共通型お題「背中」
この話は、個人的に私の大好きだった彼女へ贈ります。
顔を見せれなくてごめんね。貴方は少なくとも私たち二人には好かれていたから。あんなに愛されていたのに、仇で返すようでごめんなさい。貴方の顔を見て、涙が止まらなかったことは本当だからね。
彼女は、鼻歌が好きだった。
僕には何の歌かわからない、けれど妙に頭に入ってくる彼女お気に入りのその歌が、幼い頃から僕は大好きだった。
入院中の彼女に、僕は今、お見舞い品を持って部屋を訪れようとしている。個室ではないから、きっと退屈はしていないだろう。
寂しいと感じるのは僕だって一緒だ。不安は恐らく彼女の方が大きいだろうが。
部屋を見つけ、彼女のベッドを探す。相部屋の患者と話し込む後ろ姿が見えた。
「母さん」
僕が声を掛けると、彼女は顔をこちらへ向け、花が咲いたような明るい笑顔を見せた。
「勇希」
話していた患者から、息子さんかい、立派そうで、などと言われ、彼女は口ではそんなことないですよ、とあしらっていたが表情はとても嬉しそうだった。
車いすを広げ、彼女はゆっくりと自分で座る。
まだそんな年じゃないと言っていたが、今は病人なんだからと僕が言うと、恥ずかしそうに彼女は車いすに手を伸ばした。
「どうなの調子は」
僕は彼女の座る車いすを押し、ゆっくり病院の庭を散歩する。
彼女のお気に入りの花は今、小さな花壇に満開に咲いていた。
「普通だよ。友達も出来た。バイトも……そうだ! 店長に、お前は覚えが早いって褒められたんだよ」
僕の取り留めのない話にも、彼女はうんうんと相槌を打ってくれる。
すごいじゃない、とか、頑張ったね、なんて、絶対に言わない人だった。
その代わり、怒るようなこともあまりない。
「あなたはどうしたいの?」
自分にも言い聞かせるように、僕に自分で気づかせるように言う。僕はそうやって育てられて来たんだ。
「あら、見てみ勇希。花壇の中に……」
彼女の指す方向を見れば、花壇に生えている雑草に混じって、四つ葉のクローバーが見えた。
珍しい。存在するのかも疑う程不確かなものを、こんなにすぐ見つけることができた。実際に見つけたのは彼女だが、この先悪いこともあまりないのでは、と物事を少し楽に見れるような気がした。
「クローバーにもね、花はあるんだよ」
「へえ、そうなんだ」
素直に僕は驚き、彼女の言葉に耳を傾けた。
「こおんな丸い小さい白い花でね、ちゃんと花言葉だってあるんだから」
幸せそうに笑う彼女の横顔を見ながら、クローバーなんだから、きっと幸福とか、そんな感じの花言葉なのだろうと思った。
部屋に戻ると看護士がいて、僕たちにふわりと笑いかけた。
「山形さん、今日は機嫌いいみたいね。息子さんがいらっしゃったからかしら」
彼女を車いすからおろし、看護士は体温計を渡した。
「この調子だと、外出願も受け取ってくれるかしらね」
そう言いながら体温を計る彼女を、僕は見つめていた。
僕が病室に入ると、彼女の姿はなかった。
車いすがある。入院して体力の落ちた体で、どこに向かったのだろう。
「母さん」
探してみればすぐに見つかった。
お気に入りの花壇の前に座り、花を見つめていた。
「勇希。綺麗でしょう、チョウチョみたいに見えるね」
「うん」
最近よく見る花は、よほど気に入ったのか、いつもここを通るたび立ち止まって花を見つめる。
今では病室に鉢うえにして飾っているほどだった。
「戻ろう。先生が心配してたから」
「そうね……」
けれどこのチョウチョのような花と、傍らに生える小さなクローバーが気に入ったのだろう、病室に飾ってある花よりも、彼女はここで見る花の方が好きなようだった。
「勇希……あんたは、子供に心配かけちゃいけないよ」
ふいに、彼女の声が、言葉が僕の胸にどんと響いた。
彼女自身、子供に心配や、迷惑をかけていることが痛いほどわかっているんだ。
「いつの話になるかな」
「約束だよ」
「……うん」
有無を言わさない言葉に、僕は些か驚いた。彼女がここまできつく言うのは初めてかもしれない。
クローバーの葉の近くから、白い丸いものが咲いているのが見えた。
「これ……花?」
僕が驚いたようにその白い固まりに手を添えると、彼女は嬉しそうに白い花を見つめた。
「四つ葉のクローバーの花言葉は"幸運"だけど、クローバーの花は"約束"というんだよ」
優しい目でそれを見ながら彼女は教えてくれた。
このクローバーの花の前で、僕と彼女だけの約束を交わした。
母の日の贈り物は、月並みだけどカーネーションを贈ることにした。
彼女の好きなものは花くらいしか思い浮かばず、けれど最高に喜んでくれるだろうと想像できた。
彼女のよく口ずさむあの鼻歌を思い出しながら、僕は病院へ向かった。
「山形さん! 今……ご連絡しようとしていたところです」
顔を見るなり看護士は目に涙を浮かべた。
つい数日前に個室に移り、それでも優しい笑顔を見せていた彼女は今、たくさんのチューブを取り付けられ、医者たちに囲まれていた。
――嘘だ。悪戯好きな彼女のことだ。医者も丸め込んで遊んでいるに違いない。
明日になれば、笑い話になる。
車いすを押しながら、彼女と二人で散歩しよう。大好きな花壇の花を見て――。
「山形さん……」
「山形さんがよく歌っていた歌? あ、知らないですか? テレビとかでもよく流れてますけど……"ケ・セラ・セラ"って歌ですよ。可愛らしいですよね、山形さんらしくて」
お世話になった看護士が教えてくれた歌は、確かにテレビで流れていたのを聞いたことがあった。
彼女のアレンジのおかげで、今まで似た歌としか思っていなかった。
「毎年、母の日に行きますね。私、本当にお世話になったんです。あなた方母子を見ていたら、とても心が洗われるような心地がしたの」
鼻声を必死に隠そうとしながら話す看護士は立派で、僕はそれがとても嬉しかった。
「あの花を見る度、まだ苦しいけれど、その内また好きになれると思います」
そう言って笑った看護士の表情は、彼女のように優しかった。
ある花屋で彼女の好きだった花を見つけた。
カーネーションにしようとしていた僕は、その花についているカードを見て、チョウチョのような花の名前を知った。
「スイートピー……」
「その花になさいますか?」
店員に話しかけられたが、僕は無視してしまいそうなくらいその花に見入ってしまっていた。
「可愛らしいでしょ、花言葉だけだと贈り物には向きそうにないんですけど」
「花言葉?」
「"門出"とか"別離"って意味があるんです。少し寂しくなっちゃいますよね」
彼女は、知っていたはずだ。
そして、わかっていたんだ。
僕が彼女の眠る墓に目をやると、あの時の看護士が立っていた。
僕を見て、酷く驚いていた。
「山形さん……花言葉を知ったんですね」
僕は泣いていた。
彼女は静かに自分の最期を見つめていたのに、僕は何一つわかっていなかった。自分はこんなにも馬鹿だったのか。
「山形さんは、気づいてほしかったんじゃないと思うの。本当にわかってほしかったなら、気づくかどうかわからないようなことしないと思います。……きっと、純粋にその花が好きだったのよ」
敬愛する貴方へ。
気づけなかった僕を赦してとは言いません。
ただ、これから僕が歩む道筋を、貴方は何をするでもなく見守っていて。
守ってくれてありがとう。
H17.8.13.