて最低だ。
今日で最後なのだから、こんな風に気を使ってもらったまま終わるなんていやだ。
少し歩いたところに自動販売機がある。
そこで何か飲み物を買ったら戻ろう。
「あ、渉会長」
背後から聞こえた声に振り返ると、渡り廊下から中庭に降りて男子生徒が小走りに近づいてくる。
「やっと、会えた!まったく、ここ数日、いくら忙しいからって、直訴シャットアウトってどうなんですか!?」
3年生らしいその人は、ものすごい剣幕で怒鳴りながら奈江の前に立つ。
如何にも理系といった顔つきで、いかにも神経質そうに眼鏡のフレームを何度も指で直していた。
見たことがある気がするが、思い出せない。
眉間に皺が寄って、まくし立てる口調も耳障りだ。
「ともかくいつも邪魔してくれるメンバーもいないみたいだし、ウチの部の予算案、却下した理由をきっちり聞かせてもらいますよ!」
「ちょっと待って。あの貴方…」
『どこの部長さんですか?』と聞きそうになって、慌てて飲み込む。
『紗枝は各委員会、部活動の役職についている生徒の顔と名前が一致しています。覚えろというのは無理な相談でしょうし、短期間の身代わりだから無駄な事でしょう。だからできるだけ一人で接触しないように、注意してくださいね』
初日に桂香に忠告されていた言葉が、脳裏によみがえる。
絶対に名前を聞くことはできない。
ここは適当にごまかして生徒会室に逃げるのが一番良い。
「理由は却下した時に、ご説明しています。期限までに再提出をしてください。私が言えるのはそれだけです」
強気の口調を演出しようとして、まごつく舌でなんとか酷使したが
「だから、その理由が納得できないっていってんだろ!?」
怒鳴られて思わず、びくりと震える。
「こっちで再提出するにしても、納得いく理由じゃなきゃ修正もできないし。だいたい、生物部と天文部には高い機材費許可しておいて、うちだけダメって…」
生物部と天文部?
二つの部活の、何を許可したんだっけ?
……覚えてない、いや、もともと知らないのかもしれない。
チェックしているのは麒麟と桂香だし、奈江はハンコ押しているだけだ。
後ずさると、腕を掴まれた。
「おい、逃げる気かよ!?」
「…痛っ」
「会長自ら説明できないなら、却下取り下げろよ!」
紗枝の様に威勢よく言い返さないが、そっけない態度が怒りを煽ったようで、相手の態度が強硬で暴力的なものになってくる。
やだ……っ。
強くつかまれる腕が軋むように痛む。
「そんな、無理、です」
「無理じゃないだろ!」
振りほどこうとすると、強く腕を掴んで引っ張られ、痛みに涙がにじむ。
紗枝のふりをするなら、何か言い返さなくちゃいけない。
だが声を出した途端に涙が溢れて止まらなくなりそうで、きつく唇を結んでいるしかなかった。
一呼吸の間があって、相手が不審そうに目を眇める。
「あんた……なんか今日、変じゃないか?」
背筋がぞっとする。
まずい、このままでは確実に紗枝が別人だとわかってしまう。
昨日は蓮で、今日はこの3年生に身代わりがバレてしまう。
それだけは避けたかった。
躍起になって腕を振り回そうとしたけれど、ぜんぜんびくともしない。
「……風邪をうつさないように、あんまり人と話さないようにしているなんて、生徒会メンバーは言っていたけど」
覗き込まれて、顔を背ける。
やだ、やだ……こっち見ないでっ。
「やめてください!離してっ」
「まるで別人じゃないか」
「……やめて!」
我慢できなくなって悲鳴を上げた。
「おい、ちゃんと顔を見せろよ。こっち向け!」
「ゃ、やぁ……っ」
無理やり顔をあげさせようと腕が伸ばされたのに、目をきつく閉じる。
万事休す。
そう思った途端に、不意に腕を拘束していた力が消えた。
「きゃ……?」
反動で、放り出されるようにつまずく。
「…痛い!いて、いてーっ!」
奈江の腕を掴んでいた3年生の悲痛な声に顔をあげる。
力が抜けてへたり込んだまま見上げると、そこにさっきまで奈江の腕をねじりあげていた相手が、逆に腕を取られ関節をきめられていた。
「……女の子相手に、何やってんだ?」
麒麟が唸るように呟く。
「衣笠!痛いって、離せよ!」
暴れることもできずに声を上げるのに、麒麟は無表情に答える。
「紗枝もさっきそう言ったけど、アンタ離さなかったよな?」
「わ……悪かったよ!興奮してて、冷静じゃなかった!謝る!!」
謝ると言うには程遠い態度だった。
麒麟は相手を睥睨し、これ以上は無駄と思ったのか、小さく舌打ちすると腕を離した。
3年生は転びそうになりながら、無様によろけて二人から離れる。
「……っ、チッ」
態勢を立て直すと、奈江と麒麟を交互に睨みつけた。
相手の憎々しげな視線など歯牙にもかけずに、麒麟は平然と言い放つ。
「部活動の予算案なら、明日の放課後まで受付している。質問は生徒会室で受付。他は認めない。何度も言ったよな?あんだけ言ったのに、わかってないのか?」
奈江や他の人間に見せる顔とは全然違う、冷たい表情。
「丁度、渉生徒会長の姿が見えたから、ちょっと声をかけて質問してただけだ!」
「嫌がる相手の腕を掴んで、痛みに悲鳴をあげさせるのが質問する態度か?まともな話し合いをする態度じゃないな」
怒りで血走っている目で、もう一度睨みつけられて、奈江は思わず自分の身体を抱いた。
その様子に気が付いたのか、麒麟は奈江のことを背中に庇う様に立つ。
「もういい!」
3年生は吐き捨てる様に言うと、踵を返した。
逃げるように去ろうとした背中を、麒麟が呼びとめる。
「おい、日下部」
不満そうに振り返る相手に、麒麟君は目を眇める。
「科学部の実績は学校全体が認めるところだ。去年、全国高校科学グランプリで受賞してるしな。でもだからって要求がなんでも通ると思うなよ。調子に乗るな」
「その言葉、そっくり今の生徒会に返す!」
どうやら科学部の部長だったらしい。
日下部と呼ばれた人が行ってしまうのを見届けると、全身から力が抜けた。
「大丈夫?」
麒麟の声に頷く。
さっきの切りつけるような声とは違う。
そのことにも、ほっとする。
……びっくりした。
あんなふうに男の人に腕を掴まれたのは、初めてだった。
大人しい奈江は親にもほとんど怒られたことがない。もともと父親は穏やかな人だし、叩かれるなんて論外だ。
それに奈江はこれまで痴漢にあったことすらなかった。
あんな風に乱暴をする人がいるなんて。
あんなに紗枝ちゃんを恨んでいる人がいるなんて……。
そう思ったら、涙が出てきた。
「うわ?!……ちょ、……、泣くほど怖かった?」
確かに怖かったが、涙が止まらないのはそのせいじゃない。
紗枝なら泣いたりしないだろう。
きっと、あの科学部の部長さんが圧倒されるほど、堂々と威勢よく言い返したに違いない。
情けない。
……ダメだ。何もできなかった。
「奈江ちゃん、泣かないでよ……ごめん」
「…ど、して、麒麟く…が謝るの?」
「一人にするんじゃなかったと思ってさ。ちゃんと守るって約束してたのに」
おそるおそる伸ばされる手が、髪に触れる。
そっと頭を撫でられて、そのままじっとしていると、抱きしめられた。
「……っ」
あまりにも自然に麒麟の胸の中に抱きしめられたので、驚いて声も出なかった。
でも、不思議と嫌な感じはしない。
「えっと……立てる?いつまでも、ここにいるのはまずいから」
抱きしめたのは、奈江のことが隠すつもりだったらしい。
「とりあえず生徒会室まで行こう」
支えるように肩を抱かれて、歩き出す。
「あー……、奈江ちゃん泣かしたとか知られたら、紗枝に殺されるな」
麒麟の口から紗枝の名前を聞いて、自然と足が止まった。
「奈江ちゃん?」
麒麟が気遣わしげに見下ろしてくる。
「……、一人で歩けるから、大丈夫」
やんわりと、自分を支える麒麟の胸を押した。
奈江がそのまま身体を離そうとすると、腕を掴まれた。
びくりと震える。
そうすると腕を掴んでいた手の力が抜けて、そのまま指に触れた。
離れがたいという様に。
見上げると、麒麟がじっと奈江を見下ろしていた。
「せめて手をつないじゃ、だめ?」
困ったような、奈江の気持ちをうかがう様な表情に切なくなる。
奈江が何も答えずにいると、離れそうに触れているだけだった指が、絡んでぎゅっと繋がれる。
『手を、つないで』
昔、こんな風に泣いていると、手をつないでくれた子がいた。
悲しいのとも違う。
胸が苦しい。
「手を……つないで」
奈江の唇が勝手に動いていた。
「泣いていると、……こんな風に、手をつないでくれた子が……昔、いたの」
麒麟が驚いたように、かすかに目を見開く。
「……麒麟くん、私……」
そこまでいうと、涙があふれてきた。しゃくりあげて言葉にならない。
「泣かないで」
奈江は首を横に振って、手の甲で涙をぬぐう。
遠慮がちに再び背中に回る腕に、奈江は麒麟の胸に顔をうずめた。
「本当に、オレ……君に泣かれると困る。どうしていいか、わかんなくなるんだよ、マジで」
囁かれて、鼓動が早くなる。
「オレどうしたらいい?なんでもするよ、奈江ちゃんの為なら」
そんな言い方がズルい。
勘違いしてしまいそうになる。
こんなことじゃいけないと、ごしごしと手の甲で涙をぬぐった。
「……もう、大丈夫」
かすれた声を絞り出す。
「ごめん、麒麟くん」
呟くと、抱きしめていた腕が解かれた。
でもつないでいた指には、逆に力が籠められる。
これだけは離したくないという様に。
奈江はつないだ手を見ていた。
「……行こっか」
麒麟の優しい声音に、昔の記憶が呼び起こされる。
『行こっか』
自分を励ます声。
小さい頃、大好きだった友達。
『きぃちゃん』もやっぱりこんな風に優しい子だった。
多分、自分は麒麟のことが好きなのだろう。
だから唯一の友達だった少女に面影が重なるのだ。
元気で可愛くて、いつも奈江の手を引いてくれた少女。
『きぃちゃん』に会いたい。
誰にも、紗枝にさえ自分の気持ちを相談できない今、無性にあの小さな女の子に会いたくなった。